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7月5日 「誰も退けない福音」 牧師 伊藤節雄
『申命記』25:1 『ヨハネ福音書』18:12~14,19~24 祈ります。 天の父、公然と福音を語ったと言われ、何故私を打つのかと抗議されたことの意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスを捕らえた一行は、先ず、アンナスのところへ連れて行ったのです(13節)。この時ユダヤの大祭司はカイアファでした。その大祭司の所へ連れて行くのが自然だと思われますが、一行はカイアファの舅の前に連れてきたのです。義理の父親アンナスのところでした。 目の前に連れて来られた主イエスに、このアンナスが尋問します。大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねたのです(19節)。大祭司とありますが、正確には元大祭司です。しかし辞めてもなお大きな権力を持っていました。それで、今の大祭司を抑えるようにして先に主イエスを尋問し、裁判の時としているのです。尋問は、弟子は誰で何人いるのか、教えはどんな教えなのか、ということでした。大祭司は尋ねたとありますが、これは単なる質問ではありません。「尋問した」との訳もありますが、それも不十分です。これは、
5 日前
6月28日 「喜びなさい」 伝道師 金井恭子
エレミヤ書9:22-23 フィリピの信徒への手紙3:1−11 「喜びなさい」 フィリピの信徒への手紙で、パウロは何度も繰り返します。しかし、どんな時にも喜ぶことは、簡単なことではありません。私たち地上に生きる者の現実は、悩みや悲しみ、苦しみの中に置かれることが多いからです。「神さま、なぜですか」と問い、嘆き悲しむ経験をしたことがある人も少なくないでしょう。では、これはキリスト者にとっても現実的ではない、遠い次元の言葉なのでしょうか。 そうではない、私たちの喜びというものについて、これまでの礼拝で共に御言葉から聞くことができました。私たちは、良いことばかりが起こること・自分の思うような結果が得られることだけを喜びとするのではないことを知らされています。私たちの人生は、神の御手の中にあります。そして神は、ご自分のご計画の中で、私たちを完成へと導いてくださいます。その確信に生きることが、私たちの喜びなのです。現実を見ないで無理に明るく振る舞うことを求められているのではありません。暗い現実の中にあってもなお、「神が働いておら
5 日前
6月21日「神の同労者」 伝道師 金井恭子
イザヤ書52章7節 フィリピの信徒への手紙2章25〜30節 前回の2:19〜24では、パウロがテモテをフィリピの教会に送ろうとしているところを共にお読みしました。彼がテモテを選んだ最大の理由は、テモテがパウロと共に、「息子が父に仕えるように福音に仕える」者であったことでした。テモテが欠点の無い完璧な人物であったからでも、特別に優秀で強い人間であったからでもなく、キリストを第一とする心をもって生きていたからでした。 19節でパウロは、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので」という言葉と共にテモテの派遣を予告します。「力づける」の元の言葉は、「慰める」とも訳せます。彼は慰められたかったのです。パウロは福音によって教会を建て、励まし、慰めてきた人でした。そして、獄中にあっても喜び、キリストのために死ぬことは自分にとって利益であるとさえ思っている人でした。その人が、自分自身も教会の側から力づけられ慰められたいのだと素直に述べていることを、私たちは見過ごしてはならないでしょう。これは単にパウロが弱音を吐いているということではありません。
6月26日
6月14日「共に福音に仕える」 伝道師 金井恭子
サムエル記上22:12〜15 フィリピの信徒への手紙2:19〜24 フィリピの信徒への手紙の冒頭に、パウロと共にテモテの名前が記されていたことを覚えておられるでしょうか。「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督と奉仕者たちへ」とありました。先程お読みました2章19節においてテモテの名前が再び出るまで、すっかり忘れていたかもしれません。 前回までのところで、キリストの福音を宣べ伝えたことによって捕えられ獄中にあるパウロの教えについて読んでまいりました。彼は自分自身が捕えられていても、そしていつ処刑されるかわからない命の危機にありながらも、フィリピの教会の信仰と「福音の前進」を喜び、自分自身を貶めるような勢力さえ、それがキリストを宣べ伝えるものであるなら喜ぶ、と言いました。キリストに救われた者同士として相応しく生きるにはどうすればいいかを語り、キリストに倣って従順でへりくだった生き方をするようにと勧め、「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益である」とま
6月26日
6月7日「一人も失わないと主は言われる」 牧師 伊藤節雄
『詩編』17:6~12 『ヨハネ福音書』18:1~11 祈ります。 天の父、主イエスが御自分から進んで十字架に進まれた意味をお教え下さい。 主の御名によって祈ります、アーメン。 主イエスが捕らえられ縛られて連れて行かれる時の様子を細かく伝えています。 ナツメヤシの枝で喜んで迎えられた日から始まった受難週の中で、その中心と言える主の十字架の時が来ました。十字架のお苦しみ、苦難をお受けになることを、受難と言います。この一週間を受難週と呼びます。私達の教会も木曜日には、洗足の木曜の聖餐式を行います。金曜には受難日の祈りの会を持ちます。 この受難週を英語では何と言いますか。パッション・ウィークと言います。神学生になったばかりの時、この英語に驚きました。パッションとは、情熱という意味なのです。彼は情熱にあふれている、という風に言う意味なのです。そういう風に覚えていたのです。受難週を、情熱の一週間と読んだのですから驚くのは当たり前です。 十字架の出来事を伝えるのにヨハネには大きな特徴があります。12節に、兵士たちが、イエスを捕らえて縛ったとありま
6月26日
5月31日 「星のように輝く」 伝道師 金井恭子
ダニエル書12章1〜3節 フィリピの信徒への手紙2章12〜18節 「わたしの愛する人たち」と呼びかけるパウロは、自身が獄中にあるため指導者を失ったフィリピの教会の人々に、なおさら従順であるようにと勧めます。前回、共に読みました1節〜11節でも、キリストのへりくだりと従順について語られました。それは、人間の姿形で現れてへりくだられ、神と等しい者であることに固執しようとせず、ご自分を無にして僕の身分となり、十字架の死に至るまで従順であった「父なる神にすべてを委ねる」生き方でありました。私たちは、キリストの従順を真似ることはできないけれども、全てを主にお委ねして、自分を低き者として他者を尊重し、キリストを中心とした歩みを進めていくことはできる、というお話をしました。 12節の「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように」という言葉を見ると、少々緊張感がよぎります。しかし、神が怖いお方であるという意味ではありません。聖なる全能の神であられるお方への敬いと慎みを持ちなさい、ということでしょう。 神学校の学びの中で、新約聖書では「神を信じる」とい
6月6日
5月24日 「聖霊なる神によりキリストの証人とされる」 牧師 伊藤節雄
『レビ記』23:1~3 『使徒言行録』2:1~13 祈ります。 天の父、聖霊降臨日を覚えることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 聖霊降臨日を祝うとは、主の教会の誕生をお祝いすることです。それは、使徒言行録の伝えている聖霊降臨の出来事を、嬉しい喜びの思い出として記念するだけではありません。お祝いする今も、聖霊なる神を新しく受け止めて、神の御言葉を新しく宣べ伝え、新しく聴きとめることへと、聖霊なる神によって押し出されることなのです。 そうすると、毎週の礼拝でいつも聖霊降臨日を祝うことが行われているのだと気付くのです。そのことを、この聖霊降臨日に確認するのです。私達教会は、礼拝の度に、聖霊なる神を新しく受け止めて、福音を宣べ伝え、与えられた主の御言葉にお答えし、聖霊なる神によって押し出されるように礼拝の場からおくりだされるのです。 使徒言行録をルカ福音書は同じ人に書かれました。ルカ福音書が第一巻(使徒言行六1:1)と書かれています。この二つは、前編と後編の様になっています。二つで一まとまりです。この一まとまりを見る
6月6日
5月17日 「キリストのへりくだり」 伝道師 金井恭子
詩編53編1〜6節 フィリピの信徒への手紙2章1〜11節 「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心」という、既に受けている恵みに応答して生きるように、という勧めとともに、その土台となるのはキリストの十字架であることをパウロは示します。そして、彼は宣教のための一致を何度も呼びかけていますが、今日の聖書箇所でも再び、思いを一つにして一致するように呼びかけています。なぜ、このように繰り返し勧めるのか。それは、この時代にキリスト者になるということは、外部からの攻撃や迫害を受けることが多く、殉教の覚悟すら必要だったからでしょう。攻撃や迫害に屈することなく生きていくためには、教会内での一致が最も重要であったと考えられます。 パウロのフィリピの信徒たちへの手紙は、獄中で書いているにもかかわらず喜びと感謝に満ちた、深い親愛の情が溢れる内容です。フィリピの教会では、教会全体を揺るがすような大問題が起こっているという記事は見当たらず、むしろ、熱心さと奉仕において喜ばしい教会であったように見受けますが、どうやら微かな不協和音も存在
5月23日
5月10日「苦しむことも、恵み」 伝道師 金井恭子
詩編27編:1節-6節 フィリピの信徒の信徒への手紙第1章:27節-30節 フィリピの信徒への手紙を読み進めてまいりました。 今、パウロは獄中にあって自由に宣教できないどころか、命の危険さえある状況です。しかし彼は喜んでいます。指導者を失っても尚、フィリピの教会の人々がしっかりと信仰に立っていることを喜び、パウロを妬む者たちによってであってもキリストの福音が宣べ伝えられていることを喜び、獄中にある自分の身に起こったことが「福音の前進に役立った」ことを喜んでいるのです。そして、死んでこの世を去りキリストと共にいたいと熱望しながらも、しかし板挟みに悩んだ末に、地上にとどまり教会のために生きることを選ぼうとしています。「生きるとはキリストである」と言い、「死ぬことは利益である」と言うパウロは、生きるときも主のものとして生き、死ぬときも主のもとにあるのだという確信と希望を私たちに伝えています。 苦難の中にあっても喜びに満たされていることを手紙に書いたパウロは、今度は教会の人々に対する勧めを書いています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送
5月15日
5月3日 「一つになるように祈られている」 牧師 伊藤節雄
『イザヤ書』6:3~7 『ヨハネ福音書』17:20~26 祈ります。 天の父、執り成しの祈りと一つにされることの意味をお教え下さい。主の御名によって祈ります、アーメン。 彼等の為だけでなく、彼等の言葉によって私を信じる人々の為にも、お願いします(20節)。十字架の時が近付き、長いお別れの言葉がありました。そしてそのお別れの言葉がいよいよ終わろうとしています。 別れの言葉は、別れる両者の関係をよく表します。あなたが今一番別れたくない御方はどなたですか。そしてその御方とお別れしなくてはならなくなった時、どの様なお別れの言葉を掛けますか。 主イエスのお別れの言葉は沢山ありました。「互いに足を洗い合わなければならない。」(13:14)「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」(13:34)「私の名によって私に何かを願うならば、私が適えてあげよう。」(14:14)それは主イエスのお約束でもあり、ご命令、お勧めでした。 その長いお別れの言葉に挟まるような形で、主イエスが父なる神にお願いをされていることに気付きましょう。20節では、彼等の為だけでな
5月3日
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