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「いつも新しくあるために」

2022年5月8日 主日礼拝説教(復活節第4主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 申命記16:1~3
新約聖書 コリントの信徒への手紙一5:1~8

          

約4ヶ月の時を経て、本日から全ての方が礼拝堂に集まれるようになりました。主に招かれた多くの兄弟姉妹たちが、今この狭い会堂の椅子に身を寄せ合い、共に座っている。そのお一人お一人の顔が私の目に映っています。何という恵み。本当に嬉しいことです。

もちろん、文字通り全ての方が今日ここに集まれているわけではありません。しかしそのような方も、今日のこの日をご一緒に覚えながら、より一層パソコンやスマートフォンの画面の前で、また祈りの中で、共に神の御前に進み出ておられることでしょう。

これを一番喜んでおられるのは、神ご自身であられます。今この時、御前に進み出る私たちの姿を最も喜んで、見つめてくださっているお方は、神ご自身。それ故今日も、私たちに出会ってくださり、ご自身の御言葉を聞かせてくださるのです。

その御言葉を聴くとは、あらためて、どういうことでしょうか。聖書の言葉を通じて、神の言葉を聴くということ。それも主イエス・キリストを介して、私たちの耳に届けられる神の言葉。福音の言葉。喜びの知らせ。これを今日、この礼拝で共に聴くということは何を意味するのでしょうか。それは、私たちに力が注がれるということです。もっと言えば、変わる力が注がれるということです。変わる力が与えられて、古い自分が新しくされる。そしてそこで、もう一度望みをもって生き始める。否、何度でも生き直すことができる、ということです。

だからそのために、神はその時々に、必要な言葉をくださいます。時には耳の痛い、厳しい裁きの言葉や悔い改めを迫る言葉をぶつけて来られます。しかしそれは、どこまでも私たちが新しく生きられるようになるための言葉に他なりません。古いままの自分では気づき得ない自らの罪を、御前で真に悔い改めさせられることによって、神の赦しの愛の深さに、私たちが心から喜んで歩むことができるための、神ご自身の挑戦であります。決死の覚悟を伴った冒険なのであります。


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今朝は、久々にコリントの信徒への手紙一に戻って参りまして、パウロの言葉をお読みしました。「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」(5:1)。

既にこれまで繰り返し述べて来ましたように、コリントの教会は、かつてパウロが生みの親となって立てられた教会でした。ところがパウロが去った後、教会の中で問題が起きた。党派争いによる分裂の危機に直面していた。人々の不信仰な姿によって教会が揺らいでいたのです。そこでパウロは、心ちぎられるような思いで筆を執り、この手紙を書き送りました。

本日の第5章からは、コリントの教会で起きていたさらなる新しい問題が、具体的に取り扱われてゆきます。パウロの言葉によれば、今日は特に「みだらな行い」についてです。ここで「みだらな行い」と訳されている元々のギリシア語は、「ポルネイア」という言葉です。そこから「ポルノ」という言葉が生まれました。つまりこれは、とりわけ男女の性的な関係における不道徳な行為を表します。コリントの教会にそういう倫理問題が現にあった。それをパウロははぐらかすことなくはっきり指摘しながら、堂々と踏み込んでゆくのです。

「みだらな行い」と一言で言っても、色々な種類が考えられます。ここで問題とされているのは、「ある人が父の妻をわがものとしている」ということでした。わざわざ「父の妻」と表現していることから、これはある人の実の母ではなく、自分の父親の二人目の妻を指しているのでしょう。その女性とある時に関係をもった、という事だったようです。

なぜこれが問題となるのか。それは明らかに、旧約聖書の律法において(レビ記18章等)、強く禁じられていた行いだったからです。しかもその行いは、当時性的な事柄については比較的寛大であったギリシアの異邦人たちからしてみても、驚きに値するほどの野蛮な行いだったのです。許されない行いだった。「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」と記されていることがその深刻さを伝えます。


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よくもこんな恥ずかしい問題を、パウロは堂々と手紙にしたためたものだと思わされます。しかもこの手紙は、誰かある特定の個人に送った私信ではありません。コリントの教会に宛てた、公の書簡です。したがって、この手紙は教会の人々の前で、そしておそらくは礼拝の中で、説教として読まれ、聞かれたと考えられるのです。そう考えますと、パウロは決してこれを生半可な気持ちで書いたはずはありません。しかしそれは彼が勇敢だったというより、むしろこれをわざわざ公の問題として取り上げざるを得なかった、パウロの深い嘆き悲しみこそが際立ちます。しかしそれだけに、パウロが涙をのみこむようにして、今、福音の決意に固く立っている姿が、色濃く浮かび上がっても来るのです。

こうしたパウロの姿をしっかりと見据えながら、ではいったい、彼はどんな仕方でこの問題に取り組んだのか。そこに注目したいのです。そこで次の2節をお読みします。「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」。

今、あなたがたの教会では深刻な問題が起きているというのに、あなたたちは高ぶっている。悲しむどころか、高ぶっている。この批判は明らかに、「みだらな行い」をしている当の本人に対するものではなく、コリントの教会の人々全体に対するものです。つまり、個人的な問題が、教会という共同体全体の問題に重ね合わせられているのです。そしてさらに注目できるのは、性の不道徳という肉なる問題は、今ここで、「高ぶり」という、神の御前における霊的な問題として扱われているということなのです。つまり倫理の問題が、信仰の問題として見据えられている。

したがって、今日の手紙で問題とされていたはずの、ある人の「みだらな行い」という倫理問題は、実に教会共同体における「高ぶり」という信仰の問題、否、不信仰の問題として捉えられてゆくのです。


なぜそう言えるのでしょうか。どういう意味で、コリントの教会の人たちは高ぶっていたのでしょうか。それは「ある人が父の妻をわがものとしている」のを誰もが知っているのに、誰も問題にせず、見て見ぬふりをしている。その人に悔い改めを求めようとしない。先ほどお読みした2節の後半との繋がりで言えば、「こんなことをする者を自分たちの間から除外」しようとしない、そんな生ぬるい、あるいは自己保身的な姿と関係しています。

しかしなぜ、これが高ぶる姿なのか。むしろ彼らは、この問題に心を痛めながら、どう取り扱ったらよいかで困り果てていたのではないか。そんな情景も想像できます。けれども、実は彼らはもっと積極的にこの問題を肯定的に見ていた、ということのようだったのです。ギリシアの風土が生み出した高度な精神文化にどっぷり浸かっていた彼らの目からしてみれば、くだんの「みだらな行い」は、何も問題ではない。悲しむべきどころか、歓迎すべき事態だ。否、むしろ、いわゆる近親相姦さえも許容できるほどの高い精神性や、性の解放性に自分たちは生きている。そんな自負があったのです。

しかもそこには「信仰」というものが後ろ盾となっていました。自分たちは肉体の束縛から自由を得た。魂が救われた者は、もはや肉体に関する掟に縛られることはない。これこそ、信仰者に与えられた自由だ。本人も、周りも、そんな誤った自由を履き違えて謳歌していたのであります。自らの肉なる欲望や満足を正当化しながら、神の御前で己を高ぶらせていたのです。自らは何ら変わることなく、変わろうともせず、古い自分を悔い改めることもないまま、徒に信仰という名の下に、不信仰の姿を生きていたのです。


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そんな彼らに向かって、しかしパウロははっきりと戒めるのです。「むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」。とても厳しい言葉です。あなたがたは、「みだらな行い」に堕してしまった者を、自分たちの教会の群れから排除すべきだった。追い出すべきだった。こんな厳しい戒めを、しかしパウロは一歩も引き下がることなく、さらにこの後も言葉を変えて続けるのです。

3節の言葉は、パウロの覚悟を決めた言葉です。「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」。あなたがたが裁くことをしなかったその人のことを、その場に居合わせてもいないこの自分が、裁いた。しかし霊においては傍にいたのであって、もう既に裁いてしまっている。裁かずにはおられなかった。

そして5節ではこうも言いました。「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです」。そのような淫らな者をサタンの手に引き渡した。つまりキリストの恵みが支配する教会の群れから追い出して、サタンによって滅ぼされるようにした、と言うのです。そして6節から9節では、パン種と練り粉の譬えを用いながら、わずかな古いパン種が、練り粉全体を腐らせる仕方で膨らませることがないように、その悪い「古いパン種をきれいに取り除きなさい」(7節)と、ここでも畳みかけるように戒めるのです。


パウロは、どうしてこのような激しい戒めを述べたのでしょうか。しかしここで問うべきは、むしろどうしてそのように堂々と、厳しくものを言いきることができたのか。そんな彼を支えていたものは何だったのか、ということではないでしょうか。そして彼がここで本当に伝えたかったことは何だったのか。

教会の中で罪を犯す者がいたならば、自分たちの間から除外する。これは教会においては、「戒規」と呼ばれるものです。規律をもって戒めるという意味です。あまり聞き慣れない言葉かもしれませんが、私たちの教会でも、特に聖餐式において、「陪餐停止の戒規を受けている者は聖餐に与ることができない」ことを司式者が明言します。その恵みの交わりの中に入ることを認めず、まさに除外するのです。

しかしこれは、永久追放ではありません。悪玉を追い出すことによって教会を清く保とうとすることとは、似て非なるものです。その人を除外するのは、切り捨てること自体が目的ではなく、それによって真に悔い改めを求めるということに他なりません。悔い改めることで、返るべき場所に立ち返らせる。その立ち返りを、教会は信じて待つ。その意味で、戒規は外に向かってベクトルが伸び続けるものではなく、教会がその人を再び仲間として迎え入れるための、内に向かうベクトルを絶えず兼ね備えていなければならないのです。


いったい、罪ある者をただ外にはじき出すことによって保たれる教会の清さとは、何でしょうか。パウロは決して、そのような清さは望んでいません。考えてみますと、極度の理想を求める組織体は、粛清という名の下で、絶えず不正なものを排除することで自らの純化を図ろうとします。しかし、そこに安らぎはありません。いつも正しさだけが求められ、間違えれば罰せられ、追放という恐れだけが支配するからです。しかしまた逆に、不正な者や罪を犯す者が全く裁かれることのない共同体、むしろ相手を裁くことで自分までもが裁かれ、傷つけられることを恐れてしまうことが常となっている群れもまた、悪を温存させる内に、やがて足元から崩れ去ってしまうことになるでしょう。

不正がはびこり、人や物事が正しく裁かれなければならない時に、その正しく裁くということは、本当に難しいことです。特に教会の場合、キリストの福音の中心は、確かに「罪の赦し」にあるのです。裁きよりも赦しが大切である。そう教えられます。けれども、罪の赦しは、罪を大目に見ることではないのであって、それが無かったかのように、見て見ぬふりをすることでもないのです。

なぜなら、罪の赦しの本当の恵みを知るには、己の罪深さを知り、その罪を自ら悔い改めることをどうしても必要としているからです。キリストの十字架の死による罪の赦しに生きることは、自らも罪の悔い改めに生きることと一つであります。悔い改めのないところで注がれる罪の赦しは、ただの安価な恵みに留まってしまうのです。

そしてだからこそ、そうした真の悔い改めを相手に求めることのない教会の交わりもまた、罪を犯した人を野放しにすることで、結局のところ、やはりその人は暗黙の内に裁かれることになる。黙殺され、見切りを付けられる。あるいはそうなる前に、自らその群れを立ち去ることにもなりかねない。そこには裁きがない代わりに、何ら愛の交わりもないのです。実に安易な寛容さは、ともすれば、相手に対する無関心や無責任に繋がります。そればかりか、人を滅ぼすことにもなるのです。


いったい誰が、正しく相手を裁くことなどできるのでしょうか。そして、いったいどうしたら、失われた教会の交わりは回復するのでしょうか。しかしパウロは、裁かないでいるコリントの教会を戒めました。そこにキリストの真実はあるのか。そこに愛はあるのか。そう問わんばかりに。そして罪を犯した淫らな行いの人を、自らが裁きました。しかしその裁きは、もちろん相手を切り捨てることが目的ではありません。それはパウロの言葉からみて明らかです。

彼はこう述べていたのです。「それは主の日に彼の霊が救われるためです」(5節)。「サタンに引き渡した」のは、彼が滅びるためではなく、救われるためだと。そして何よりも、自分が裁いたのは、「わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって」(4節)裁いたのだと。決して権威ある指導者パウロの名によって裁いたのではない。ましてや、彼のことが赦せないという怒りで裁いたのでもない。ただ主イエスの名によって。その御力に全てを委ねて裁いたのだ。

パウロはこう述べることで、裁いた自分を誇ろうとしたのではありません。むしろ、主の御前に畏れをもちながら裁くことができた、その力をこそ、指し示したかったのです。何ら裁くことすらせず、あるいは下手にしか裁けない結果、その人を生き殺しにしてしまう、そんなどうしようもない私たち人間に向かって鼓舞する。逆に言えば、真に裁くことのできる力と勇気が与えられるところには、教会の命が生き生きと溢れ出す。そしてキリストの真の裁きと、罪の赦しの恵みの真実に、自らも生かされていることが証しされるのです。


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私たちは今日、4ヶ月ぶりに共に集まって礼拝することができました。しかし心に留めたいのは、それは単に、来会制限が解かれたから来ることができた、ということだけに支えられている事実ではない、ということです。真に主なる神が、私たちに新しい命を注ぎ、変わる力、否、本当に他者を裁く力さえも与えるために、神ご自身が私たちを招いてくださった。その真実にこそ支えられています。

私たちは今、神の恵みのバネによって引き戻されています。その恵みは決して安価なものではなく、高価な恵みです。私たちが罪を悔い改めることによって知る、キリストの赦しの恵みです。否、私たちを悔い改めの座へと引き戻してくださる、キリストの真の裁きによる恵みです。キリスト、ただこのお方だけが正しく裁き、滅びではなく、救いの道を歩ませてくださいます。赦される喜びを得させてくださいます。そして愛をもって、教会の交わりを回復してくださるのです。私たちも愛に生きるために。

人を恐れる必要はありません。畏れるべきは、ただ主のみ。「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(7節)。キリスト自らが、私たちに代わって屠られ、除外されてくださったからです。罪を犯すはずもない神の御子が、その身のど真ん中で私たちの罪を負い、その代償を引き受けてくださったからです。この献身によって、私たちは真に裁かれ、赦しの許で悔い改めるのです。悔い改めながら、赦されている恵みに生き続けるのです。どうかこの計り知れない恵みに私たち自らが生かされ、私たちの隣り人をも、この恵みのもとに導くことができますように。その力はもう、与えられているのです。

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