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「さぁ行け、そこで会おう」

2024年3月31日 イースター礼拝説教(いっしょ礼拝・復活節第1主日)
牧師 朴大信
新約聖書 マタイによる福音書28:1~10      

            

「おはよう」!

これは朝の挨拶だけでなく、実はイースターの挨拶でもあります。復活された日の朝、イエス様が最初にこう仰ったからです(9節)。もちろん、復活の出来事は「明け方」(1節)、つまり朝だったので、このような挨拶をされた。そう理解することもできるでしょう。けれども、この言葉にはもっと深い意味があります。

実はイエス様はここで、「喜びなさい」という気持ちを込められたのです。「喜んでいいんだよ、否、喜べるはずだ!」と。だからこそまた、この言葉は「あなたがたに平和があるように」という祝福ともなります。「シャローム!」。いったい、なぜ主イエスのご復活が喜びであり、平和をもたらすものとなるのでしょうか。


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先日、私はあるニュースを見てしばらく考え込んでしまいました。それは、ある団地の公園に設置されたベンチを巡るニュースでした。そのベンチは、ちょっとユニークな形をしている。まず背もたれがない。しかし特に不思議ではありません。不思議なのは、長い座面が平らではなく、アーチ状になっているということでした。これを見て、ある人の目には「お洒落なデザイン」と映る。また、子どもたちもそこに跨ってまるでお馬さんごっこをするように楽しく遊ぶ光景も見られる。

しかしこのベンチがニュースになった本当の理由は、それが団地の多くの住人の不評を買っている、という事情からでした。「こんな形のベンチでは、子どもたちやお年寄りが危ない。座りにくい」。「否、待てよ、もしかしたら、わざと座りにくく作ったのではないか?」。そんな疑念や噂が立ち始めていたということです。

実はこの公園には、以前からホームレスの人たちがやって来て、ベンチを寝床にしていたようです。そこを行き来する団地の人々の気持ちもきっと複雑だったに違いない。一部から苦情が寄せられていたのかもしれない。理由は定かではありませんが、しかしある日、公園のベンチが様変わりしてしまった。以来、そこにはホームレスの人たちの姿は見られなくなりました。

ある人々にとっては、これで問題が解決したと言えるでしょう。しかし、本当にそれで解決したのでしょうか。このベンチの評判が芳しくなかったのは、そこに「ホームレス排除」の意図が見え隠れしていたからでありましょう。当のホームレスの人たちからすれば、追い払われたことで、次の住みかを探さなければならない。あぁ、ここでもまた自分たちは歓迎されない。かれらには身寄りがおらず、住まいもないだけでなく、自分たちは社会から汚れ者、あるいは、せいぜい透明人間のようにしか扱われず、全く除け者にされている。孤独だ。そんな思いを募らせているのではないでしょうか。


孤独であるということ。本当に独りぼっちになってしまうこと。そんな経験をこれまでされ、あるいは、まさに今、その真っ只中に置かれ、辛さを募らせておられる方もいらっしゃることと思います。心にぽっかり穴が空いたような心地。周りは賑やかなのに、何をもってしてもその空洞を埋めることのできない、言いようもない寂しさや虚しさ。そんな孤独のどん底に転げ落ちる時、私たちは、その孤独が直ちに死を意味する程の恐怖に感じられるということも、あると思うのです。

人生の苦しみは、十人いれば、十通りの苦しみがあるでしょう。そのように決して比較等できない、各々ののっぴきならない苦しみがある中で、しかしおよそ人間として生きる限り、それらの違いを貫いて、なお通底する最も深い苦しみのどん底があるとするならば、それはいったいどんな苦しみでしょうか。

私には、それこそが「孤独」だと思えてならないのです。今自分の身に起こっている災難や苦難そのものにも増して、本当にそこで私たちが苦しむのは、その重荷を、なおもたった一人で背負い続けていかねばならないやり切れなさ、またその思いを誰にも理解してもらえない辛さ、そして、自分がなぜこんな状況に陥ってしまったかについての本当の意味や理由が分からない虚しさ、というものに捕われてしまっているからではないでしょうか。

要するに、あらゆる関係や意味から切り離され、もはや神からも見捨てられた絶望の中で、本当にそこに独りポツンと取り残されたような孤独であります。どん底というより、もはや底なしの闇の淵が下から大きな口を開けるようにして、私たちを吞み込み尽くしてしまう慄きであります。直ちにそれが死を決定づけてしまう程の孤独というものを、私たちは、実際には死んでいなくても、経験することがあるのではないでしょうか。


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孤独とは、何か大切なものや、人を、失うことから始まります。自分にとって無くてならないものが、突然、意図せず奪われてしまうところから生じるものです。

今朝、共に与えられましたマタイによる福音書に登場する人々も、そうでした。弟子たちも、女性たちも皆、失ったのです。奪われたのです。愛するイエス様を。そしてイエス様と共に歩む中で掴んでいた希望の将来を。その失った悲しみを抱え、奪われた苦しみを背負いながら、例えば女性たちは、死んでしまった主イエスが葬られた墓の前で悲しみと孤独を募らせていました。あるいは弟子たちは、失意の内に散り散りになり、ある者は故郷に帰って行きました。

いずれも、心の中にポッカリ空いてしまった穴を、何とかあの手この手で塞ぎながら、必死に堪えていたのではないでしょうか。底なしの真っ暗闇の空洞に、自分がこれ以上呑み込まれないように、墓穴を大きな石で塞ぐように封印していたのではないでしょうか。


しかし、まさにその墓石が今日、動かされたのです! 「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」(2節)。

天の御使いたちが、墓穴を塞いでいた墓石を自ら転がして、その上に座った姿を聖書は描きます。この墓石は、そんな簡単には動かないものです。否、決して動かしてはならないものでしょう。なぜなら、もし墓穴が再び空いてしまったら、死の不気味さや呪いが、異様な死臭と共に襲い掛かって来るように思えるからです。悲しみや孤独、あるいは死に対する恐れが溢れ出して、自分を一気に呑み込んでしまうかもしれないからです。

それらを全て封じ込める墓石が、しかし、転がされた。しかも、その上に天使が座るのであります。死を象徴する墓石の上に、神の力が働いた。死を上回る神の力がそこに注がれて、死に勝利した。そんな出来事を告げる姿のように映ります。そうです。今や死は、打ち負かされたのです。そして暗い墓穴に、光が差し込まれました。届かないと思われた死という底なしの暗闇に、確かな光が届いたのです。

そこで天使は告げます。「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました。』」(5~7節)。

涙するしかない死の現実を見せつけられ、愛する者を失った孤独という闇の彼方から、希望の光が差し込み、女性たちを捕えました。そしてその光の中で、天使の声が聞こえました。しかしその声は、畳みかけるような勢いがありました。復活という仰天ニュースを、一気に語り告げたのです。ちょっと待って…今何と…? 女性たちは息つく間もなかったことでしょう。

「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(8節)。恐れているのか、単なる幻想なのか、もう何が何だかよく分からない状況だったかもしれません。しかしなぜか喜びが勝って湧き起こり、促されるようにして、彼女たちは走り出すのでした。


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そして走って向かい出した先で、本当の主イエスに出会います。「おはよう」。「喜びなさい」。「シャローム」。そう言われます。ただ、二言目には、こう言われるのです。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

これは要するに、「さぁ行け、そこで会おう」ということです。もう少し踏み込めば、「さぁ行け、説明は後だ。ここに留まらないで、私が命じる所へ行きなさい」。「死という絶望、孤独という悪夢の前にたじろぐ必要はなくなったのだから、ここから立ち去りなさい。私はもう、その闇の中にはいないのだ。それらは全て不確かなもの。あなたを永遠に虜にするものではない。私はこれに勝利したのだから!」。

主が命じられる先へ、先へと向かわせる力だけが、今確かに人に働き、押し出してゆきます。そのようにして、お甦りの主イエスは私たちに呼びかけ、道を示し、その場所に先回りして待ちながら、闇から光へと向かう私たちの人生を喜び、共に歩んでくださいます。

いったい、私たちが「復活」の主イエスに出会うとは、どういうことでしょうか。またそれによって、「永遠の命」が約束されるとは、何を意味するのでしょうか。命がずっと続くということでしょうか。しかし私たちは、なおも死にゆく存在です。死という厳然たる事実の前になす術もなく、絶望を抱かされ、孤独を募らせます。死んでしまったら、本当にそこで終わり。あらゆるものから切り離され、底なしの闇に葬られてしまうのです。

そのような死を、私たちは時に、生きていながらも経験することがあります。孤独が直ちに死を意味するような慄きの中で、死んだように生きる他ない苦しみの現実があります。しかし、そんな孤独を極める私たちの人生のただ中に、お甦りの主が現れてくださるのです。「おはよう」という祝福の言葉で包み込みながら、しかしまた、「さぁ、行け」と私たちを奮い立たせ、再び走り出させてくださるのです。

ちょうど今朝、子どもたちが目をキラキラ輝かせながら卵探しをしたように、私たちも自らの人生において、キリストを探し求める旅を続けることでしょう。けれども、宛のない旅ではありません。キリストは生きておられるからです。生きて私たちを促し、待ち、じっと見つめつつ探し出してくださるお方だからです。その眼差しに私たちの目が合う日こそ、喜び溢れる時です。

ここに復活の力がみなぎります。永遠が溢れ出します。なぜならここに、神の変わることのない愛が貫かれているからです。私たちは変わり果て、朽ち果ててゆくとしても、神の愛はブレない。離れない。そして私たちと共にあり続けるのです。絶望の中にではなく、希望の中に留まらせるために。死ではなく、永遠の命を生きるために。神は我々と共におられます。インマヌエル・アーメン! シャローム! イースターおめでとうございます。


<祈り>

天の父よ。深い死の淵に光をもたらし、その闇を打ち破って勝利してくださったあなたの栄光を讃えます。今や、光から光へと歩むことが許された私たちの道を、命を、喜びを、どうか永遠の祝福の内に導き続けてください。あなたの愛は、復活のキリストを通して、私たちと共に生き続けます。感謝します。インマヌエル・アーメン!


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