2022年9月25日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第17日)
牧師 朴大信
旧約聖書 エレミヤ書20:7~12
新約聖書 コリントの信徒への手紙一9:12~18
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今朝与えられましたコリントの信徒への手紙一は、12節からお読みしました。前回は3節から12節までをお読みしましたので、私たちは今日、この12節をもう一度重ねて読んだことになります。
この12節は、その内容からして前半と後半に分けることができます。そのことが良く分かるように、私たちの聖書も段落が分かれています。そしてパウロがここで言いたかったことは、言うまでもなく、「しかし」から始まる後半であります。「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」。
「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」。前回もこの言葉に注目いたしました。キリストの福音が伝えられる通り道を、この自分が邪魔してはいけない。福音そのものに人を生かす力があるのだから、自分はただ、この福音に仕えるだけ。この福音が目指す所へと押し出されるだけ。そしてここにこそ、私があなたたちの「使徒」であることの根拠がある。真実な姿がある。パウロはそうした思いを込めて言うのであります。
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ところで、気づきにくかったかもしれませんが、今日お読みした18節までのパウロの言葉の中で、「福音」という言葉が何度使われていたでしょうか。7回です。この第一コリント書全体で見ても14回でありますから、実に半数が、この短い一段落の中に集中して使われていたことになります。それほどパウロにとって、福音が大切であった。否、大切であるからこそ、それを守り抜く戦いもしなければならなかった。福音が福音でなくなってしまわないための戦いです。
ご存知の通り、福音というのは「良い知らせ」という意味です。知らせである以上、人に届けなければならない。福音そのものが、人々に届けられることを願っている。なぜなら、この福音がちゃんと人に届くかどうかは、その人が生きるか死ぬかに深く関わるからです。否、その人だけではない。伝える人と、伝えられる人が共に生きるか死ぬかに関わっているからです。キリストの福音は、それほど決定的に重要である。救いか滅びかに直結する事柄だからです。
昨日のことでありましたけれども、私は学生時代からのある友人の結婚式に出席して参りました。そこで一つ、おやっと思うことがありました。教会で行われたその結婚式において、次の聖書の言葉が読まれたからです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅱテサロニケ5:16~18)。
お気づきになった方もおられるでしょう。一昨日行われました、私たちの敬愛する一人の姉妹のご葬儀の時にも読まれた箇所でありました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。これが、一方では葬儀で読まれ、他方では結婚式で読まれる。御国への旅立ちの時と、人生の新たな門出の時。状況はまるで違います。けれども、同じ福音の御言葉が与えられた。これは単なる偶然だろか。
昨日の結婚式の礼拝では、その司式をされた牧師からこんな解き証しを伺いました。「いつも」喜び、「絶えず」祈り、「どんなことにも」感謝しなさい、と言われる。つまり、生きている全ての過程でそうしなさい。そうできないような時であっても、そうしなさい。しかし、それはどだい無理な話だ。けれどもこれは、神が私たちに望んでおられることだ。だからそれを可能にする根拠は、神の側にある。神に由来する力の中で初めてできること。神の助け無しにはできないこと。その神の御許に立ち返る大切さと恵み深さこそが、この御言葉が言わんとするメッセージだ。
そう言いながら、最後にこう締め括りました。神の御許に立ち返る。それは私たちが、「死」という厳然たる事実を直視する中で、真剣に促されてゆく姿だ。今は晴れて夫婦として結ばれたこの二人を、やがて耐え難くも分かつ「死」の力。そしていつかは、自分とこの世との間をも分かつ「死」の力。この恐れ多き死を見つめながら、しかしまさにこの死という闇の力に対して、神が何をしてくださったか。キリストが私たちにどんな福音を約束してくださったのか。この福音に立ち返らされる時に、私たちは新しくされるのです、と。
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今日のパウロの手紙の中で、「死んだ方がまし…」(15節)という言葉がありました。一般的には、決して軽い気持ちで口にしてはいけない言葉です。死んだら自分がどうなってしまうかを熟慮せず、ましてや、その死のために神がどれほど御心を砕いてくださったかさえ目を閉ざしながら、なおもこの言葉を迂闊に使うとしたら、やはり私たちは一度立ち止まらなければならないでしょう。
その言葉を、しかしパウロがここで使っているのです。使徒ともあろう人が、「死んだ方がまし」と言い放っている。死を打ち破る神の永遠の命の恵みを、その存在をもって知っているはずのパウロが、しかし今、自分の身に降りかかっている全ての困難や屈辱を、自分の死をもって終わらせようとし、投げやりにさえなっている。
その意味でパウロは、今ここで理性を失い、感情が高ぶっているように見えます。これを言わずにはおられない、パウロの苦しみが滲み出ています。否、実は本音では、いくら死んでも死にきれない思いで苦しんでいる。そんな思いに駆られていたに違いありません。ではいったい、そこで彼が語りたかった事は何だったのでしょうか。
もう一度、この言葉が記されている15節全体を、読んでみます。「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」。
「わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません」。「この権利」とは何でしょうか。実は12節後半にも、同じことが言われていました。「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした」。
既に前回見ましたように、そして今日の13~14節にもありますように、パウロは繰り返し、少々くどい思えるほど、様々な権利について力説しました。そして色々述べながら、結局彼が「この権利」という表現で主張したかったのは、自分が使徒として持つべき権利の正当性でありました。つまりその権利とは、福音を宣べ伝えるパウロのような使徒たちが、その務めをしっかり果たしていけるよう、教会から経済的な生活の支えを受ける権利のことです。そしてこれは、あのモーセの律法も、そして主イエスご自身も、当然の権利として認めているものではないかと、畳みかけるのです。
その当然の権利を、「しかし、わたしは何一つ利用したことはありません」。これが、パウロの最も言いたかったことでした。もしその権利を使って自分の生活が保障されるくらいなら、「死んだ方がましだ」とさえ言える。否、実際にはその権利を用いていないのに、あなたたちはあらぬ疑いや批判の目でこの私を誤解している。なぜ私の本当の姿を分かってくれないのか。いったいあなたたちとの関係は何だったのか。私は悲しい。苦しい。死んでも死にきれない…。
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いったいなぜ、パウロは自分の権利を行使しようとしなかったのでしょうか。一つには、そのせいでキリストの福音の妨げにならないようにするためです(12節)。そしてまた、これはパウロ自身の「誇り」とも結びつくものであったのです。「だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」(15節)。
パウロの、これ程までの潔白な姿から想像できることは、彼は、自らがいわゆる「職業伝道者」として見られることをひどく嫌ったのではないかということです。つまり報酬をもらうことで、教会を食い物にしていると疑われるのを嫌ったのです。自分は報酬のために働いているのではない。報酬などに決して縛られない自由と自発性において仕えることを誇りとしているのに、その誇りを、相手に見えなくさせる職業化された伝道者の姿に陥ることに、どうしても耐えられなかったのでありましょう。
昨日の結婚式で、私は久しぶりに大学時代の友人たちとも再会し、披露宴でのテーブルを共に囲みました。そしてそれぞれが互いに、今の自分の近況報告や仕事の話を交わし合いました。その内の一人の話がとても印象的でした。
その彼は、今は音楽家となっていました。プロのジャズミュージシャンとして、着実に実力と人気を積み上げながら活躍の場を広げている彼は、その日の披露宴でも、一芸を見事に演じてくれました。ところが彼は、意外にも次のような胸の内を明かしてくれたのです。「自分は今、『職業音楽家』にはまっていく自分がとても怖いと思う。確かに音楽で身を立てて収入もそれなりに安定しているし、人々の期待やニーズに対しても、プロとして応えるだけのセンスや技術もそれなりに持ち合わせている。自信もある。でも実は、そこで満足してしまっている自分が今一番怖い。音楽を通して何を伝え、何をしたいのか。そんな、自分を根本から駆り立てている使命感や誇りというものが、今見えなくなっている。それが本当に怖い」のだと。
私は、ハッと我に返りました。彼が職業音楽家なら、私はまさに「職業牧師」と言って間違いない。皆さんからの尊い献金によって、私の牧師生活、そして家族の生活も成り立っているからです。これが無ければ、やっていけない。これは否定しようもない事実です。けれども、昨日の音楽家の友人の話、そして今日のパウロの潔白なまでの誇りに触れて、我が身を振り返らざるを得なかったのです。
私は確かに、一方では紛れもなく職業牧師であります。経済的なお支えを受けている以上、牧師としての定められた務めをちゃんと果たしていく所に、私の牧師としての立場や信頼もかかっている。しかし私が牧師であるということの本当の根拠は、どこにあるのか。たとえ、あらゆることが職業化されてしまう宿命にあるとしても、その事実をなお貫いて、主が己を福音伝道者として召し給うたその使命と誇りに、私は本当に立ち続けているだろうか。
パウロの、誰にも踏みにじられたくない誇り。しかしパウロは、この誇りについて不思議なことを言います。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(16節)。
自分の権利を使わず、報酬を捨てでもキリストの福音を宣べ伝えることが「誇り」だと言いながら、しかしパウロはまた、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません」と、矛盾したことを言うのです。コリントの人々に対しては、一方で誇りと言う。否、言わざるを得なかった。それを強調しないと、パウロの真実な姿を分かってもらえなかったからです。しかし実は当のパウロ自身においては、それは何ら、誇りとなるものではなかった。なぜならそれは、「そうせずにはいられないこと」だったからです。
「そうせずにはいられない」。ここには、義務とか強制、あるいは運命という意味が強く含まれます。パウロはなぜ伝道するようになったのか。それは、必ずそうしない訳にはいかなかったからです。どうしてもそうなってしまう。何か他をやろうとしても結局はこういうことになってしまう。そうした、とてつもなく激しい力に促されていたからでありました。
パウロにとって福音伝道者であることは、「他のことも本当はできたけれども、まぁ自分は神様のために働くことを選んだ」というような、のんきな選択ではなかった。他のことは忘れてしまう程に、もうこれしかできなくなってしまった。もし福音の伝道をしていなかったなら、もはや自分は自分で無くなってしまう程の重大な事柄だったのです。もしこれをしなければ不幸だ。否、呪われさえする。だから誇りだなんて、とても言えない。
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本日、併せてお読みしました旧約聖書のエレミヤ書。その第20章9節で、預言者エレミヤがこのように告白しました。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。
かつて、神から預言の務めを託されたエレミヤは、しかしイスラエルの民たちから罵られ、背を向けられ、辛酸をなめるような苦境に何度も立たされました。だから二度と「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい」と誓う程でした。しかしそれでも、主の言葉は火のように燃え上がる。幾度も抑えつけることに失敗したエレミヤは、ついに疲れ果ててしまった。そして告白するのです。「わたしの負けです」。
私が負けた所に、神の勝利がある。神の勝利が貫かれる所では、人は負けざるを得ない。しかし負けた所でこそ、私が見るべき本当の私の姿があるのです。神によって捕えられた私の姿です。そして神が徹底的にこの私に対してご自身の要求を貫徹し、ご自分の奉仕者をご自分の道具にしてしまう神の揺るぎないご意志を、私たちは見るのです。
全ての人がエレミヤのように、パウロのように、また私のように、伝道者になる訳ではありません。それぞれに与えられた職業があり、務めがあり、役割があります。大切なのは、その自分に与えられた形が何を意味し、何のために用いられ、また何によって駆り立てられているのかを、信仰の眼差しでよく吟味することです。たとえ、自分にはもう何の取柄も無いと思ってしまうまさにその所においても、神はこの弱き自分、無力な自分に何を期待され、どのように用いようとされているのか。
キリストの福音を核とする私たちの信仰は、まさにその福音自身が持つ力の故に、私たちを神の言葉に仕えさせ、神の言葉の出来事の中へと参与させます。そのようにして福音は、今日も、それを伝える者と伝えられる者との間に、神の命を運びます。そこでこそ、この私が本当の私の姿を生きるためであり、また他者を隣人として愛してゆくことにこの上ない幸いを確信するためであり、そして何より、神が神として崇められるためなのです。
<祈り>
天の父よ。私たちがこの世で務めを与えられて歩む時、何を自分の土台としてゆくか。職業だけでなく、様々な務めや役割を引き受けながら私たちが人々と交わる時、いったい、それが何によって支えられ、また駆り立てられてゆくべきものなのか。どうかこの真実を、あなたが賜物として与えてくださった信仰の光によって、捕えさせてください。そして、信仰が信仰であり続けるためのキリストの福音こそが、私たちに生きる望みと喜びを、惜しみなく与え続けてくれるものでありますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
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