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「その兄弟のために」

2022年8月21日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第12日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書42:1~4
新約聖書 コリントの信徒への手紙一8:7~13

            

この夏という季節は、私にとって、幾つかの研修や修養の機会に恵まれるひと時でもあります。そのある一つについては、数週間前の説教でご紹介させて頂いたことがあります。実は来週も、また別の研修会に参加する予定でおります。軽井沢で行われる、牧師同士のごく小さな勉強会です。私は今年で4度目の参加となります。

2年前に行われましたその勉強会で、榎本栄次という先生を講師にお招きしたことがあります。皆さんも一度は耳にしたことがあるかもしれませんが、「ちいろば先生」という愛称で広く親しまれている榎本保郎牧師の、実の弟に当たられる方です。この栄次先生を通して、今は亡き保郎先生について色々と伺う機会がありました。

その中で、こんな印象深いお話がありました。まだ保郎先生が神学生だった若い頃、ある一つの過ちを人に対して犯してしまった。そのことで当時通っていた奉仕教会の牧師先生から次のように諭されて、それが後の人生の節目節目に大きな影響を及ぼした、というお話です。その牧師は、保郎神学生にこう諭した言います。

「君はまだ、神さまが悲しまれる罪というものがどういうことか、分かっていないようだね。頭で自分の罪が分かっているのと、心でそれを分かっているのとでは、大きく違うんだよ。もっと正確に言えば、君は知識では罪を分かっているけれども、自分の罪の深さの故に心までもが苦しくてたまらなくなって、死ぬような思いをしたことがないということだ。君は神学生として、学ぶ前にしなければならないことがある。それは、罪の悔い改めということです」。

この言葉に痛く打たれた保郎神学生は、この後質問をぶつけます。そしてこんなやり取りが続いたと言います。「罪の悔い改めって、どうすることですか?」。「それは自分の罪を、全部告白することです」。「誰に告白するのですか?」。「もちろん、神さまに向かってです」。「では、神さまだけに告白すればいいですか? 神さまだけというのでは、ダメですか?」。

この最後の質問に、この牧師はさらなる問題性を感じ取りました。そしてこう答えたのです。「榎本君、もともと罪というのは、神さまに対して犯すものです。だから私たちは、その神さまに罪の告白をするべきです。けれども、神に対する罪の結果は、必ず人に対して現れてくるものです。私たちは神に対して罪を犯す存在だからこそ、人に対しても罪を犯すのです。私たちが信頼を裏切ったり、人を利用したり、傷つけたりするのは、全て自分の罪の結果。だからもし、自分のそんな罪を、目に見えない神には告白できても、目に見える人に対して告白するのが恥ずかしいと思っているなら、君はまだ、古い自分に死んでいないということなのですよ」。


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神に対する罪の結果は、必ず人に対しても現れてくる。私たちは神に対して罪を犯す存在だからこそ、人に対しても罪を犯す。

私は今でも、この言葉が脳裏から離れません。そしてこの言葉の周りをぐるぐる回る内に、逆に、次のような真実にも気づかされるようになりました。つまり私たちが人に対して罪を犯してしまっている時、それは紛れもなく神に対しても罪を犯していることになる、ということです。もっと言うならば、私たちが「神を愛している」と言いながら、しかしそのすぐ傍で人を憎み、あるいは傷つけているのだとしたら、その神への愛は偽りでしかないということです。まさにヨハネの手紙一が言い当てているように、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができ」(4:20)ていないのです。


本日与えられました、コリントの信徒への手紙一第8章の後半の言葉。ここにも、これとよく似たような言葉が記されていました。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(12節)。

ここでパウロが呼びかけている「あなたがた」とは、誰のことでしょう。また、それに続く「兄弟たち」とは誰のことでしょうか。言うまでもなく、これらはいずれも、コリントの教会の中にいた人たちを指します。つまり両者は、共に同じ教会のメンバーであった。にもかかわらず、パウロがこう呼び分けなければならない事情がそこにあった、ということです。

いったい何が起こっていたのか。既にご承知のように、今日の箇所は前回からの続きであります。7節でパウロはこう言いました。「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません」。

「この知識」とは明らかに、前回問題にされていた「知識」のことです。具体的には、先ほどの12節で「あなたがた」と呼びかけられていた人たちが持っていた知識。また、1節で「我々は皆、知識を持っている」と誇らしげに主張していたその彼らの、揺るがぬ確信に基づく知識です。そしてその内容は、特に4節で「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」とあるように、実はパウロ自身も強く同調していた、そのような知識であります。

しかし、パウロは言うのです。この知識は、決して誰もがすぐに持てるようなものではないと。皆が皆、あなたがたと同じように、その知識を持っているわけではないと。そう言いながら、パウロはむしろ、彼らが拠って立とうとした崇高な知識そのものが抱える、隠れた問題を明るみに出そうとしたのでありました。その問題性を端的に言い表したのが、前回の1節終わりにあります「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」という言葉、これに他なりません。


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繰り返しになりますが、一方で確かにパウロは、彼らが主張する知識の中身については、むしろはっきり同調しているのです。4節で「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」と述べることで、具体的には、偶像に供えられた動物の肉を食べてもよいかどうか、というこの第8章で取り扱われ始めた当該の問題について、その行い自体は信仰上何ら汚れたものではない。この点についてはパウロも、彼らと同じ考えに立っていました。

ところが、その確信に立てない人たちがいた。そのような人々が、あなたたちの教会の中にいるではないかと、パウロは言うのです。その状況を示すのが、7節の次の言葉です。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」。つまりある人たちにとっては、偶像に供えられた肉を食べることが、どうしても自分を汚す行為だと思えてしまうために、結局その肉を食べることができない、ということです。


これは何か遠い昔の、異国のギリシアのお話でしょうか。しかしこれも前回触れましたように、私たちがこの日本という、明らかにキリスト教国ではない国でキリスト者として生きるということは、実はまさにコリントの教会で起きていたような切実な問題を、しばしば抱え込むということを意味するでありましょう。

ちょうど私たちは、一般にお盆と呼ばれる時期を過ごしました。そのように、例えば盆暮れ正月に因んだ様々な風習が日本にはあります。キリスト信仰を持たない人々と一緒に生活をしますと、そこには神社やお寺と結びついた宗教的慣習が混じり込むということがよくあることでしょう。その時、いわゆる異教徒的な行事に自分が関わるということについて、様々な葛藤が伴うと思うのです。

このように、異教文化の中で揺らいでしまうキリスト者の姿を、パウロは7節で「良心が弱い」と表現しました。なぜ弱いのか。一つ注目したいのは、「今までの偶像になじんできた」という言葉です。ここで「弱い」とされる人々というのは、かつてキリスト者になる前は偶像の神に馴染んでいた人たちです。その神を拝み、神殿に熱心に足を運んではいつもそこでお供え物をし、動物の肉を生け贄として献げた。そういう生活に馴染んでいた人たちです。

この馴染むというのは、もはや理屈ではなく、既に体に染みついてしまっている状態を表しましょう。ですから、今まで偶像を拝む生活が体に染みついていた人が、その後キリスト者になって、でもそこでなお感じているのは、様々な懸念です。やはり自分はこれまで、偶像の神はどこかで生きていると思っていたからこそ熱心に献げ物をしてきたわけで、その思いが、唯一の父なる神とキリストを知った後にも、まだ体や心にも染みついてしまっている。だからキリスト者になってからも、どこかの神殿から卸されて来た肉をうっかり食べてしまえば、罰が下るのではないか。救いから遠ざかってしまうのではないか。そんな心配が募る。弱い心が揺らぐのです。


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さて、しかしこのような者たちとは対照的に、実に堂々と自由に生きる者たちがいた。それが、パウロが今日の手紙で「あなたがた」と呼んでいる人たちです。

9節に「あなたがたのこの自由な態度」とあります。この自由とはもちろん、偶像に供えられた肉を食べることに何ら躊躇や懸念など感じることのない、そんな自由さを意味します。その直前の8節にもありますように、キリストの信仰に生きる者を本当に神の許に導くのは、決して食べ物ではないということを確信できる、そんな自由であります。もし食べ物によって汚れや滅びに導かれるということがあるならば、逆に、ある特定の食べ物を食べさえすれば救われる、ということも成り立ってしまうではないか。しかし私たちを神の許へ導くのは、食べ物ではない。

言われてみれば、確かにその通りです。そんなつまらない事にこだわるというのは、やはりおかしい。そう思える境地が、「自由」ということの意味でありましょう。

ところでこの「自由」と訳されています言葉は、例えばこの後第9章1節にも「自由な者」とありますけれども、今日の9節の自由というのとは異なるギリシア語が使われています。日本語で訳せば、どちらも同じ「自由」という風に訳せる言葉ではありますけれども、しかし9節の自由は本来もっと広がりを持つ言葉です。したがって別の日本語訳聖書では、この部分の訳には随分苦心の跡が伺えます。「自由」の他に、「権利」とか「特権」、あるいは「支配」等とも訳されるのです。

こうした複雑な訳を生み出してしまう言葉が、あえてここで使われていることには、パウロの明確な意図、あるいは警告や皮肉が込められていると思えてなりません。この「自由」と訳されるギリシア語は、もともとは「あるものの外にいる」という意味です。何かそこに力が働いている時、自分はその力の外にいる。したがって、その力の束縛を受けなくて済むという意味で、そこから一つ「自由」という意味が生まれます。

しかしここから色々な意味が派生しました。あるものの外にいる、つまりその中のものから自由になっているということは、自分は外にいる者として、その特権によって中にいる者を支配する、という意味にもなってゆくのです。つまり「自由」というのは時に、その自由に生きられない者たちに対して、ある種の力をもつ場合があるということなのです。


だからパウロは、「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と注意を促していたのです。もし気を付けなければ、どうなってしまうのか。それが続く10節の言葉です。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」。

いったい、「良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようになる」とは、どういうことでしょう。確固たる知識をもって、偶像に献げられた肉を自由に食べている教会の仲間の姿をある人が見て、その影響で自分も心が強くされて、「よし、これで何を食べても平気だ」と思えるようになる、そんなめでたい話でしょうか。

そうではありません。パウロは言いました。「その人は弱いのに、その良心が強められて」と。つまり、その人の心の内は依然として弱く、揺れ動いたままなのに、そこに半ば強制的に、その心の表面だけは訓練され、教育され、強く固められる、という皮肉が言われているのです。皮肉と申したのは、実はこの「強められて」という言葉は、1節の「愛は造り上げる」のまさに「造り上げる」と同じ言葉が使われているからです。


いったい、人を真に人として造り上げ、そしてまた、教会を真にキリストの体としての教会に建て上げる力とは何であるか。それは愛である。愛に他ならない。しかしコリント教会の「強い」人々よ。あなたがたが、同じ教会の中の弱い兄弟姉妹たちにしていることは何であるか。かれらを自分たちと同じ強い信仰に導こうと願う時、その願いは良いとしても、しかしそこで何を頼りにしているのか。それは愛ではなく、自分たちの知識の強さではなかったか。

しかしその強さは、キリストの愛によるものではなく、キリストの権威によるものでもなく、さらにはキリスト者としての真の自由によるものでもないのです。それはただひとえに、哲学的に組み立てられた強さに過ぎなかった。しかしそれでは、人は本当には強くならない。教会も立たない。否、あなたがたが誇って止まないその強い知識さえも、実は真実なる知識にはなり得ていないのだ!


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高ぶるコリントの教会の人々が知らなければならない、真の知識とは何でしょう。否、パウロが今日私たち一人一人にも訴えかける、本当に知らなければならない真実とは何でしょうか。それはこの私たちが、神というお方を知るようになるはるか以前から、神の永遠の眼差しの中で知られ続けている存在だということに他なりません。

けれどももう一つ、今日はっきりと知らなければならないことがあります。神がそのように、私たちを掛け替えのない存在として知っていてくださるということは、その神が、愛する独り子イエス・キリストを手放して私たちに与えて、しかもそのキリストが、私たちのために死んでくださっているということです。

そのように命を尽くして私たちを生かし、愛してくださっているキリストの恵みは、今なお心がよろめく者たちにも注がれています。神の愛についての確信が不確かなままでいる人にも、注がれ続けているのです。そして今日もその兄弟たちのために、キリストは死んでくださっているではないか。誰かの高ぶりのせいで、否、この自分の生半可な知識と自由、またその支配力のせいで隣人を踏み潰し、その弱い心をさらに傷つけ、ついにはその人を悪の誘惑に陥らせて滅ぼしてしまう、まさにそんな私の罪のためにこそ、他でもないキリストが、今日この私のためにも十字架に架かってくださっているではないか。


パウロは最後に言いました。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(12~13節)。たとえどんなに自由であろうとも、否、まさにその自由においてこそ、私は一切肉を口にしない。弱き友の傍らに立って共に生きる。

私たちが今日、ここから共に生き始めるべき兄弟姉妹たちとは、誰でしょうか。どこまでも、キリストのありったけの恵みによって打ち砕かれ、裁かれるしかない私たちです。しかしそれでもなお、主自らが復活の命の泉となってその廃墟に満たし続けてくださる確かな愛に押し出されて、私たちも自らに示されたその友の傍らで、新しく歩んでいきましょう。


<祈り>

天の父よ。あなたは主の僕を通して「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」、確かな救いを実現すると約束してくださいました。私たちはキリストによって、真の自由に生きる者として頂きました。しかしその自由を履き違え、その自由を与えてくださったキリストの十字架を見失い、愛すべき兄弟姉妹たちを傷つけてしまう愚かな者です。どうかいつもこの愚かな高ぶりから解き放ち、いつでもあなたの愛の源から生き始めさせてください。御言葉に感謝します。主の御名によって祈ります。アーメン。


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