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「どんなことでもする」

2022年10月16日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第20日)
牧師 朴大信
旧約聖書 創世記1:27
新約聖書 コリントの信徒への手紙一9:19~23

  

本日の説教題を、「どんなことでもする」といたしました。これは、今朝与えられましたコリントの信徒への手紙一第9章の23節の言葉から取りました。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」。自分はどんなことでもする。何でもやる。パウロはここで、このように言い切ります。どんなことでも嫌がらずに、否、喜んでしたいのだと。

こう断言できるということは、何と潔く、溌溂としていることかと思います。しかしこれは、本当に何でもできる人でなければ言えない言葉でもありましょう。そうしますと、これは自分には到底言えない言葉だということにもなります。

ただ、そうは申しても、私たちは最初から諦めている訳ではないと思います。例えば職場の採用面接の時、結婚をする時、子どもが生まれた時、あるいは誰かに恩返しをしたい時、あるいはまた何か切羽詰まった状況で誰かに懇願しなければならない時、そうした時にその大切な相手のために、どうにか尽くしたい、力になりたいと思う。そのために何でもしたいと意気込む。少なくとも心の中では、自分に対してそんな理想や期待を抱くのです。

けれども現実は、長続きしないことがほとんどでしょう。挫折もするでしょう。自分の無力さや飽きっぽさに気づかされる。あるいは、良くしようと思っていた相手の方の態度が気に食わなくなって、こちらが冷めてしまう。そのような経験を積み重ねる内に、私たちは今日のパウロのように、「どんなことでもします」とはもう言えなくなってしまっているのではないでしょうか。それをする勇気もないし、力もない。そもそも全力を注ぐ余裕などない。自由もない。


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では、パウロが語っていることは、ただの絵空事に過ぎないのでしょうか。どんなことでもする。これは、今その思いを妨げるものが何もないからこそ言える言葉です。つまり自由である。そこで今日の手紙の最初を見ますと、こう語り始めていました。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」(19節)。

彼はまず、「わたしは、誰に対しても自由な者」だと言います。これは、同じ第9章の1節で既に語られた「わたしは自由な者ではないか」とほとんど並ぶ言葉です。つまりパウロは今日の箇所だけでなく、この9章全体を通して、あるいはその前の8章も含めて、これまでずっと、言ってみれば「自由」について語って来ました。

前回は、福音伝道者が教会から報酬を受けるか受けないかを巡って、パウロは率直に自分の考えを述べながら、自分がなぜ報酬を受けようとしないのか、なぜこうして福音を宣べ伝えているのかを、コリントの人々に語りました。それは全くもって、福音がそのように私を強いるからに他ならない。しかしこの福音に捕えられている姿こそ、私が私である最も喜ばしい姿である。何よりも自由な姿である。誰に対しても自由な姿だ。そう述べるのです。

この自由は、第8章で「偶像に供えられた肉」(1節)のことについて語り始めた時から、一貫してパウロが力説してきたものです。偶像に供えたものを食べても良いかどうか。良いか悪いかで言えば、キリスト者は信仰によって自由を得たのだから、それを食べたからと言って恐れる必要は無い。律法の戒めからも自由になった。だから食べても良い。パウロはそう考えました。この点ではコリントの教会の人々と同じ考えでした。

しかしパウロの結論はそこで終わりませんでした。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(8:13)。つまり自由だから何でも食べて良いというのではなく、むしろ相手のために自分は食べないことを決心するのです。そしてこの思いと響き合うようにして語られたのが、今日の19節の言葉です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」。


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パウロは今、確かな自由を確信しています。誰に対しても自由である。しかし「すべての人の奴隷になりました」。このようにも語るのです。この「自由な者ですが」という表現は、「自由な者であるにもかかわらず」という意味よりも、むしろ「自由な者であるがゆえに」と言い換えてもよい響きをもち合わせています。まさに自由であるからこそ、その自由をもってすべての人の奴隷になった。

そうしますと、「私は自由だ。どんなことでもする。何でもできる」と主張できる点においては、パウロも、コリントの教会の人々も、確かに一致していた。ところが、その自由ゆえに全ての人の奴隷になったという結論に至った所で、おそらくパウロについていけない人々が多くいたことでありましょう。

「だれに対しても自由」であること、言ってみれば、王様のように自由であるということが語られる時、しかしまた、「すべての人の奴隷」として生きる姿が同時に語られる。既に思い起こしておられる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは、まさしくあの宗教改革者M.ルターの名著『キリスト者の自由』で、一貫して掲げられれていた主題ではなかったでしょうか。彼はこう言いました。


キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない。

キリスト者はすべての者に仕える僕であって、誰にでも服する。


ルターは、パウロの今日のこの言葉を受けとめながら、もう一度キリスト者に約束された自由というものの真理に気づかされ、立ち帰りました。その真理に立って、信仰と教会の再生を目指しました。それほど素晴らしい真理がここに語られている。自由な人が、自分のためではなく、誰かのために、自ら僕として仕えることができる自由ほど、自由の極みを映し出す姿は無いのではないでしょうか。キリスト者に約束される自由は、奴隷となることで決して失われるものではなく、むしろますますその輝きを内から放つからです。


こうして、本来なら互いに相容れないはずの「自由」と「奴隷」が、パウロにおいては一つになっている。共存しているのです。では「自由」であることと、「奴隷」になるということが一つになった時に、何が起こるのでしょうか。それが今日、パウロが何度も同じ調子で語っていた事柄です。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように」(20節)なる。「律法に支配されている人に対しては…律法に支配されている人のように」(同)なる。「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように」(21節)なる。そして、「弱い人に対しては、弱い人のように」なる(22節)。


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一つ目の「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように」なる。しかしパウロは、既に歴としたユダヤ人でした。律法を重んじ、これを忠実に守ってきたユダヤ教徒であり、それ故ユダヤ人でした。そのパウロが、自らもユダヤ人でありながらこう言わなければならなかったのは、自分はもう、かつての日のように、「律法の下で」(=「律法に支配されて」の原語)、律法を頼みとするようには生きていないからです。しかしそのような自分が、律法を今なおも重んじている人と、同じように生きるのだと言うのです。それが、パウロが彼らの奴隷になるということの意味です。

その意味では、二つ目の「律法に支配されている人に対しては…律法に支配されている人のように」なることも、これと同じ意味に理解してよいでしょう。パウロは決して、かつてのように、やはり律法を重んじることが必要だと考え直していた訳ではありません。今や自分は、決して律法に支配されてはいないけれども、律法を守って救われようとしている人たちがいる限り、その彼らのために、自分も同じようにする、ということなのです。

それが具体的にどんな姿だったのか。使徒言行録を読みますと、パウロがそのためにどれだけの苦労をしていたかが伺い知れます。もはや律法の下にいない彼が、律法の下にある人を救うために、様々な誤解を受けながら彼らの中に入り、しかしそれが結局、捕えられてしまう原因ともなっていったのです。

それならば、律法を持たない人と関わる場合は易しかったのでしょうか。これが三つ目の人たちです。「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように」なった。しかしここにも、パウロの苦心が無かったとは到底思えません。なぜならパウロ自身は、確かに律法によって救われるとは信じていませんでしたが、それは決して、律法が無くなって、無法状態になることを良しとしたのではありません。何の定めも縛りもないような所で、自らの自由を確信していたのではなかったのです。

そういうことで言うならば、むしろ彼は律法をなお重んじていたと言えるでしょう。しかしただの律法ではない。パウロは言います。「キリストの律法」(21節)にこそ、自分は従っているのだと。否、自分は律法の「下」にではなく、律法の「対極」にでもなく、まさに、律法が真の律法として存在する所の「ど真ん中」にいるのだと。生けるキリストご自身が支配なさる、その律法の中に留まることにおいてのみ、律法は満たされるのだと。

そのような彼にしてみれば、律法を持たない人たち、律法の尊さを弁えていない者たちと共に歩むということが、どれだけ忍耐の要ることだったか、想像に難くはないでしょう。


そして四番目にパウロが挙げたのが、「弱い人」でした。「弱い人に対しては、弱い人のように」なる。この弱い人というのが、特にここではどういう人々のことであったかは、もう私たちが知る所です。偶像に供えられた肉を巡って戸惑い、狼狽えている人たちのことを思い浮かべます。そのように、信仰を与えられながら、なお良心の呵責に悩み、不安や恐れの中を生きざるを得ない人たちのことです。そうした人々のところに、パウロは仕えようとした。

否、そうした弱さを覚える人たちこそ、実はパウロが共に歩もうとした人々であったとさえ言えます。最初の三つは、この四つ目を準備するために語られたと言っても良い。それは、例えば「弱い人」と釣り合いを取るために、「強い人に対しては、強い人のようになった」とは書かれていないことからも分かります。

そしてもっと大事なことは、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」という一文は、原文をよく見ますと、他と比べてここだけ、「弱い人になった」と言い切るのです。「弱い人のようになった」のではなく、まさしくパウロも「弱い人になった」。「弱くなった」のです。これは、弱い人のふりをしたとか、そうした見せかけや喩えの話などではなく、パウロが本当に、自らの自由や権利を捨てでも、彼らと一緒に弱くなり、また弱くされながら生きた姿を証しします。

パウロは実際、偶像に供えられた肉を巡って躊躇する弱い人々に向けられた批判を、自分のものとして受け入れました。あるいは、教会からの報酬を受けず、また裕福な人々からの援助も断ることで、社会の弱い人たちの生活水準にまで自らを合わせ、低めて、テント造りの労働者ともなったのでした。


こうしてパウロは最後に言います。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(22節)。ここに、彼の福音伝道者としての、たった一つの目的が記されます。それは、パウロが今その全存在を懸けてこの手紙を書き、その読者たちに出会おうとする、自らの存在理由でもあります。それこそ、「何とかして何人かでも救う」ということに他なりません。19節の言葉で言えば、「できるだけ多くの人を得る」ということです。

ここでパウロは、「全ての人に対して全ての者になった」と言いながら、しかし全ての人を自分で救うとは言いません。全ては神の御手にかかっているからです。それでも、たとえ何人かでも、できれば一人でも多くの人を、キリストに向かって、このキリストのために、救われるべき友として得たい。だからパウロは言うのです。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(23節)。

自分が誰に対しても自由でありながら、奴隷として誰にでも仕えると言っているのは、ただただ、この「福音のため」。福音そのものが目指していることのため。このことのためならば、自分はどんなことでもやる。つまり福音によって、人生で本当に生かされる人が一人でも多く与えられること。これに他なりません。


*****

この願いと確信をもって、パウロは伝道の戦いを続けました。全ての人のために福音をと願いながら、出会う一人一人に仕えること、そのことだけに集中しました。しかしそれは、既に見た幾つかの例からも分かるように、決して生易しいことではありません。忍耐が要ります。落胆や苛立ちを募らせることは常であったことでしょう。その意味で、伝道はやはり戦いなのです。戦い無くして伝道無し。問題は、戦いが無くなることではなく、どのように戦うかです。

しかしまさにそこで、私たちは見失わないでいたいのです。忍耐をしながら相手に仕えようとする時、もう駄目かもしれないと諦めようとする時、そこに既にキリストご自身が先回りして、その人に仕えていてくださることを。この私に対してそうであったように、今この友のためにも、キリストが必死になって自らを献げ、忍耐をしておられるということを。十字架にかかってまで、その人を救い出そうとされる情熱を。

そしてこの時、パウロがその先に楽しみを見出していたことに、私たちも共に望みをかけたいと思うのです。それは、「わたしが福音に共にあずかる者となるため」(23節)という最後の言葉によく現れています。

パウロの伝道には、戦いと苦難が絶えず伴うものでした。しかしそこには、刈り取るべき実りがあります。それは、福音を伝える者と伝えられる者とが、共にその喜びに与るということです。パウロは、自分はもうとっくに福音の何たるかが分かっている者として、その高みから伝道したのではありません。自らを低め、仕えながら福音の喜びを伝えた。そして伝わった時、それが伝われば伝わるほど、その喜びはさらに増していったのです。

私も、この時代に立てられた一人の伝道者として、毎週皆さんに福音を語り継ぐ者とされています。それは決して、あぐらをかいてできることではありません。聖書の言葉を、まず自分自身への福音として受けとめるための戦いから始まり、それを伝えるための様々な戦いがまた続きます。そのようにして、主日礼拝毎にこの講壇に引きずり出されます。この高い所から、もしも何か分かったような態度で語る私の姿をもし皆さんが感じ取られることがあったならば、ぜひ正して頂きたい。

しかし私は、そのような畏れと戦いを伴う歩みの中でも、確かな楽しみがあります。皆さんの心に蒔かれた福音の種が、それぞれの生活や人生の歩みの中で実を結んでいる喜びを、共に分かち合う時です。私は様々な機会に、その喜びを皆さんから分け与えて頂きましたし、これからもぜひ教会に持ち寄って頂きたいと願っています。皆でその実りを分かち合い、しかしその実りが見えないほどに辛く、苦しい時には、共に祈って、励まし合いながら歩んでゆく友の絆を深めたいと願っています。

刈り取られるべき福音の実りは、私たちの歩みの中にあります。それを味わうことができるのは、パウロだけではない。もちろん、私のような者だけでもない。皆で共に味わうのです。福音そのものが、この交わりにおいてそれを願い続けているからです。


<祈り>

天の父よ。私たちはあなたの似姿として、あなたご自身にかたどって創造されました。今私たちは、キリストに捕えられ、キリストに結び合わせて頂いた恵みによって、あなたの自由を映し出す者とされています。その自由を生きる者として頂いています。そしてその真の自由の中で、他者に愛をもって仕える者として促されます。どうかそのようにして、キリストと共に真実に歩むことができますように。そのようにして、この地に真の福音の香りを放つ教会が造り上げられますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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