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「もっと大きな賜物を」

2023年4月16日 主日礼拝説教(復活節第2主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書61:1~3
新約聖書 コリントの信徒への手紙一12:27~31a   

         

先週のイースター礼拝では、幾つもの喜びが重なり合い、嬉しいひと時を共に過ごすことができました。イエス様のご復活をお祝いしながら、その光の中で、一人の信仰告白者と一人の受洗者が立てられ、そしてもう一人、先週私たちの教会に転入会された方も改めて仲間としてお迎えして、共に喜びを分かち合いました。

これらは決して、バラバラの事ではありません。どれを取っても、主イエス・キリストの命に生かされている中で起きている出来事だからです。十字架の死から甦られたキリストの命こそが、私たちを真に力づけ、奮い立たせる。それはイースターの祝いが過ぎ去れば消え去ってしまうような陳腐なものではありません。

「イースターの大笑い」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。イースターの喜びが笑いとなる。イエス様のご復活が私たちの笑顔となる。それも、単なる笑いではなく大笑いとなるのです。アハハやウフフではなく、ワッハッハ!と腹の底から湧き起こって来るような喜びです。

先週のイースターでお読みした御言葉、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(Ⅰコリント15:55)。これは死を前にして恐れをなし、敗北感に打ちひしがれている絶望の言葉ではありません。死に対する勝利の確信です。なぜなら、キリストがこれを全て打ち滅ぼして復活してくださったからです。それもギリギリ勝ったのではなく、圧勝です。この主が共にあり続ける限り、死よ、お前にもう勝利はない。私たちを痛めつける棘も抜き取られた。恐れるものは何もない。何と喜ばしい幸いか。まさにワッハッハと大笑いが起こらずにはおられなくなるのです。

そしてこの「イースターの大笑い」とセットで、もう一つよく耳にする言葉に、「イースターの疑い」という言葉があります。疑いと聞くと、イエス様の復活に対する疑いのことかと思ってしまいます。しかしそうではありません。疑わしいのはイエス様の方ではなく、むしろ私たちの側です。イースターの疑い。それはキリストの復活によって、それまで私たちが疑ってもみなかったことが、疑わしいものとなって来るということです。

この世の常識や物差しで見る時、もうそこに希望はないと思われる時、しかしその絶望自体が疑われる。特に死という現実を前に、命が朽ち果て、それによって愛する者との絆が断たれ、全てが無に帰してしまう諦めに陥る時、しかしその諦め自体が疑わしいものとなってくる。そして全ての闇に勝利したキリストの復活の光に照らされる時、私たちを支配していた闇は揺さぶられ、打ち砕かれる。これがイースターの疑いです。そしてここにこそ、大笑いも起こる。


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さて、今朝はコリントの信徒への手紙一をご一緒に開きまして、第12章27節からお読みしました。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。

「あなたがたはキリストの体」である、とまず言われる。これはどういうことでしょうか。既に私たちは一人一人自分の肉体を持ち、その体を生きています。その私たちが、キリストの体であると言う。考えてみれば不思議なことです。なぜ私の体がキリストの体なのか。もしここで、例えば、あなたがたはキリストを信じる者であるとか、あなたがたはキリストの恵みを受けている者であるとか、あるいはせいぜい、あなたがたはキリストの衣を着せて頂いている者である、等と言われれば、まぁ理解できるでありましょう。

しかし、私たちがキリストの体であるとはどういうことでしょう。それは何よりも、私たちが、キリストがおられる所にいる、ということです。このキリストの体というのは、言うまでもなく、お甦りになったキリストの体です。そしてここには重大な意味があります。キリストが復活されたのは、ただご自分のために復活されたのではありません。十字架で殺されたのが不本意だったために、もう一度生き直すために甦ったのではない。そこには確かな目的があった。それは他でもない、私たちのためです。私たちこそが、永遠の命に生きるために、復活のキリストがその体をもって私たちに出会ってくださる。迷子になっている私たちを探し出し、救ってくださる。

ですから、復活されたキリストの体は、それ自体が私たちと共にあろうとする意志を現わしているのです。その体が、私たちのものとなっているということは、まさにキリストのおられる所に、既に私たちもいるということ。キリストに守られ、その命に結びつけられているということに他ならないのです。


ここで大切なのは、このキリストが私たちと共におられるという真実は、もちろん信仰によって分かる事柄ではありますが、しかし、ただ心の中の出来事に留まるものでは決してない、ということです。なぜならキリストは、実に教会という、目に見える形で私たちと共におられる方だからです。教会はただの建物のことではありません。また、人がただ集まっている集会のことを指すのでもないのです。

では、教会がキリストの体として存在し、私たちと共におられるという真実は、どのようにして見えるのでしょうか。いったい教会のどこにキリストの体があるのか。その最も明らかな徴は、聖餐です。教会は、このパンとぶどう液を頂くことにおいて、キリストの体と血潮を思い起こします。そして十字架で死なれたこのお方が、しかしお甦りになった体をもって現われ、私たちをこの食卓に招いておられる。これを私たちは信じるのです。


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ところが、私たちはもう一つ大切な事を知らなければなりません。教会がキリストの体となるという真実は、第一に聖餐において見えるものとなり、さらにそれを信じる礼拝全体において確かなものとなることは言うまでもありません。しかし問題は、ただ闇雲にこれらを守ればよいわけではない、ということです。その礼拝や聖餐がいつも正しく行われるためには、やはりそこにどうしてもそれなりの方法や役割が必要なのです。

教会全体がキリストの体であって、その命の中に私たちも留めて頂けるという真実は、確かに恵みに他なりません。しかしその恵みが本当に味わい深いものとなり、さらに教会がこの地上でキリストの体として健やかに機能してゆくためには、この体に繋がる様々な部分もまた、生きた肢体として機能していることが大切になります。だからこそ27節で、「あなたがたはキリストの体」だと述べた後に、続けて「また、一人一人はその部分です」と言われているのです。

私たちは皆、キリストの体にすっぽり包まれるようにしてその命を頂いています。しかしその私たちはまた、一人一人がキリストの体の部分部分としても繋がっている。つまり各々は教会の中で部分としての位置を与えられ、しかもそれぞれに賜物(カリスマ)が与えられて、何がしかの役割を担って働いているというのです。


ではそれはどんな働きでしょうか。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」(28節)。

「使徒」とは文字通り、主に遣わされた者、僕のことを言います。福音を、全世界の果てにまで宣べ伝える使命を与えられた者です。この使徒は、あの主イエスの十二弟子たちから始まったと言えますが、後に復活の主によって新しく立てられた使徒たちも含まれます。そしてこの使徒の列の最後に連なる者として、実はパウロはこの手紙の15章で、自らを位置づけています。

「預言者」は、既に旧約聖書の中にもよく出てくる名前ですが、これも文字通り、御言葉を預かって宣べ伝える者のことを言います。そして「教師」とは、教会における信仰の教師として立てられ、福音に基づいて信徒の群れをキリストの許に教え導く人々を指します。

パウロはこれら三つの役職を、教会の働きに欠かすことのできないものとして順序立てて挙げます。今日のキリスト教会が、この三つの名で呼ばれるものにぴったり対応する役職を持っているという訳ではありませんが、しかしこの三つに共通することは、一にも二にも、福音を語り伝える人々、ということは言うまでもありません。そしてこの、福音を正しく宣べ伝えるという働きを、教会が責任をもって担うことなしに教会が教会であり続けることはできない、ということに異論はないでありましょう。


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さて、これに続く働きは何でしょうか。パウロはさらに列挙していきます。「次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」(28節)。

興味深いのは、最初に出てくる「奇跡を行う者」や「病気を癒す者」、あるいは最後の「異言を語る者」。これらはやはり、何か特別な力を与えられた人々を指しているように見える一方で、その間にある「援助する者」・「管理する者」というのは、もっと身近な存在のように感じられるという点です。

助けを必要としている人に手を差し伸べること。これは既に私たちの教会の中でも、見える所、見えない所で、あるいは個人的であったり、組織としての形をとったりしながら行われているはずです。そして管理する者。これはお金の管理でしょうか。建物の管理でしょうか。このような働きも、長老会を中心として、教会の大切な働きとして位置付けられています。

こうして見てみますと、教会という体の部分部分を担う働きには、特別なカリスマを伴うものも含みますけれども、しかしそこまで神秘的なものだけでなく、むしろ私たちが生まれた時から持っている特性や能力といったものまでもが、否、時にはそういうものこそが、キリストの体として立つ教会の大切な働きために用いられ、新しく数え直されているのではないかと思うのです。


さて、そうしますと「全体の益となる」(12:7)私たち一人一人の賜物とは、あらためて何だろうか。そのような問いが成り立って来るのだろうと思います。けれどもそこには一つ、必ずと言っていい程ついて回る問題があります。それは、「私にはそんな賜物はない。あの人ほどの力は私にはない」といった嘆きや悲しみの声です。

このような声は、既にコリントの教会でも飛び交っていました。既にお読みした所ですが、例えばこういう声です。「わたしは手ではないから、体の一部ではない」。「わたしは目ではないから、体の一部ではない」(12:15~16)。つまり自分は、例えば手のようには器用でないから全体の役には立たない。また自分は、目のように全体を見渡せる訳ではないから部分として失格だ。といった具合です。しかしこれに対して、パウロはこう問い返しました。「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」(同17節)。

そしてもうお分かりのように、今日の所でも同じように繰り返しました。「皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか」(29~30節)。


このような文脈を踏まえますと、パウロの結論は、たとえどんなにちっぽけに思える自分であっても、他の人と比較する必要はない。皆が皆、同じ部分である必要もない。なぜなら神は一人一人に大切な賜物を与え、教会の働きのために用いようとしてくださっているのだから。そう言って鼓舞し、励まそうとしているように思えます。

言ってみれば、いわゆる「置かれた場所で咲きなさい」というメッセージにも聞こえます。ところが、今日お読みした最後の言葉に私は驚かされます。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(31節)。小さいと思える賜物であっても、それを前向きに受け入れなさいという教えとは逆です。もっと大きな賜物を求めなさい!と大胆にも勧めるのです。

「もっと大きな賜物」とは何でしょうか。私たちはここで、何をさらに示して頂いているのでしょうか。実は新共同訳聖書では、31節は二つに分かれていて、前半までが一つの区切りとなっています。そして後半の言葉は、次の第13章に繋がるものと理解されます。しかしこれを書いたパウロの心は、ここで一つの話を終わらせようとしているのではなく、むしろここからさらに心を燃え上がらせて、言葉を重ねていったのではないか。そう思えてなりません。少なくとも13章に向かうそのように高まりの中で、今日の言葉を綴っていた息遣いを、ご一緒に感じ取りたいのです。

なぜなら、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と促しながら、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と言ってこの後に展開される内容は、まさに愛についてだからです。あの有名な、「愛の賛歌」と呼ばれる言葉に繋がる箇所です。そしてもしこの愛がないならば、全てがどんなに空しいものであるかを語ってゆくのです。

次回の先取りになりますが、この愛についての言葉を見ますと、こんな風に記されます。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:1~3)。

ここに、様々な賜物を持つ人たちが並んでいます。異言を語る人、預言する人。全財産を貧しい人々に使い尽くす程の援助者。これらはまさしく今日の箇所に出てきた人たちです。しかし大切なことは、どんな賜物であったとしても、そこに愛がなければ、全ては空しく、何の益にもならない。何も無いに等しい、と言われていることです。今自分の賜物について卑下する者も、それなりに満足している者も、どうか今一度自己吟味してほしい。そこに愛が裏打ちされているか。あなたは愛に生きているか。そうでなければ教会のためにならないではないか。


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「愛がなければ」。この愛とは何でしょうか。それは何よりも、キリストへの愛ではないでしょうか。私たちの、キリストに対する愛です。キリストが私たちを愛してくださっていることは言うまでもありません。問題は、その愛に対して私たちも愛によって応えているだろうか。否、もっと遡るなら、自分がキリストに愛されているということに、どこまで深く気づいているだろうか。

残念ながら、私たちは真実の愛に生きたいと願っても、自分の中から愛を生み出していくことには遠く及ばず、また、自分がいかに愛されているかということにさえ実にしばしば目を閉ざしてしまいがちです。自分の眼鏡でしか物事を見られず、自分の基準で他者を評価し、誤解してしまう貧しさがあります。ここに私たちの愚かさが現われ、限界が見えます。しかしまさにそのように目が曇らされ、愛に破れ続ける私たちの所に、キリストの愛が注ぎ込まれるのです。

その愛は、私たちを丸ごと包み込む大きな優しさに溢れているでしょう。しかしまた、私たちを心から愛し、真実なる喜びに生かそうとする故に、私たちが立っている足元を根本から揺さぶり、自分の目や頭で捕らえている世界が絶対に思える現実に待ったをかけ、疑いをもって挑戦し、やがて死をもって全てが無に帰すと諦めている私たちの絶望そのものをも打ち砕いてくれるものです。

その時、「イースターの疑い」が私たち自身にも起こるのです。あの「イースターの大笑い」が、私たちの中にも溢れ出すのです。新しい命の喜びがそこに湧き始める。そして、この喜びをもたらしてくださる方がキリストだと知る時、私たちはこのお方のことをもっと知りたいと願うようになるでしょう。もっと従ってゆきたいと志すでしょう。そしてこのお方を愛するが故に、私たちもその愛を携え、心を込めて、自らに与えられた賜物を、今度は教会に繋がる人々のために用いようとするでしょう。そこにこそ、愛に溢れるキリストの教会が立つのです。


<祈り>

天の父よ。私たちを愛で満たしてください。私たちをあなたの愛から引き離そうとする力からどうか解き放ってください。愛がなければ全ては空しい、と嘆くばかりの世界を生きるのではなく、愛に生かされるからこそ、そこに愛が絶えず溢れるような喜びを、この教会の交わりを通して誰もが味わい知ることができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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