2022年4月3日 主日礼拝説教(受難節第5主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 箴言30:7~9
新約聖書 マタイによる福音書6:9~11
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「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(11節)。
主の祈りについての一つ一つの学びも、本日から後半に入りました。既にご一緒に学んで参りましたように、この主の祈りは、とても大きな祈りです。私たちはこの祈りの言葉を唱えながら、そこでまず、神の御名前が聖とされることを願い、続いて神の御国、つまり神の愛のご支配がこの世界全体に行き渡ることを願い、そして神の御心が天の上だけでなく、この地のあらゆる場所でも行われることを祈ります。
しかし主の祈りはまた、実に深い祈りでもあります。前半で神のことについて大きく、高らかに祈った後、後半では、今度は私たち自身の深い罪が赦されることを願い、この世の様々な試みや悪から救い出されることを求めます。このように、この祈りには前半部分と後半部分があって、そしてこの間に挟まれるようにして、ちょうどこの祈りの真ん中に、「日用の糧」を祈り求める言葉が出てきます。
「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」。
「日用の糧」とは、「その日その日に必要な分の食べ物」という意味です。大きくて深い主の祈りの真ん中に、食べ物のこと、日々の食事や食卓のことが真剣に祈られるのです。
私たちの教会では、コロナになる以前までは月に一度、サンデーランチが用意されました。有志の奉仕者の方々が、前日、あるいは日曜日の朝早くから準備をしてくださり、礼拝の後にカレーライスを振舞ってくださいました。その光景を、あるいはそのにおいを、悲しいかな、今では懐かしくさえ思います。
主の祈りは、よくよくこの祈りを味わってみますと、ここにはまるで、食べ物のにおいが薫っているようです。私たちは神に献げる祈りの真ん中で、食事のために祈っているのです。
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この祈りを教えてくださった主イエスは、村の人々と飲み食いすることが大変お好きな方でありました。周囲からは「大食漢で大酒飲みだ」(マタイ11:19)と悪口を言われるほどでした。洗礼者ヨハネとは対照的に、弟子たちに断食をお命じになることも、特になさいませんでした。十字架の前夜には弟子たちと食事を囲み、ご復活の後も、主イエスは弟子たちを訪ね求めて、彼らと一緒に湖畔で朝食をされたこともありました(ヨハネ21:1~14)。
祈るということ。あるいは、信仰をもって日々生きるということ。それは決して、単に精神的なこと、抽象的なことではありません。主イエス・キリストを信じるとは、言ってみれば、日々の食事のにおいや生活のにおいが立ち込めているまさにその所で、この体をもって祈り、具体的に主に従うことです。
心の内面や霊的なことだけを祈って、実際生きるのに必要なパン、その他目に見える物質的なことを祈り求めることはいけないことだ、などと思う必要はありません。もし日常の具体的なことをあれこれ祈ったら神さまに叱られるのではないか、永遠なる神さまの品位を落とすことになるのではないか、などという心配や遠慮も無用です。
むしろ大胆に祈ったら良いのです。なぜなら主イエスご自身が、この祈りを通してそう教えてくださっているからです。私たちは、主イエスがこの大きくて深い祈りの中で、日々のパンのことまで祈られる姿に触れることで、かえって、大いなることも些細なことも、霊的なことも物質的なことも、また内面的なことも外面的なことも、この祈りに含まれていないものは何もない、という安心と確信さえ得させて頂けるのです。すべて祈ったら良い。本気で祈り尽くしたら良いのです。
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さて、先ほども申したように、主イエスは食事をとても大事にされました。弟子たちも、旅の先々で、主と一緒に食事をしました。その中でも最大のものは、何と言っても、あの5千人の群衆たちと共にした食事でありましょう。男だけで5千人でしたから、そこに女性や子どもたちを含めれば実際の数はもっと多かったに違いありません。いずれにしましても、この時主イエスは、たった二匹の魚と五つのパンで、そこに集まった大群衆すべてを、十二分に養われました。
ところで、これに関連して少し脇道に反れますが、四つの福音書にはそれぞれ個性があります。いずれも主イエスの十字架と復活については記していますが、その他は案外、共通する物語は多くありません。例えば、クリスマスの出来事をマルコとヨハネは伝えていません。山上の説教はマタイだけ。放蕩息子の譬え話はルカだけ。ラザロの復活の奇跡は、ヨハネだけしか記していません。この主の祈りさえ、マタイとルカ以外は伝えていないのです。
しかし、この「二匹の魚と五つのパンの奇跡」は、四つの福音書のどれにも出てきます。これとよく似た記事も、特にマタイとルカは反復するように繰り返し書き留めています。どうしてでしょうか。あまりにも素晴らしく、忘れることのできない主イエスの驚くべき奇跡の御業だったから、なのかもしれません。
けれども、実はこういう理由もあったのかもしれません。忘れられない出来事だったからというより、むしろ、決して忘れてはならない出来事だったからではないか。否、逆に言えば、私たち人間は大事なことほど、実はあまりに忘れっぽいところがあるのだということを、よく自覚していたからではないか。見えるものは、見えている間は大切にするけれども、一度見えなくなると、いつしか忘れてしまう。つまりこういうことです。主イエスは二匹の魚と五つのパンをもって大勢の群衆を腹いっぱいに満たし、さらには十二籠分の余りまで出た。これは実に大きな奇跡です。けれども、おそらく30分も経たない内に、目の前にあった食べ物は人々のお腹の中に入って消え失せてしまいます。そしてさらに半日もすれば、また同じ空腹感がやってきます。
そのようにして、大きかったはずの奇跡が、次第に小さな出来事に成り下がってしまう。しまいには、どこかに忘れ去られてしまう。私たち人間の愚かな一面です。しかしだからこそ、それだけ福音書の書き手たちは、私たちが日々手にするパンと魚、つまり日用の糧のその向こう側に、恵みで満たしてくださる主のお姿がいつもあり続けることを、繰り返し語り伝えたかったのではないだろうか。そのようにも思えてならないのです。
もし、私たちが主の祈りを教わっていなかったならば、いったいどんな風になっていたでしょうか。ふだんの食卓に並ぶ小さな食事に心を動かすことはなかったかもしれません。あるいは、別に祈りなんかしなくても、すべては自分の力で毎日稼ぎ、お腹を満たし、必要を満たしているという思いを、当たり前のように積み重ね続けていたかもしれません。
けれども主の祈りは、小さな食事、あっという間にお腹の中に消えてしまう食べ物の向こう側に、実に大きくて深い、主なる神がおられることを思い出させてくれます。その恵みを忘れないように、あるいは自分が王様であると思い違うことがないように、私たちは幾度も幾度も、生涯をかけて、この祈りを祈り続けるのです。
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「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。
かつて宗教改革者のマルティン・ルターは、主の祈りで「糧」と言われる時、そこで何を思えばよいのかという問いに対して、こう答えています。「それは、肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、……平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです」(『小教理問答』)。
「糧」とは、パンに限らない。お金や財産、健康、教育、平和、否、名誉までも含んでいる。問題は、仮にこれら全てを手にすることができた時、私たちはともすれば、忘れっぽくなってしまうということです。全て自分で手に入れたかのように思い違いをしてしまう。これらの一つ一つが神の配慮であり、御用に仕えさせるための計画故のことであり、目に見える神からの贈り物であることを忘れてしまうのです。
だからこそ、あのパウロもまた、激しい言葉でコリントの教会の人々にこう発破をかけました。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」(一コリント4:7~8)。
主イエスは、主の祈りを教えることで、私たちがいつの間にか醜くて哀れな「王様」になることから、救い出そうとしてくださっています。全ては神から与えられているのだという喜びと平安にこそ、私たちが立って生きられるようにと願っておられるのです。
今日の主の祈りの中で、もう一つ、大切にしたい言葉があります。忘れっぽい私たちがぜひ心に刻み込んでおきたいのは、主イエスが「私の糧」ではなく、「私たちの糧」を願い、それも、「あり余る糧」ではなく、「日用の糧」を祈り求めるよう、教えてくださっていたことです。
「我らの日用の糧」を求める祈りは、自分以外の「我ら」のためにも目が開かれてゆく祈りです。この私が生きてゆくためには、まず自分の糧のことを祈るのは当然ですが、しかし主イエスは、私の糧だけを求めて祈りなさい、とは教えられませんでした。
古代のある説教者が、次のように語りました。「あなたの家で食べられることのないパン、それは飢えている人たちのものです。…あなたのベッドの下で白カビが生えている靴、それは履物を持たない人たちのものです。物入れの中にしまいこまれた衣服、それは裸でいる人たちのものです。金庫の中でさび付いている金銭、それは貧しい人たちのものです」。
もし私たちが、全ては神から頂いたものであることを知った後でも、相変わらずその全てを、自分の懐にしまったままでいるならば、私たちは、さらに醜い王様になっているかもしれません。私たちに与えられている日々の食事や人生の様々な財産は、どこか見えない所にずっとしまい込み続けるためにあるのでしょうか。
「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」。
私たちは、こうして主の祈りのこの言葉をじっくり噛みしめながら祈る時、実に痛く、鋭く突くような問いをも投げかけられます。今自分が手にしているあらゆる持ち物を吟味するように促されてもゆきます。しかしまた、だからこそ「我ら」と祈る時、その私たちの中で見るべき隣人が誰であるのか、またその隣人が何を必要としているかが見え始めて来ます。「我らの日用の糧」と祈る時、身近で、また世界中で、飢えに苦しんでいる人たちのことが日々の祈りの中に加えられるようになります。そのために自分は何ができるだろうかと、アンテナを張り巡らせながら歩むようになります。
私たちは、確かに主イエスのお名前によって、主イエスに教えられたように、何でも大胆に祈り求めることのできる自由と恵みが与えられています。その願いにいつも耳を傾けてくださる、生きた神との交わりにも入れられています。だからパンのことだけでなく、生活に必要なもの、健康や将来のこと、名誉のことまでも、あれやこれやと祈り願うことができる。祈ることを許されている。
けれども、ここで最後にもう一度、主イエスから私たちが教えられているのは、「あり余るほどの糧」ではなく、「日用の糧」を祈るということです。確かに何でも祈っても良い。しかし祈るべきは、明日のことではなく、今日この日、本当に生きてゆくために必要な糧です。この一日を心から幸せに生き切るために、いったいこの私には今日、何が本当に必要なのだろうか。あれもこれも必要と思って祈ってはいるけれども、自分が何を必要としているのかを本当は良く分からないまま、祈り続けてはいないだろうか。それが無ければ生きていけないというものを、本当に祈り求めているだろうか。
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その意味で、あらためて、この主の祈りの中で祈られているのは、パンだけなのです。矛盾することを言っているように聞こえるかもしれませんが、あれもこれもではなく、結局はただパンのみ。これを祈り願っているのです。ここに、他の言葉を付け足して祈るようには教えられてはいないのです。「我らの日用の糧」。その日それが無ければ生きていけない真のパンを、祈る。そのことに命を懸けて祈り続けなさい。求めなさい、と主は教えられるのです。
私たちは今、主イエスがこの祈りを教えられた時代はとははるか隔たった時代に生きています。文明社会に生きている。物が溢れ返った消費文化の中を生きている。そのただ中で、この主の祈りを祈る、とはどういうことなのでしょうか。「私たちに必要な日用の糧を、今日与えてください」。しかし私たちは、実は特別こんな祈りをしなくたって、既に日用の糧は与えられている。冷蔵庫を開ければいつも食べるのものはあるし、無くなれば買い足すお金もそこそこある。贅沢さえ時々できる。それが率直な思いではないでしょうか。この祈りの言葉はどこかしっくりこない。現実とかけ離れている。
しかし、もし私たちがこの祈りの真実に触れながら祈り続けることを諦めないならば、実は私たちは、この祈りを祈りながら、「もうこれで十分であるということを知る恵みを与えてください」という心で祈ることができるようになるのではないでしょうか。ある人がこの祈りを、次のように言い換えた言葉が印象的です。「この世界が多くの物によって誘惑してくる時にも、私たちが『いらない』と言えるように助けてください」。何でも飛びついて欲しがるのではなく、そこで「いらない」と言える勇気、もう十分だと思えるだけの信仰の尊さを思います。
したがってこの主の祈りは、自分が欲しいものを「あれが欲しい」「これが欲しい」と求めるためだけの祈りではなく、自分に本当に必要なものを求めることができるよう訓練してくれる祈りなのです。祈り続ける中で、それも自分で何が欲しいのか良く分からないまま祈り続ける中にあっても、やがて本当に必要なものが示されてくる。否、むしろ既に自分に与えられていたものが、自分にとって本当に必要なものであったことにさえ気づかされてゆく。既にそこに十分な恵みが満たされていたいたことに驚かされる。そしてそれに気づかないまま我を張っていた自分を、神の御前で悔い改めるようになる。そしてまた、だからこそ、そこから受ける恵みだけでなく、人々に与え、分かち合ってゆく喜びへと押し出されてゆくのです。
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。
私たちは、跪きながらでしか、この祈りを祈ることができません。その時、実に主イエスご自身が真のパンとなってくださったことに気づかされてゆきます。その命の糧を絶えず頂きながら、私たちはこの地上で、なお無くてはならない本当で確かな糧を、キリストと共に祈り求める者でありたいと願います。共にこの祈りを、今日も明日も祈り深めながら、神に、そして隣人のために、祈り上げてゆきましょう。
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