top of page

「アーメン、アーメン!」

2022年8月7日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第10主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書61:1~3
新約聖書 コリントの信徒への手紙二1:18~22

             

昨年の10月より、毎月第1週目の礼拝でご一緒に少しずつ学んで参りました「主の祈り」の言葉。本日で最後を迎えました。最後の言葉は「アーメン」。私たちが祈る度に、最後に口にする言葉です。しかしこれは、単に祈りの終わりを締め括る合言葉でしょうか。

私は幼い頃、礼拝の最後の祝祷で全員が「アーメン」と唱えれば、それは教会堂から飛び出して、もう遊びに出かけてよいことを意味する合図のように感じていました。また、食前の祈りの「アーメン」も、目の前のご飯を「もう食べてもいいよ」と許してくれる合図、否、ほとんど「いただきます」に近い意味にしか受け取っていなかったような気がいたします。

「アーメン」。しかし、これはもちろん、単なる結びの言葉でも、お決まりの飾り言葉でもありません。その意味は、「その通りです」、「今祈ったことに嘘・偽りはありません」、「確かに真実なものです」。このようなことを意味する信仰の言葉です。先ほどご一緒にお読みした、コリントの信徒への手紙二の第1章の中で度々出て参りました言葉で申せば、まさに「然り」ということであります。

では、何に対する「然り」なのか。それは一つには、主の祈りに即して理解すれば、その直前の「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」という告白に対する然り、アーメンです。けれどもこの「アーメン」はまた、それまで祈ってきた祈りの一つ一つに対して、つまり、主の祈りの全体に対する「アーメン」でもあると言うことができるでしょう。

しかし、今日ぜひご一緒に心に刻みたいのは、このアーメンは、実は祈りの内容をも超えて、今この自分が神の御前で、主イエス・キリストの御名によって祈っている、その神との交わり自体の確かさ、またそれ故の祝福の確かさに対する「アーメン」でもある、ということです。そのように、祈りにおいて神との真実なる交わりに招き入れられて初めて、実は私たちは、この世のあらゆることに対しても、そこに深い神の恵みのご支配があることへの「アーメン」の真心が与えられてゆくのです。


**

数年前のある説教で「幸せなら手をたたこう」という、おそらく誰もがご存知であろう日本の童謡に触れて、その秘話と申しますか、あるいは後日談のようなものを、お話したことがあったと思います。

子どもたちの間だけでなく、かつて日本中でヒットしたこの有名な歌でありますけれども、この歌を作詞したのは、木村利人というクリスチャンの方でありました。今朝の礼拝の初めに、招詞(招きの言葉)として読まれました詩編第47編の次の御言葉を土台にして作ったと言います。「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王」(2~3節)。

大学の先生でもあったこの木村先生が、ある時、私の出身教会で催された講演会に講師として招かれたことがあります。講演の最後の質疑応答の時間に、一人の子どもが、こんな直球ボールの質問をぶつけました。「幸せなら手をたたこう、って言うけれども、もし幸せじゃない時は、どうすればいいんですか?」。この歌を、諸手を挙げて無邪気に歌うことなどできない現実を、子どもながらに直視していたのでしょう。そしてこれは、多くの人々の心の内を代弁する問いでもあったに違いありません。

さて、さすがの木村先生も、これには少々苦笑いをされました。しかしすぐに真剣な眼差しで、一言「自分は牧師ではないけれども」と断りを入れながら、このように返答されました。「もちろん、人の一生は幸せばかりではない。むしろ楽しいことや嬉しいことよりも、苦しいことや悲しいことの方が多いとさえ言えるでしょう。だからそんな時は、こんな歌は歌える気分ではないし、手を叩こうなんて真っ平だ、と反発するのも当然でしょう。幸せじゃない時は、無理して手を叩かなくてもいいですよ」。

しかしこの後に添えられた返答の言葉が、私には忘れられません。「でもね、だからこそ、自分が幸せじゃない時に、この歌を思い出してほしい。否、この歌を通して神様を思い出してほしい。確かに幸せの基準は、人それぞれ。その人の感性や主観によるもの。でも人生にはね、そのように自分自身を根拠にして測る幸せとは違う幸せがある、ということもぜひ知ってほしい。自分の手応えや確信を土台とする幸せは、いつも揺らいで崩れてしまう。でも神様が約束してくださる幸せは、決して崩れることはないし、自分が思う幸せよりはるかに素晴らしい。その神様の約束の中にあなたも招かれていると信じているし、あなたもそれを信じることができた時、必ずまた手を叩く日が来ると私は信じています」。


***

もしもこのように、自らの人生を、神の約束の中で幸いだと確信できるならば、私たちは手を叩くのと同じ意味で、「アーメン」と、生き生きとこの言葉を言い放つことができるでしょう。「手を叩く」という行為と、「アーメン」という告白は、まさに私たちの人生と祈りとが、一つとなる現実に他なりません。そうであれば、我が人生に対して、命に対して、そして日々の生活においても、「アーメン」と真実に言えるようになることが、実は私たちに与えられた信仰の歩みの目指す所であると言っても過言ではありません。

私たちは、どれだけの思いを込めて、「アーメン」と告白することができるでしょうか。この最後の祈りの言葉は、世界の共通語です。国が違えば言葉も違うこの世界にあって、祈る言葉は実に多様で、バラバラでありますけれども、しかしやがて、このバラバラの言葉は、いつでもどこでも、一つの終着点に向かいます。「アーメン」。この言葉は、多少発音やアクセントは違っても、そのまま今でも万国共通語なのです。アーメンこそ、世界中の教会を繋ぐ、究極の祈りの言葉です。


この言葉の源は、他でもない主イエスご自身の言葉に遡ります。福音書を読みますと、主が繰り返し用いておられる言い回しがあります。それは、新共同訳聖書で「はっきり言っておく」と訳されている言葉です。これが出てくる箇所をざっと数えるだけでも、70回は越えます。例えば、まさに主の祈りが、主イエスご自身によって教えられたことを書き記すマタイによる福音書第6章5節で、次の言葉があります。「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。

このように、とても大切なことを仰る時に、主は度々「はっきり言っておく」という言葉を強調されました。しかしここには一つ、日本語に訳されていないものがあります。この「はっきり言っておく」の箇所を原文通りに訳し出すと、実は主はきまって、「アーメン、私はあなたたちに言う」と仰っていたのです。つまり主イエスは、ある場面で何か大事なお話をされる度に、「アーメン、アーメン」と必ず繰り返しておらたのです。

ここで注目したいのは、私たちが唱える「アーメン」は、いつも祈りの最後であるのに対して、主が口にされる「アーメン」は、いつも言葉の最初、あるいは事柄の最初に立って、確信の言葉として宣言されているという点です。時に私たちは、相手の祈りやお話に相槌を打つような意味で、その所々で「アーメン」と重ねることがあります。しかしその場合も、あくまでも、その言葉を聞いた後の「アーメン」でしかなく、聞く前から「アーメン」とは言えません。

しかし主イエスの「アーメン」は、いつでも事柄の最初なのです。否、むしろその事柄や出来事こそを起こす力としての「アーメン」。全てに先立つ「アーメン」。「然り」というその確信が、出会う人すべてを包み込む「アーメン」。これは、主イエスだけにしか語れない確かな言葉です。なぜなら主イエスご自身が「アーメン」そのもの、真実で確かなお方であるからです。


****

私たちの祈り、しかもその最後の確信的な告白である「アーメン」を支えるのは、私たちの確信でもなければ、熱心さでもありません。ただただこの真実なるお方、主イエス・キリストによる「アーメン」に他ならないのです。

しばらくコロナのために、その学びをお休みしている「ハイデルベルク信仰問答」があります。この最後の問いと答えはこのようになっています。


問「アーメン」という、小さな言葉は、どういう意味ですか。

答「アーメン」というのは、これは真実であり、確かであるに違いない、という意味です。なぜなら、私の祈りは、自分の心の中に、自分がこのようなことを神に求めている、と感ずるよりもはるかに確かに、神によって聞かれているからです。


繰り返しこの言葉に触れる内に、信仰の深い恵みと慰めとが、一人一人の内に染み渡ってゆくことを信じます。私たちは主の祈りを祈る時、必ずしも自分の祈りに確信があるとは限りません。しかし私たちがそこで祈り願っていることは、この私が心の中で感じているよりもはるかに確かに、神に聞き入れられている、というのです。

いったい、祈りが真の祈りとなるための条件とは何でしょうか。私たちに確かな祈る心があり、祈る言葉が整えられた時でしょうか。もちろんそれら無しには、祈りすら始まらないのかもしれません。けれども、そうした私たちの側の条件よりもっと確かな仕方で、既に祈りが始められ、支えられ、その祈りが真実な祈りとなるための根拠がある。それは、その祈りを待ち、その祈りを喜び、その祈りに耳を傾けくださるお方がいらっしゃるということです。私たちが神を知る以上に、私たちを知り尽くしてくださる神が、その祈りを聞き入れてくださっているということ、これ以上の確かさは無いのであります。その確かさが跳ね返って来て、私たちの「アーメン」が生まれるのです。


この信仰問答はそう言って、本日与えられましたコリントの信徒への手紙二の第1章20節の言葉を引用いたします。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」。

「この方」、それは、主イエス・キリストのことです。この主に依り頼んでこそ、「アーメン」と言える。告白できる。讃美できる。自分が今祈っている実感があるかないか、その確かさは、実は決定的な問題ではない。むしろそれに勝るキリストの確かさ、キリストの救いの確かさの中に身を置くのです。そこに身を置けないと諦めるこの私を、なおもそこで招き寄せてくださる主の御手を握り返し、その御顔を仰ぐのです。

私たちの不確かさが露わになるのは、祈りだけではありません。日々の生活において、仕事において、学校において、ありとあらゆる人間関係において、否、そうした交わりさえ一切絶たれたように思える所で、一人孤独に、なお強く歩もうとするその姿においても、私たちの不確かさは、いつでも神の光のもとで明らかとなります。およそ私たちは、その存在において不確実で不完全なもとへと堕落していると認めざるを得ません。もしも私たちが確実で完全な存在であるならば、全てはうまくゆき、いつでも幸せな心地で手を叩き続けることができるはずではないでしょうか。

いったい、この世で確実で完全なものは何でしょうか。もはや、私たち自身であろうはずがありません。神こそが完全でいまし給うお方。このお方の完全さが貫かれる所に、キリストは来てくださいました。私たちの救い難き不完全さ、そしてその根っこにはびこる、神との関係に敗れた罪を負いながら歩む私たちを、どん底の闇から救い出してくださったお方です。


*****

私たちの祈りは、主の祈りであれ、日々の祈りであれ、この救い主なしに決して祈ることはできません。キリストの確かさが揺るぎなく差し込まれる所でこそ、私たちの祈りは真実な祈りとなります。またその祈りを生み出す我が人生も、幸いなものへと導かれます。変えられてゆきます。今日この日もそのように導いてくださる主なるお方との我が人生に、自らも「アーメン」と確信をもって言うことができるのです。

やがて、私たちも人生を終える日を迎えます。その時、私たちは祈りの最後だけでなく、人生の最後においても、「アーメン」と確信をもって告白できる者でありたいと願います。いや、世の終わりが到来する、その救いの完成の時を迎える時にも、「私の人生は、本当に神の真実の通りだった。確かに間違いはなかった」と讃美する者でありたいと願うのです。

私たちは、今日から再び主の祈りを、また日々の祈りを祈り始めます。そしてこの小さな祈りに、確かな「アーメン」を積み重ねてゆく時に、私たちは、いつでも人生の終わりに向けて備えをすることにもなります。しかしその時、ぜひ忘れないでいたいことがあります。「アーメン」と唱える時、そこにはもう一つの「アーメン」が重なり合う、その響き声です。これは、この自分が決して一人ではないことの証しです。世界中の友、そしてこの教会の信仰の友が、今日も一緒に同じ言葉で「アーメン」と祈っているのです。たとえ自分が確信を持てない時にも、幸せを感じられずに手を叩くことができない時にも、信仰の仲間が私を励ますように、私の代わりとなって、「アーメン、アーメン!」と力強く祈ってくれているのです。そうしながら、神との交わりの中へ私を連れ戻してくれるのです。

そしてこの「アーメン、アーメン!」と重なり合う響きは、私たちに先立つ主イエス・キリストご自身からの「アーメン」が、いつでも私たちの「アーメン」を呼び起こしてくれることを示す、真実の声なのです。主の「アーメン」に、私たちも「アーメン」と応え続ける歩みを踏み出しましょう。


アーメン、アーメン!

インマヌエル、アーメン!


<祈り> 

天の父よ。不確かな私たちの現実の中に、目に見えざる確かな真実を、あなたは与えてくださいました。幸せとは思えない時にあっても、幸せ等どこにあろうかと迷子になっている私たちを、しかしあなたは捕らえてくださいました。その愛の中で生かされるならば、私たちはあなたに向かって「アーメン」と讃えることができます。どうか日々の祈りに添えられる「アーメン」が、私たちを真に生かす「アーメン」となりますように。主イエスの確かな「アーメン」に応える「アーメン」でありますように。そしてこの自分が一人ではないことを教えてくれる、友の「アーメン」として聞くことができますように。あなたこそが、真の神として崇められますように。主の御名によって祈ります。アーメン。



Comments


bottom of page