2022年12月18日 主日礼拝説教(降誕前第1主日)
旧約聖書 創世記2:15~17
新約聖書 コリントの信徒への手紙一11:1
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昨日は、一足先にこどもの教会のクリスマス会が行われました。コロナの制約を伴いながらも、様々な工夫を重ねて、全体で30名ほど集まったでしょうか。終始賑やかで、笑顔の絶えないひと時となりました。会の様子については、参加者を通じてぜひ多くの方々にも知って頂きたいと思います。そして今年のクリスマスページェントの動画については、来週のクリスマス祝会であらためて皆さんとご一緒に鑑賞しますので、楽しみにして頂きたいと思います。
ところで、このクリスマス会に一つ、番外編にあたるものがありました。と申しますのも、今回の参加者の中に初めて参加される方がいらっしゃったのですが、その方から予期せぬところで、嬉しいお言葉を頂戴したからです。お孫さんと一緒に参加されたその方は、建築のお仕事をされているとのことで、まさにその目で、この会堂をじっくりご覧になって、色々と感じ入っておられるご様子でした。
そのご感想を、私はその方から、会の始まる前にも後にも、大変興味深く伺うことができました。この会堂のもつ独特な雰囲気や、建築上の造りの巧みさ等に感心しておられました。そしてもう一つ、その方が注目してくださったものがあります。それは「照明」です。特に強調されたのは、講壇上の照明でした。会衆席の六つの照明に比べて、講壇上のこの一つの照明だけが、形も大きさも異なります。さらには、これだけが少し高い位置に置かれている。
実はその方は、会堂に入られた時から、十字架がないことにもすぐ気づかれていたようです。しかし、それに代わるものがこの講壇の照明ではないか。会衆席よりも高い所にあって、光を放っている。これこそが、この礼拝堂の中心ではないか。そう仰るのです。
私は、確かにそうだと思いました。この照明の光は、十字架に代わる光である。もっと言えば、十字架という栄光を現わしている。否、さらに言い換えるなら、十字架を通して現わされる神の栄光に他ならない。そしてまさにここに礼拝堂の中心、否、礼拝そのものの中心がある。私たちは毎週、この光に招かれて礼拝堂に集められ、そしてまたこの光を身に受けて、神の栄光を映し出す器として世に押し出され、遣わされるのです。
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こうして、思いがけない仕方で「神の栄光」について思いを巡らせながら、今朝与えられましたパウロの手紙を読み返してみます。すると、一つのことに気づかされます。本日の箇所ではありませんが、地続きのように繋がっている前回の所に、次のような言葉がありました。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10:31)。
パウロはここで、「神の栄光」という言葉を用いながら、しかしこの神の栄光を、神ご自身の手によって現わされるものとしてではなく、実に私たちの振舞いによって現わされるものとして描き出すのです。しかも驚くべきことに、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても」とある。つまり、私たちの日常の飲み食いの振舞いにおいてすら、神の栄光が現わされるということです。否、もっと大胆に言えば、日常の飲み食いに代表される、私たちのあらゆる日々の生活における自由な振る舞いにおいてこそ、神の栄光は現わされるのだと語るのです。
けれども問題は、その自由な振る舞いが、時に人を惑わせたり、苦しめたり、あるいは、人を神の恵みから引き離したりしてしまうことがあるということです。確かにパウロは、これも前回の所ですが、「すべてのことが許されている」(10:23)という言葉を繰り返し述べながら、キリスト者にはあらゆる束縛から解き放たれ、何をしても許される自由があるのだということをはっきり認めます。
「しかし、すべてのことが益になるわけではない…しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」(同)とすぐに戒めたように、自由に振舞ったことの全てが、良い結果をもたらすとは限らない。逆から言えば、もしも人に益するような振る舞いができないところでは、どんなにあなたたちが自由であっても、その自由はあなたたち自身を豊かに造り上げるものとはならない。教会を真実に建て上げるものにもならない。ひいては、神の栄光を現わすものには到底及ばない。パウロにしてみれば、神の栄光を現わすことができない自由など、もはや本当の自由ですらないのです。
パウロがこの手紙を宛てたコリントの教会で、偶像に供えられた肉を食べて良いかどうかを巡って、深刻な対立が起きていたことは、既にご承知の通りです。その肉を食べることに何ら躊躇を覚えずにすむ人たちが一方ではいた。信仰によって自由を得ていたからです。他方で、この肉をどうしても食べることができない人たちもいた。食べることで汚れてしまうのでは、という不安があったからです。このように、誰かの自由が必ずしも他の誰かの益となるとは限らず、教会を造り上げるどころか、崩してしまう現実があったのです。
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さて、そこでようやく、今日お読みしたパウロの言葉にあらためて耳を傾けてみます。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(11:1)。
パウロはこれまで、実に様々なことを語り続けて来ました。途中、私たちを惑わすような込み入った議論を度々挟みながらも、しかしそれだけ熱心に、畳みかけるように、問題だらけのコリント教会に向かって言葉を尽くし、思いを尽くして言葉を重ねてきた。しかしここに来て、一つの休止符を打つのです。言葉による諭しを止める。そして言うのです。この私を見よ。「わたしに倣う者となりなさい」。
この「わたしに倣う者となりなさい」という言葉は、既に第4章16節にも出て参りました。その言葉をパウロはここでも繰り返す。しかし一般に、人に向かって「自分に倣いなさい」というのは、少々不見識で、むしろ傲慢な態度だと批判されかねない言葉に聞こえるのではないでしょうか。ましてや、教会の中でこうした言葉が聞かれれば、「あなたの信仰は弱い。間違っている。それじゃあダメだ。この私に倣いなさい」といった具合に、相手を侮辱するニュアンスとして伝わってしまうでしょう。この言葉こそ教会を壊しかねない。いったい、あなたは何様なのだと。
実際、主イエスもかつて、このように戒められたことがあります。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。……『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ23:8~12)。主ご自身が、ご自分以外の何人も、先生や師と呼ばれてはならない、ただこの自分一人だけが真の師であることを告げられるのです。
そのようなことからしますと、パウロは今、重大な発言をしているということになります。教会をさらに分裂させかねない言葉を、堂々と言い放っている。しかしパウロは、無自覚にこれを言ったのでしょうか。つい口を滑らせたのでしょうか。しかし、彼はこれを繰り返しここでも述べるのです。ならば、むしろ危険を冒してでもこう言わなければならなかったパウロの必然性や確信、その拠って立つ礎はどこにあったのか。私たちはそこに目を向けるべきでありましょう。
「わたしに倣う者となりなさい」。
この「倣う」という言葉は、文字通り、模倣する、つまり真似をするという意味です。私たちが何か大切なことを学ぼうとする時、それはどのように始まるでしょうか。一人で本を読んだり、勉強したりすることもそうでしょう。しかし最も基本的な方法は、誰かの真似をすることからだと言えます。ちょうど幼い子どもが言葉を覚える時、親や先生の後に続いて、その言葉を真似るように発音するのと同じです。
「学ぶ」という言葉が、「まねぶ」、つまり「まねる」に由来するという説明は、よく耳にするところです。私たちは誰かの真似をすることで、一つ一つ大切なことを学ぶ。そのようにして、パウロも今、コリントの教会の人々に自分を真似るように諭すのです。真似ることで、大切なことをぜひ学び取ってほしいからです。否、学び直してほしいと心から願っているからです。
パウロがここで学び直してもらいたいと願っていること。それは、自由とは何かということです。本当の自由に生きるとは、どういうことかということです。そして自由に生きながら、その自由が人の益となり、あなた自身を豊かに造り上げ、さらには、キリストの体なる教会こそをそこで建て上げながら、まさにそうした姿が、神の栄光を輝かせることになる。そんな生き方をするには、どうしたらよいか。そのことを強く伝えたいと願っているのです。
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本日、併せて旧約聖書の創世記をお読みしました。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」(2:15~17)。
アダムとエバが、神に「決して食べてはならない」と戒められた「善悪の知識の木」の実を取って食べてしまったところから、人類の歴史に罪が生じるようになった、いわゆる「原罪物語」の最初の場面です。しかしこの物語が興味深いのは、罪という言葉を使わないで、私たち人間の罪の現実を鋭く描き出している点です。いったい、私たちが罪を犯して生きるとは、どんな姿のことを言うのか。それは、人は自由を与えられていながら、いかにその自由を正しく用いることができないでいるか。その姿に他なりません。
アダムとエバは、確かに神から自由を与えられていました。「園のすべての木から取って食べても良い」という許可が、自由として与えられていたのです。けれども、その後蛇に唆され、二人は互いに誘惑に誘い合います。そして結局、自らの欲望を最大限に満たすために、禁断の実を食べてしまった。神のように賢くなろうとして、神に逆らうことさえできる自由を行使して、食べてしまった!
しかし彼らはその結果、神の予告通り、裁きを受けて死ぬ者となりました。「食べると必ず死んでしまう」。この「死」は、何を意味するでしょうか。肉体的な死のことではありません。彼らが食べてしまった実に毒があったから、息絶えたのではない。そうではなく、その実だけは食べてはならぬと命じられた、神御自身の言葉に背いたから死んだのです。そこで神との関係が破れてしまったのです。破れることによって、霊的な酸欠状態を起こして呼吸困難となってしまった。そして、人間としての本来の生き方ができなくなってしまった。その意味で、死んでしまったのです。
では、彼らはどうすれば死なずに済んだのでしょうか。もちろんそれは、神の命令を守ることです。神の言葉に忠実に従うことです。しかし今日の創世記は、既にこのことについて一つ、具体的なことを教えていました。「人がそこを耕し、守るようにされた」(15節)。
アダムは最初、神に住まわせて頂いたエデンの園で自由を与えられた時、その自由を、ただ謳歌しながら好き勝手に遊んでよいとは言われませんでした。その土地を「耕し、守るように」言われた。そしてそのために、「彼に合う助ける者」(18節)として、妻エバが、共に生きる者として与えられたのです。つまり、共に汗水流して働きながら助け合い、生かし合ってゆく。そのようにして、互いに呼吸をするように神の言葉を聴きとりながら、神の栄光を現わす。神はそうした姿を求めておられたのです。
しかし、結果は明らかです。彼らはそのように生きることができませんでした。与えられた自由を誤って用いたために、結局相手を助けるどころか、互いに裁き合う関係となってしまった。皮肉にも、そこで自由どころか、不自由さを抱え込んでしまうことになった。それもこれも、発端はすべて蛇の誘惑の故です。人の内側に蔓延ってこだまする、罪のささやき声の故です。
コリントの教会の人々も、同じでありました。神から与えられた自由を、正しく用いることができないでいる。隣り人が見失われ、神の真実なる言葉が聞き流されて、霊的な呼吸困難を起こしている。そのようにして、自由のただ中で、罪に支配されてしまっている。これは、時代をさらに経て、今の私たちも同じではないでしょうか。だからパウロは呼びかけるのです。コリントの教会の人々に。そして今日、これを読む私たちにも。「わたしに倣う者となりなさい」。
私の真似をしなさい、と言う。しかしこの時、一つ大切なのは、ではどんな風に真似したらよいかを、ここでパウロがはっきり方向付けていたことです。「わたしがキリストに倣う者であるように」、と。つまり、パウロがキリストの真似をするように、あなたがたも真似してみてご覧なさい、と言っているのです。
パウロは決して、自分こそがコリントの教会の人々が見倣うべき頂点に立つ先生だ、という高ぶりから自分に倣えと言い放ったわけではありません。自分も見倣うべきお方がいる。それはキリスト。このお方に倣う自分こそを、皆にも真似てほしい。そのようにして、結局皆が皆、私を通して、このただお一人の師であるキリストに倣ってほしい。真似てほしい。ここにパウロの心が込められています。
キリストに倣う。しかし、そんなことができるのだろうか。以前、まさに『キリストに倣いて』という書名で世に出された翻訳本が、話題になったことがありました。しかし必ずしも、良い評価を得て話題になったというより、特に日本のプロテスタント教会においては、それ程評判が高くなかったという話を聞きます。
そこには一つ、本のタイトルの問題もあったのかもしれません。「キリストに倣いて」。しかし、キリストの真似をするということの前提にあるのは、実は私たちにもキリストの真似をする力があるということでしょう。そうならば、要するに信仰とは、その自分に備わっている力を用いて、キリストの真似をするということになる。しかし、はたしてそんなことが可能なのだろうか。それはむしろ、人間にとって絶対的な存在であるキリスト、光輝く栄光のキリストを、自分の手に届く領域に引きずり下ろして、隣に相並ばせることになりやしないか。否、私たちが神に教えられているのは、まさにそうした力を捨てることではなかったか。
これは、もっともな批判だと思います。私たちが真摯に心に留めておかなければならない戒めです。しかしその上でなお、パウロがこれを言い得ている真実を、私たちはまさに神の栄光の中で知らされたいと願うのです。パウロが「キリストに倣う」と言う時、それはどんなキリストの姿を指し示していたのでしょうか。そしてまた、このキリストがパウロを見つめておられた時の目は、どんな眼差しだったのでしょうか。
「キリストに倣う」という以上、パウロにとってキリストは、やはりどこまでも、真似ができるほど近くにおられるお方であり、手の届く位置におられるお方であったということです。しかしそれは、パウロが自らの力で、キリストを地上に引きずり下ろすことによって可能となった関係では決してあり得ません。むしろキリストご自身が降りて来られたのです。パウロの元に、パウロの友として訪れてくださったからです。
パウロはかつて、キリストを拒み、キリスト教徒を迫害する者でした。そのように、自らの正しさと自由に生きることを誇りとした人です。しかしそれはまた、神との生きた交わりから離れていた姿でもあり、罪の虜となっていた姿に他なりません。その罪人の友に、キリストがなってくださった。相並んで歩む者となってくださったのです。
しかし同じ地平に立ってくださるキリストの真実の姿は、私たちの思いをさらに超えて深く、近いものであり、そして永遠に留まるものです。なぜなら、そこで私たちと相並んでくださるキリストは、私たちをご自身の内に包み込んでくださっているお方だからです。相対する者を絶するという意味での絶対的なお方が、しかし今、私たちに相並ぶ者として降りて来られた。そして、その地平をさらに深く打ち破って、よろめく私たち、否、全くもって包むべからざるこの私たち罪人を、ご自身の内に何としても包み込もうとされて、今共におられ給うからです。
そこには当然、キリストの痛みが伴います。私たちは、包み易い丸っこい存在ではなく、罪の棘に満ちた存在だからです。しかし、その私たちを包み込むキリストの愛が、それに勝って溢れ出ます。ご自身の内に痛みを伴ってでも、私たちを包んで赦し、共に歩んでくださるキリストの決死の覚悟が、憐れみが私たちを生かすのです。あの十字架上の苦しみは、その極みの出来事でした。キリストは、最後までご自分のためではなく、私たちのために歩まれました。
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「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」。
このパウロの一言は、キリストの愛なしには生まれるはずもありませんでした。パウロが、自らに倣えと指さしたその自分とは、キリストに倣うことができている自分ではなく、そのお方を蔑ろにしていた自分をなお赦して包み込んでくださった、そのキリストによって捕えられた自分に他なりません。
パウロがパウロであること。自分が自分であることの根拠は、この恵みをおいて他にないのです。キリストの真の愛のご支配を受けている限りにおいて、私たちは自分自身となる。自由となる。他者のために生きる者となるのです。そしてそこに、キリストの体なる教会が造り上げられます。神の栄光の輝きを放ちながら、この地に立ち続けるのです。
<祈り>
天の父よ。待降節を覚えるこの時、今日の御言葉を聞かせてくださりありがとうございます。御子が到来してくださった意味を、またその姿をあらためて噛みしめます。そして再びやって来られるその日を、なお待ち望みます。朽ち果てるこの肉体、罪の縄目から抜け出せない私たちの愚かさにあって、どうか真の自由を得させてください。その恵みに生かされる姿が、互いの励みとなるようにこの交わりを強めてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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