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「キリストの思いを抱いて」

2022年1月23日 主日礼拝説教(誕降節第5主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書40:12~14
新約聖書 コリントの信徒への手紙一2:9~16

              

私は最近、ホームスクールで育った人と出会うことがありました。ホームスクールというのは文字通り、家の学校ということですが、いわゆる学校を拠点とした教育ではなく、家庭を拠点とした教育のことを言います。学ぶ子どもたちは、学校に通うのではなく、主に家庭の中で学習をすることになります。

学校教育の中で育った私は、ホームスクールの実際の様子について何も知らないために、いくつか初歩的な質問をその方にしました。その中で一つ、印象的なことがありました。私はかつて社会科では特に「地理」が好きだったので、単純にこう訊ねたのです。「地理も、国語や算数のように家で学んだのですか?どんな風に学んだのですか?」。その方はこう答えました。

「例えば、○○という国では、△△という自然の条件があって、□□という問題があるとします。その時、その事実を表面的な知識としてだけ覚えるのではなくて、そこで実際に暮らす人々の姿を思い浮かべながら、彼らの祈りの課題は何だろうかと考えました。否、彼らの祈りだけではなく、自分も、彼らに対してどのように祈れるだろうか。そしてキリストは、今どんな思いで彼らと一緒に歩んでおられるだろうか。そんな風に思いを深めていきました。そういう眼差しの中で、一つ一つ知識を習得していきました。そういう学び方のおかげで信仰も鍛えられたし、世界への関心や見方も豊かに培われたように思います」。

私はこれに驚きながら、深く感心しました。美しいとさえ思いました。それは学びそのものが、祈りと結びついているという点で、人間の知性の瑞々しさを感じたからです。知性が、知性の枠を越え出てゆくような崇高さ、とでも言うべきでしょうか。あるいは、知性が捕えようとする何がしかの事柄の、実は向こう側から聞こえてくる声にこそ耳を傾けることで、事実の背後に隠された真実に目を向ける、と言うべきでしょうか。ともかく、そこに深い関わりをもちながら自らの祈りを注いでゆく。そうした、いわば霊的な姿や交わりの中で、生きた知性というものが初めてしっかり場所をもって、輝き出す。私は、そんな不思議な心地がしてなりませんでした。


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いったい、どうしてこんな話から始めたのか。あえてその要点を取り出すならば、それは人間の「霊性」と「知性」との関係、あるいは「霊性における知性」、ということになるのだと思います。少し難しい話に聞こえるかもしれません。

しかし、どうでしょうか。今日私たちに与えられましたコリントの信徒への手紙。ここをお読みになって、皆さんはどのように感じられたでしょうか。何だかよく分からない。ぼんやりとした、霧の中でさ迷っているような思いを抱く方もおられるかもしれません。その霧が少しでも晴れることを願いながら、今日はあえて、最後の言葉を入口にして、御言葉の中に分け入ってみたいと思うのです。

「わたしたちはキリストの思いを抱いています」(16節)。パウロはこの言葉を、今日の箇所の一つの結論のようにして、確信と誇りをもって書き送ったに違いありません。そこで一つ注目したいのは、「キリストの思い」という言葉です。ここは、例えば新改訳聖書では「キリストの心」とも訳されるように、「思い」、「心」、等という風に、様々な訳が可能な言葉が使われています。その元々の言葉を原語のギリシア語で当たってみますと、それは辞書を引く時に大抵、真っ先に出てくる訳語で申しますと、「理性」と普通は訳すことのできる言葉なのです。

特にギリシアは、多くの哲学者を生んだことからも、この言葉はむしろ「理性」と訳す方が自然とさえ言えます。けれども、これをもしそのまま「理性」と訳すと、この手紙を書いたパウロの主張の文脈からすると、誤解を招くことになったでしょう。なぜなら彼は、これまで、福音理解における人間の知恵、あるいはこの世の知恵、つまりこの地上のあらゆる知的営みや能力というものに対して、明白に否定し続けてきたからです。だから日本語聖書では、「心」とか「思い」という風に訳すことで、読者に誤解を与えないようにしたと考えられます。そして実際、ギリシア語の「理性」という言葉は、そもそも日本語で「理性」と呼ぶものよりさらに多様な意味をもつと考えられることから、「心」や「思い」という訳は決して間違いではありません。

けれども、ここはあえて「キリストの理性を抱いている」と素直に捉えてもよいと思うのです。それはむしろパウロの意図からしても、そう理解する方がより適切とさえ言えるでしょう。


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なぜ、そう言えるのでしょうか。今、パウロの意図と申しました。その意図には、実はパウロの、コリントの人々に対する皮肉が込められているからです。つまり、平たく言えばこういうことです。今、コリントの教会で問題が起きている。教会の中で、互いに自分たちの知恵を競い合っている。しかもその知恵争いは、キリストの福音理解を巡ってでありました。それぞれ党派まで作りながら、自分たちがキリストのことをどれだけ正しく、また賢く理解しているか、そのことで互いにぶつかっていた。

これに心を痛めたパウロが、筆を執って今この手紙を書き送っているわけですが、しかしここに、まさにパウロの皮肉が込められるのです。彼は「理性」という言葉よりも、主として「知恵」という言葉を用いながら、まさにこの知恵というものをはっきりと主題にして、既にこれまで多くを書き連ねて来ました。その心はこうです。「知恵。この知恵をあなたがたはこよなく愛し、今なお望みとするのか。ならば、知恵について私は語ろう。私はあなたがたが誇りとするその知恵を用いながら、しかし全く違う知恵のあり方と目的を示すことによって、真実なる知恵のために命を懸けよう」。


パウロが揺るぎない確信のもと、命を懸けてまでコリントの仲間たちに伝えたかった真の知恵。それは言うまでもなく、教会を分裂させる知恵ではなく、教会を一致に導き、そしてまた、教会を愛の共同体に造り上げてゆく知恵のことに他なりませんでした。そしてその知恵とは、人の知恵ではなく、神の知恵でしかありえません。

この揺るぎない確信に立って、パウロはまさに神の知恵について、少し前の第1章30節で、こう言い表しました。「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり」。キリストご自身が、私たちにとって神の知恵となってくださいました。つまり私たちに訪れてくださったキリストは、神の知恵そのものだということです。だから私たちがキリストの思い、キリストの理性を抱くという事実は、まさに私たちが、そこで神の知恵をこそ受け取っていることに他ならないのです。

では、肝心なキリストの理性、キリストの思いとは何でしょうか。それは、やはりあの十字架を抜きに語ることはできません。無残な十字架にかかってくださったキリストの理性、知性、判断、決意…。そうように理解することができるでしょう。しかしこの世の知恵は、そして「この世の支配者たちはだれ一人」(8節)、このキリストの熱き思いを、また内に秘めた静かな理性を、まさか神の知恵などと理解できる者はいませんでした。

なぜなら、「このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』」からです(9節)。神が示してくださる愛の道理とは、人間が目で見たり、耳で聞いたりするなどの五感に訴えるような、自然の認識方法では理解できないということです。そしてその頂点として、「人の心に思い浮かびもしなかったこと」とあるように、人間の知性の働き全体をもってしても認識不可能だということが強調されるのです。まさに神の知恵は、人の知恵にとって「隠された神秘」なのです。


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それでは、隠された神秘としての神の知恵は、どのようにして私たちに分かるようになるのでしょうか。10節でパウロは説きます。「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」。「明らかに示す」。この言葉には、隠されているものを、その覆いを取って明らかにする、という意味があります。今や私たちに、隠された神秘としての神の知恵、神の深みの一切が明らかに示された。それは神の霊、すなわち聖霊によるのだ、と言われるのです。

よく考えてみますと、私たちは自ら自分の命を造り出してこの世に存在している者ではありません。母親の胎を通ってこの地に生まれ落ちたとしても、その命は、真に神秘そのものとしか言いようがないほどに、神の創造の御手によって形造られています。神は私たちの造り主である。それはつまり、神は私たち人間のあらゆる領域の外側におられるお方であるということです。

そうならば、私たちはこの世界の中で獲得する様々な知性や経験、またあらゆる科学的証拠をいくら土台にしたとしても、世界の外側におられる神とその御心とを知ることは、決してできないはずです。そのように、人間が自力で、自らの思考や経験の外へと突き抜けてゆくことができないとすれば、もはや神との出会いは、ただ神ご自身が、自らを私たちに現わしてくださるという仕方においてしか起こらないはずなのであります。

その時に、私たちがぜひ知らねばならないことは、神は私たちに出会おうとされるお方だということです。決して造りっ放しにはされない。見て見ぬ振りもされない。そしてもう一つ、その神の、私たちに対する揺るぎないご意志を明らかにしてくれるのは、神自身のことを最も良く知る、神の霊であるということです。それが11節で言われていることです。自分の思いは自分にしか分からない。それと同じように、神の本当の御心を知るのは神の霊のみ、それを明らかに示すのも神の霊、聖霊のみなのです。


私たちには、この霊が神から与えられています。その私たちを、パウロは15節で「霊の人」と呼びます。それに対して、この神の霊を受けていない人を、彼は14節で「自然の人」とも呼びました。「自然の人」。これは一つ前の口語訳聖書では、「生まれながらの人」となっています。また別の聖書では、「この世の命だけに生きる人」とも訳されており、この方が分かり易いかもしれません。つまり、命の視野がこの世に限定されて、生物学的な生命を生きるだけの人、という意味で使われています。

そういう「自然の人」は、この世の外からの神の霊を受けていないために、「神の霊に属する事柄を受け入れ」ず、「その人にとって、それは愚かなこと」でしかなく、「理解できない」ことなのです。パウロは随分はっきりとモノを言っているように聞こえますけれど、しかしこの「自然な人」は、神から見捨てられた不幸な人々のことではなく、実は私たちは皆、誰もがこの「自然な人」として生まれてきている、ということです。

生まれながらの私たちには、キリストの十字架による救いが何を意味するか、良く分からないものです。分からないために無関心で素通りしたり、本当に愚かだと思うことだってあるかもしれません。その受けとめ方は、まちまちのはずです。はたして自分はキリストに赦してもらわなければなら程の罪人なのか?いったい自分が何の罪を犯したというのか、そう思うこともあるでしょう。否、自分に罪があることは認めるけれど、それをキリストの十字架によって赦してもらおうとは思わない、そんなのは逃げだ、自分の罪は自分で背負って自分で責任を取るものだ、と思う人もいるかもしれません。あるいは、罪の赦しなどということにはそもそも何の意味もない、罪赦されたからといって、特段生活がどうなる訳でもない、もっと直接生活に結びつくような救いでなければ意味がない、という思いも起こるかもしれません。

そのように私たちは、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しにこそ自分の本当の救いがある、とはなかなか思えません。それが自然なのです。生れつきの人間の姿なのです。けれども、そのような私たちが、主イエス・キリストの十字架による神の救いに捕えられ、その恵みを受け入れて生きるようになるとしたら、それはまさに、聖霊の御業によることでしかありません。「自然の人」が、神の霊を受けて「霊の人」とされる奇蹟が起こっている。それが信仰を持つということ、そしてキリストの思いを抱くということなのです。


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いったい、「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」(16節)。鍵括弧の引用は、本日共に読まれたイザヤ書40章13~14節の言葉が元になっています。「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか」。

そんなことは誰もできない。預言者イザヤは、そのような反語を心に響かせながら、この言葉を告げました。パウロも、言葉は少し異なりますが、しかしイザヤと同じ心を重ねて、この反語調の言葉を語りました。生まれながらの「自然の人」に中には、そんなことができる人は一人もいないのです。

ところがそう言いながら、パウロは「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」とはっきり告げるのです。ここが決定的に重要です。パウロの最も核心部分。コリントの教会の人々が誇りとしていた知恵に対して、あえて皮肉を込めつつ、真の知恵をもって闘おうとした、パウロの拠って立つ根拠に他ならないからです。


私たちは今や、神の霊、聖霊の息吹を受けることによって、神の御心が明らかに示されました。神が私たちにどのように出会おうとされ、またどのように、ご自分が造られた者たちを愛そうとご計画されたのか、その御心が全く知らされないままさ迷うところから、救い出して頂いたのです。しかしそれはどこまでも、私たちが神に近づいて高くされることによってではありません。

私たちが神の御心を知らされるということ。それは、隠された「神の深み」が明らかになることでもあります。けれどもその深みは、どこまでも神ご自身の深みに他なりません。そしてそれはどこまでも、キリストの思いの深さ、否、キリストの十字架の深さそのものでもあるのです。なぜならここに、私たち人間の罪の闇の深さが、しかしまた、その闇から根本的に救い出してくださる、神の圧倒的な救いの深さが示されるからです。

私たちは今日も、聖霊の息吹をこの身に受けています。神の霊が、私たち自身を、働きの舞台としてくださっているからです。そして十字架のキリストを見上げるようにと導きます。私たちはそこで、キリストの思いを知らされるのです。ご自身は何の罪もないのに、私たち自身が気づけないでいる罪を全て背負って、身代わりになって死んでくださったその思いを。ご決意を。そして愛を。ここから、私たちの愛の一歩が始まります。神の霊が開いて見せる真の知恵に、生き始めるのです。

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