「ヨハネ福音書5:40~44によって」

2022年5月22日 主日礼拝説教(復活節第6主日)
日本基督教団正教師 伊藤節雄
旧約聖書 申命記6:4~5
新約聖書 ヨハネによる福音書5:40~44

それなのに、あなた達は、命を得るために私のところへ来ようとしない。(40)

一生懸命聖書を読んでいるのに、主イエスのところに来ようとしないのです。その、よく学んでいるはずの聖書が教えているのに、その救い主キリストのところに来ようとしないのです。

直ぐ前の39節で聖書は私について証しをするものだ、とあります。よく読みよく学んでいる聖書は、本当は救い主キリストについて証ししている、それなのに、救い主キリストのところへ来ようとしないと言われているのです。

聖書は、神が書き記すようにお命じになり、導かれたものです。何人もの手をお使いになり、神の言葉を書き記されたものです。聖書の中にその実例があります。イスラエルが神の契約を与えられた時、神がモーセに言われました、「彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける。」Exo.24:12)記した、とあります。ルカ福音書のルカも、「順序正しく書いて献呈します。」Lk.1:3)と言います。ヨハネも「これらのことを書いたのは、この弟子である。」Jn.21:24)と言います。書いた、とあります。聖書は神の言葉です。神が目的をお持ちになって書かれた、と言ってもいいでしょう。

その目的が、救い主キリストなのです。救い主キリストについて証しをするすることだということです。その目的に合うように読む読み方はどうなるのか、救い主キリストのところに来るようになる読み方です。神が用意された読み方です。聖書が主キリストの教会に与えられた聖書と言われる所以です。

本である、という点ではどのような読み方がされても構いません。ただ、神の言葉として読む時、キリストが目的となっていることをよく知って、弁えて読むことになるのです。

主イエス・キリストが

この様に約束されておられる、

このような救いの言葉を与えて下さっている、

このように命を与える御業を展開して下さっている、

このように未来を明らかにして下さっている、                                     こういうことが分かるような読み方をするのです。


それなのに、あなた達は、命を得るために私のところへ来ようとしない、と言われています。神が用意された読み方が出来ていなかったのです。神の目的から逸れた読み方をしてしまったのです。

ここの人々の聖書の読み方は熱心なものでした。「聖書を研究している」とあるくらいです。どの位熱心だったでしょうか。ユダヤに新しい王が生まれたと聞いてユダヤの王ヘロデは慌てました。不安に駆られて、皆に聖書を調べさせたのです。すると聖書のある個所を根拠に、ベツレヘムですと答えられたとあるのです。永遠の命の質問をした方に、聖書には「何と書いてあるか」と主イエスがお尋ねになった。その方は直ぐに答えました。『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分の様に愛しなさい。」とあります。』ベツレヘムという答え、神を愛することと隣人を愛することという答えの根拠は皆聖書です。さて聖書のどの箇所でしょうか。答えてみようとすると、その人達が熱心に聖書を読んでいたことが分かります。

熱心なのに、それなのに、私のところへ来ようとしない、と言われています。熱心さではなく、主イエスのところへ来ることが大事なのです。聖書を読んで救い主キリストのところへ来ることが大事なのです。

救い主キリストのところへ来る、それはどういう事でしょうか。命を得るために私のところへ来なさいと言われています。ここに命があるから来るのです。命を受けることが出来るからここに来るのです。

救い主キリストのところへ来るとは、主から命を受けることです。主に生かされていく命を頂くことです。罪を赦された生き方を頂くことです。救いの命を頂くことです。


命を得るために救い主キリストのところへ来ることを聖書の言葉に拠って学んでおきましょう。

救い主キリストのところへ来るとは、キリストが私のうちに生きておられるということです。Gal.2:20)

救い主キリストのところへ来るとは、キリストと共に生きるということです。Rom.6:8)

救い主キリストのところへ来るとは、キリストに選ばれて実を結ぶように任命されるということです。Jn.15:16)

十字架において私の罪の裁きを代わりに受けることによって、私には罪の赦しをお与えになった主キリストが今、内に生きていて下さることを信じる生き方です。どの様な感謝で思いを言い表せるでしょうか。罪に対してキリストと共に死んだ私達は、キリストと共に神に対して生きているのです。この希望をどの様に言い尽くせるでしょうか。信仰の実を結ぶように任命を頂いて生きているのです。信仰の実を結ぶのです。実例を一つ挙げましょう。子供の礼拝で、礼拝出席の度に林檎のシールを一枚もらって、自分の名前の列に礼拝した、と張ったことをもう65年も経つのによく思い出せます。あの働きは事の本質を表しています。神を知らなかった者が、子供の礼拝に導かれて神を礼拝する者へと変えられて礼拝を捧げる、それは信仰の実を結ぶように任命を頂いて生きている実例です。あなたが礼拝を捧げること、それはあなたが結ぶ最も大きな信仰の実であることを知って下さい。礼拝を捧げている今この時、あなたはそれは大きな信仰の実を結びつつあることを覚えて下さい。


聖書を読む時、神が用意された読み方が出来ていなかった人々に主はお語りになられた。

私は人からの誉れは受けない。しかし、あなた達の内には神への愛がないことを、私は知っている。私は父の名によって来たのに、あなた達は私を受け入れない。もし、他の人が自分の名によって来れば、あなた達は受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなた達には、どうして信じることが出来ようか。41~44)

問題点はどこにあるか。人からの誉れ、相手からの誉れを欲しがるところに大きな問題点があると言われています。他の人の評価を気にしたのです。人から高く認められることを強く求めたのです。人から大きく褒められて満足しようとしたのです。それは重大な問題だと主は言われました。全て人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれることを好む。Mt.23:5~7)

それは深刻な間違いに結びつくと主は言われました。何故なら、神からの誉れを求めなくなるからです。人に見てもらおうとすると、神は見て下さらない。人に誉めてもらおうとすると、神は誉めて下さらない。人からの誉れを求めると、神からの誉れは求めようとしないことになってしまうのです。何故か。人前の良い行いは、神はご覧にならない、隠れたことを見ておられる父なる神であられるからです。Mt.6:4)


神の誉れを求めることは、神への愛のことだと言い換えられています。神に見ていただくことを目指すのは、神への愛を持つことです。神への愛を持つことは、神に正しく向かうことです。あなたは、神に正しく向かっているか。その時、父の名によって来られた主イエス・キリストを信じることが出来るのです。

この一週、キリストのところへ来たと言える生き方をしましょう。神に正しく向かう生き方をしましょう。