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「ヨハネ福音書5:37~39によって」

2022年2月27日 主日礼拝説教(降誕節第10主日)
日本基督教団正教師 伊藤節雄
旧約聖書 詩編1:1~3
新約聖書 ヨハネによる福音書5:37~39

また、私をお遣わしになった父が、私について証しをして下さる。37節前半)

主イエスを救い主だと示されるのは父なる神なのです。これは、「私たちの証しの生活」という時の証しとは違います。神の証しを受けて、神の証しを信じて、救いの喜びに生きる、その喜びを伝えるのが「私たちの証しの生活」です。証しは、神をほめたたえる賛美の生活と言い換えてもいい。

父なる神が証しして下さる。「主イエスを救い主だ」と、父なる神が確かな証言をして下さるのです。それを分かり易く示してくれる出来事があります。三人の弟子を連れて高い山に登られた時、主イエスのお姿が変わられました。その時、父なる神の証しがなされました、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」Mt.17:5)主イエスの洗礼の時にもありました。イエスは洗礼を受けると、…「これは私の愛する子、私の心に適う者。」Mt.3:16~17)という父なる神の証しがなされました。この神の証しを受けた主イエスは確信をもって救い主として進まれます。神の証しに支えられて、救いの言葉を語り、救いの御業を進めていかれます。

私達の信仰にもこの神の証しは重要です。とても重要です。主を信じるという時、その信仰の拠り所こそ父なる神の証しだからです。神の証しがあって、私達の信仰があるのです。多くの思い煩いがあっても、躓くことが一杯あっても、私達の信仰は、神の証しに支えられたものなのです。神の証しだから、それは揺るがない。それ故、私達の信仰も揺るがない。苦しみや悲しみの中で、揺らぐように思える時があっても、支える神の証しを覚えるのです。


あなた達は、未だ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。37b)

主イエスが話されている人は、直接はユダヤ人です。ベトザタの池で病気の人を癒されたことを巡って主イエスを迫害する人々です。その人々にあなた達は、未だ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともないと言われたのです。これは比喩的表現です。どなたかの声を聞いたり、顔を見たりすることではありません。そういう意味であれば、弟子達でもみ声を聞いたり、み顔を見たりすることはありませんでした。

主イエスによる病人の治療の御業を見ても、その御業を聞いても、そこに神の救いを見ることも聞くこともありませんでした。病人を救い出して下さる恵みにあふれる父なる神を見抜けませんでした。神を知ることが出来ませんでした。そこに神を知る出来事が起こったのに、大事な機会をやり過ごしてしまったのです。主イエスは、ここにいた人々にも「あなたたちは、神を未だ知らないのだから、神を知りましょう!」とこの言葉によって勧めています。


また、あなたたちは、自分のうちに父のお言葉を留めていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなた達は聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。38~39)

聖書とは何か、について分かり易く明確に教えてくれています。聖書をどう読んでいけばいいのかが示されています。聖書は私について証しをする、聖書は主イエス・キリストを教えています。差し出して下さっています。主イエスを教えていただく、これが聖書の読み方です。聖餐式の中で、十字架の主を指し示すパンとブドウ酒を受け取ります。それと似ています、聖書から主イエスを受け取る、これが聖書の読み方です。ガラテヤ教会への手紙にこんな言葉があります、律法は、私達をキリストのもとに導く養育係となった。Gal3:24)


また、聖書は、救い主の誕生を羊飼いに告げた御使いの声、東の博士達に救い主なる王の誕生を示した星のような働きをします。声を聞いた羊飼いたちは、一目散に駈けていきます。指し示す星を見た博士たちは、長い長い月日をかけて旅を進めます。共に、目指すは幼子イエスです。聖書を読む時、私達が目指すのは主イエス・キリストです。


ここで言われている聖書に新約聖書も含めていいのでしょうか。主イエスの時代には旧約しかありませんから旧約だけと考えるのがいいのでしょうか。ここにユダヤ人と出ている人にとっては、旧約聖書だけと考えていいでしょう。しかし、今は、ここの聖書には新約聖書も含めて考えるのがいいでしょう。特に私達にとっては、新約聖書も含めて考えましょう。「聖書」という言葉の本当の内容は、「神の言葉」です。3:34を見てみましょう。神がお遣わしになった方は、神の言葉を語る。3:34)洗礼のヨハネはこう言うのです、神がお遣わしになった主イエスは、神の言葉をお語りになる。主イエスもご自分のことを神から遣わされたと言われました。私をお遣わしになった父 37節前半)。神の言葉を語るようにと、神は主イエスをお遣わしになるったのです。遣わされるとは、神の言葉を語る務めを果たすということです。14:10でも私が言う言葉は、…内におられる父がその業を行っておられる。14:10)と言われています。主イエスの言葉を聞くことは、神の言葉を聞くことになるのです。「聖書」という言葉の本当の内容は、「神の言葉」だと言いました。主イエスは言わば歩く聖書、自らお話しをされる聖書です。そういう意味では、聖書を読むという時、その内容はキリストを読むということになるのです。39節の「聖書」に新約聖書も含めて考えるのは重要です。


自分のうちに父のお言葉を留めていないのは、父がお遣わしになった者を信じないから。39)とあります。

ベトザタの池で病気の人を癒されました。その御業の中に神の御業を見ることが出来なかった、それがみ言葉が留まらない原因です。主イエスの御業の中に神の御業を見る、それこそ、父がお遣わしになった主イエスを信じることになるのです。この信仰が、み言葉を内に留める秘訣です。

神の言葉の中に主イエスを発見すればいいのです。そこでキリストと出会うのです。キリストを受け取ればいいのです。主を信じる時、み言葉が内に留まるのです。


自分のうちにみ言葉が留まる、私達にとってはとても重要なことです。留まるという言葉は「住む」という意味でもあるのです。み言葉が私のうちに住んで下さる。私達の中で生活して下さる、そうも言えるのです。そのように受け止めれば、み言葉の方が私達の中で働いて下さることが分かります。み言葉があなたの中に住んで、あなたを救いの確信へと導いて下さる。あなたを大切な器とし、なすべきことへと押し出して下さる。あなたの深い悲しみを喜びへと変えて下さる。恵みの御業を進めて下さる。

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