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「ヨハネ福音書6:16~21によって」


2023年2月26日 主日礼拝説教(受難節第1主日)
伊藤節雄 教師
旧約聖書 イザヤ書43:4~5
新約聖書 ヨハネによる福音書6:16~21

夕方になったので、弟子達は湖畔へ下りていった。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスは未だ彼らの所には来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。16~18)

目的地湖の向こう岸を目指して進む弟子たちの乗る舟は教会を表します。この舟は難しい問題に直面しています。辺りは暗くなっていたとあります。夕闇が迫っていた、物がよく見えない、向こうを見通すことが難しい、明るさ・確かさがなくなりつつある暗さが迫っていました。この舟はまた危険に直面しています。強い風が吹いて、湖は荒れ始めたのです。風、嵐に弱い舟です。漁師が何人もいてもこの状況は危険でした。今の力で回避できない危険でした。

しかし、本当の危険は暗さでもなく、強い風でもなく、大波でもない。イエスは未だ彼らの所には来ておられなかったことです。主イエスがそこにおられないことが、本当の危険なのです。


舟に主イエスが乗っておられないのはなぜでしょうか。ヨハネ福音書6:3にイエスは山に登り、弟子達と一緒にそこにお座りになった、とあります。弟子達を従え、弟子達と同行し、弟子達を教えられる主イエスを伝えています。しかしここでは舟に主イエスが乗っておられないのです。状況としては15節が言うように一人で山に退かれていたということです。それでも、弟子たちは山を下りる主イエスを待って舟を出せばよかったはずです。改めて考えてみましょう、舟に主イエスが乗っておられないのはなぜでしょうか。

そこには積極的な理由があったのです。マタイ福音書に、イエスは弟子達を強いて舟に乗せられた(Mt.14:22)とあります。特別な理由をもっておられた。ある大事な狙いをお持ちだった。弟子達だけを舟に乗せた狙いは、では、何か。何だと思われますか。

弟子達の訓練のためです。弟子たちは二人一組で派遣されたことがあります。神の国の福音を宣べ伝えるためです。二人一組つまり六組ですから主イエスはそのどの組にも同行されません。弟子達だけで出掛けて行きました。

復活された主イエスが弟子達に告げた命令も全世界に行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさいというものです。Mk.16:15)

やがて福音を伝えるという弟子の働きをさせる、その働きのための訓練、それが弟子達だけを舟に乗せた狙いなのです。弟子達だけで舟に乗る、それは主イエスが与えた宿題みたいなものでした。

弟子達だけで福音を伝える、という時、そこにその時、主キリストはいらっしゃらないのでしょうか。目に見える形ではいらっしゃいません。しかし、弟子達が伝える福音の言葉こそ主キリストです。語り伝えるのは言葉です、実質は主キリストです。弟子たちは、言わば主キリストを運んで、行く町、行く村に届けたのです。自分達だけで舟に乗るという訓練の成果が、やがては、そのような形で遺憾なく、十二分に発揮されたのです。


もう一度今舟に起きていることに目を向けよう。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。この舟を危険から、主イエスは、どの様に救うのでしょうか。舟が教会を表しているのですから、言い換えて、教会を危険から、主イエスはどの様に救うのでしょうか。イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。19)湖を歩いてきて救われた、そう福音書は伝えます。湖の上を歩く人を私達は見たことがありません。したこともありません。したくても出来ません。つまり、私達の経験してきたことを基にして予想できる方法ではない仕方で救われたのです。どんなに想像力を膨らましても思い付けない様な仕方で救われたのです。主イエスの働きは神の御業なのです。

湖を歩いてきて救われたこのことを、確かに覚えておかなければなりません。何故か。我々には万策尽きることがあります。考え着くあらゆる手立てでも解決できない、全力を使いその力を使い果たしても道が開かれない、その時この主キリストの救いを思い出せる。


湖を歩かれたことは重要なことです。でも、それは、弟子達を救った直接の働きではありません。舟を危険から直接救ったものは何か。弟子達を恐れから直接救い出したものは何か。彼らは恐れた。イエスは言われた。「私だ。恐れることはない。」19~20)恐れから直接救い出したもの、それは主キリストの言葉です。主の言葉が、舟を救う。弟子達を救う。これを聴き取る!

そもそも弟子たちの恐れは何だったのか。イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。19)事もあろうに主イエスを恐れたという。何故主イエスを恐れる事態になったのでしょうか。嵐の中、湖を歩いて来られた主イエスを幽霊だと思ったということです。主ではなく間違えて幽霊だと思い込んで、恐れたのです。本物の主イエスではないと思って恐れたのです。

教会の恐れは、本物の主イエスを見失う時です。私達が恐れるべきは、主イエスの言葉を聴かない時。主イエスの教えを守らぬ時。主イエスを自分の都合でとらえようとする時。


弟子達の不安が安心へと変えられた。恐れが信仰へと変えられた。主の言葉を聴くことによってです。私だ。恐れることはない。この、主の言葉は聖書全体を貫き、神ご自身を表し示して下さる重要な言葉です。聖書のあちらこちらでこの言葉が鳴り響くのをお聞きになるでしょう。聖書朗読で読まれたイザヤ書もその一つです。「私だ。」はギリシャ語ではエゴー・エイミというのです。モーセに現れた神は、「私はある。」と答え給いました。Exo.3:14)このところをギリシャ語に訳した聖書は、エゴー・エイミと言っています。

私だ。恐れることはない。この、主の言葉によって、不安が安心へと変えられるのです。そして、恐れが信仰へと変えられるのです。


風が止んだとヨハネ福音書は伝えない。マタイ福音書は「風は静まった」と伝えています。 Mt.14:32)風が止むことの意味は、マタイ福音書による説教で聴けます。ヨハネでは風が止むとは伝えない代わりに、間もなく、舟は目指す地に着いた。と伝えます。21)嵐を耐えれば、やがておさまるという風には聞き取れません。むしろ、嵐の真っ只中で私だ。恐れることはないという主の言葉を聴くことが大切なのです。風の中で、波の間で主の声を聴く時、舟は目指す地に着くのです。これを信仰の勝利という。救いの確信と言う。

この一週間、私だ。恐れることはないという主の言葉に支えられて過ごしましょう。


<祈り>

天の父、大切な使命のために信仰の訓練をお与え下さっていたら、それを弁えその訓練に励む者とならせて下さい。あなたの訓練に耐え、力を与えられたり、発見をさせられたり、明確な自覚を与えられたりすることが出来ますように。本物の救い主、主イエスを見失わないようにお支え下さい。今、私達は嵐の中にいるのでしょうか、私だ、恐れるなという主の言葉によって、信仰の勝利・救いの確信を得る幸いな者として下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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