2023年7月30日 いっしょ礼拝説教(聖霊降臨節第10主日)
牧師 朴大信
新約聖書 ヨハネによる福音書11:17~27
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皆さんはどんな趣味を持っていますか? 好きでたまらないもの。周りから止められてもやめられないこと。そういう趣味ってありますか? 私の趣味は、少しヘンに思われるかもしれませんが、お墓巡りです。お墓に行くと、何時間でもずっと飽きずにいられます。どういうわけか私には、そこがお花畑にように明るく、楽しい場所に映ります。
でも、最初からそうだったわけではありません。小学生の頃、私は家から学校まで一時間近く歩いて通いましたが、その途中に必ず、お墓を通らなければなりませんでした。それはそれは不気味でした。怖くて近づき難い場所。お化けが出る場所。うっかりその前を通ったら、後で呪われてしまうと真剣に恐れていました。それで、そのお墓を通る時にはいつも、(言い伝えを御守り代わりにしながら)両手の親指を拳の中に隠したものでした。
お墓。それは、誰もがいつかは行き着く場所です。電車やバスに譬えるなら、私たちの人生の終点です。もうその先はない。絶望が立ち込める。悲しみや恐れをもたらす場所です。そんな暗い場所が、どうしてお花畑のように映るのでしょうか。それは、イエス様を知るようになったからです。イエス様の愛を知り、イエス様を信じるようになったからです。そうすると、そのお墓は、天にいらっしゃる神さまの国を映し出す鏡のように見え始めて来るのです。
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では、イエス様とは、どんなお方なのでしょうか。
先ほど私たちは、皆で一緒に「使徒信条」を唱えました。これは教会の信仰告白です。私たちが教会に来て、いったい何を信じているのか、そのことを、これ以上ないほど短くまとめた信仰の言葉です。今日のいっしょ礼拝では、元々こどもの教会のためにこの日に与えられていたテーマや聖書箇所を扱っています。そして今、こどもの教会では使徒信条の言葉を毎週少しずつ学んでいますが、今日は、「三日目に死人の内よりよみがえり」という言葉について共に学び、味わいたいと願っています。
イエス様とはいったいどんなお方なのか。そのイエス様を、私たちはどのようなお方として信じているのだろうか。それは何より、「三日目に死人の内よりよみがえ」ったお方であるということです。あの十字架にかかって死んで葬られ、お墓の中に入れられたはずのイエス様が、三日目に、死者たちの中から復活された。そのおよみがえりを私たちは信じています。
ここで一つ注目したいことがあります。イエス様がよみがえった。そのように私たちは使徒信条で告白します。それはそれで間違っていないのですが、聖書をよく読んでみると、より正確には、イエス様の復活について次のように表現しています。イエス様は、三日目に死人の内より「よみがえらされた」。違いが分かりますか。イエス様は、ご自分の力で「えいやっ!」とおよみがえりになったのではなく、あくまでもよみがえらされたのです。誰によってでしょうか。そうです。天の父なる神さまによってです。
ではなぜ、天の神さまは、イエス様を復活させたのでしょうか。その理由を知ることはとても大切です。でもその前に、一つこんな意地悪なことを考えてしまいます。神さまは全知全能のお方なのだから、どうして最初からイエス様を死なないようにはされなかったのだろうか。死んだイエス様のことを後でよみがえらせたことは、確かに素晴らしいかもしれないけれど、でもそもそも復活などさせる必要がないように、最初から死なないようにもおできになったのではないか。
けれども天の神さまは、愛する独り子イエス様を、そのようにはされませんでした。イエス様は神の子でありながら、死ぬ者として造られ、どうしても死ななければなりませんでした。なぜでしょうか。それは、「死人の内より」とあるように、イエス様もまた、死すべき者の一人になってくださるためです。死の悲しみや不気味さ、苦しみや恐れを、私たちと同じように身をもって経験されるためでした。しかしまさにそのことによって、私たちの死においてさえも孤独にさせず、イエス様が共にいてくださるためです。
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死をも共にしてくださるイエス様。イエス様はそこまで深く、低く降り、私たちに寄り添ってくださいました。けれども、死は所全、死。死んだら終わりだという厳然たる事実は、なおも立ちはだかります。死んだら終わり。それが人間世界の常識です。しかしそこに、今日の御言葉が光を差し込んできます。死んだら終わりじゃない。死んでも生きる! 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』」(ヨハネによる福音書11:25)。
その昔、イエス様ととても親しくしていた三人のきょうだいたちがいました。姉妹のマルタとマリア、そして男兄弟のラザロです。でもラザロはある時、重たい病気にかかって死んでしまいました。実はその死の直前、マルタとマリアはイエス様にその危篤の知らせを伝えていました。きっと助けてくださるに違いないという期待があったのだと思います。
ところが、イエス様が実際に来てくださったのはラザロの死後。それも四日も経った後でした。時すでに遅し。何を今さら。そんな姉マルタの心が滲み出ているのが、21節の言葉ではなかったでしょうか。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。どうして、死ぬ前にもっと早く来てくださらなかったのですか。死んだら終わりではないですか。そうした、死に対する私たちのやるせない気持ちや悲しみ、絶望を代弁してくれるような言葉です。
しかしまさにこの状況に対して、イエス様はお答えになるのです。「あなたの兄弟は復活する」!(23節)そしてこれに続く先ほどのお言葉です。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25~26節)。
死んだ者は必ず復活する。死んだら終わりではない。墓場が終点になることも決してない。死んでも、必ずよみがえって生きるのだ! なぜなら、この私こそが復活であり、命だから。私に繋がって生きる者は、死んでも必ず生きる。イエス様はこのように約束してくださいました。どこまでも私たちと共に生き、死に、そして永遠の命を歩ませてくださるイエス様の愛がここに迫ります。
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こうしてイエス様は、私たちが死んでも生きる者として、永遠の命を生きることができるように、自らも十字架で死んでくださいました。でもその死は、ちょうど一粒の麦から多くの実を結ぶように、命をもたらす初穂となりました。これがイエス様のご復活の喜びです。イエス様が天の父なる神さまによってよみがえらされたのは、イエス様ご自身のために留まらず、他でもない私たち一人ひとりに、復活の命を約束してくださるためだったのです。
「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリントの信徒への手紙一15:20)。「初穂」というのは、田んぼや畑で採れたお米や野菜などの収穫物の、最初の実りのことです。その初穂が成るということは、それに続く実りが約束されているということです。それだけではありません。初穂はまた、後に続く実り全体の代表でもあります。全体で百個の実りがあるとしたら、初穂は、量としては百分の一かもしれませんが、それが本来持つ役割や力というのは、百分の一ではなく、百分の百。初穂となられたイエス様は、まさに一つも取りこぼすことなく、ご自身のよみがえりに続く私たちの全てを、復活の実りの中に数えてくださるのです。
信じるべきは、この私たち自身の復活の実りです。よみがえりの約束です。けれども本当に信じるべきは、これを約束してくださるイエス様、そのお方です。イエス様を抜きにした復活はあり得ないからです。イエス様を信じ、その計り知れない愛に生きる人は、死に支配されることはないのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
<祈り>
天のお父様。あなたが私たちを集め、御前で一つにしてくださった今日のいっしょ礼拝をありがとうございます。イエス様は日曜日に復活されました。その復活の命が、毎週の礼拝毎に覚えられ、新しく示され、死を突き破る真の光として、私たちの生涯の歩みを照らし続けるものとしてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
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