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「主の体をわきまえて」

2023年2月12日 主日礼拝説教(降誕節第8主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 エレミヤ書31:31~34
新約聖書 コリントの信徒への手紙一11:23~34

             

日曜日を二度挟みまして、再びコリントの信徒への手紙一の言葉に戻って参りました。今日は、第11章の23節からお読みしました。けれどもこの箇所は、前回申し上げましたように、少し前の17節から一続きで読まないと、全体がよく分からなくなってしまう内容です。

いったい何が語られていたのか。コリントの教会でどんな問題が起きていたのだろうか。一言で述べるなら、それは「聖餐の乱れ」です。聖餐の食卓に一緒に集まれなかったのです。18節にその理由が記されていました。「まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています」。

教会というのは、イエス様の恵みによって一人一人が集められている群れです。そして実際に集まることで、キリストと一つに結ばれている姿を造り上げ、それを世に証ししてゆくことにもなります。ところが、せっかくそのように集められているのに、「仲間割れ」が起きている。バラバラになってしまっているのです。その姿はどんなものだったか。それが21節に記されていました。「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」であった。

当時の教会は、一つの公の建物に集まるというより、信徒の個人の家などに集まって、そこで礼拝が行われ、また主の晩餐、つまり聖餐も、普通の食事と一緒に行われていました。後に、この普通の信徒同士のお食事は「愛餐」という風に呼ばれて、「聖餐」とは区別されてゆきますが、当時はまだ普段のご飯と同じ食卓で聖餐もしていた。だからこの主の晩餐の意味をよく弁えないまま飲み食いする、ということが起こっていたのでした。「教会と言っても、どうせ人が集まっているだけだろう。主の晩餐と言ったって、ただの食事と同じじゃないか」等と軽んじる者たちがいたのです。

これにパウロは厳しく𠮟りました。例えば22節。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」。勝手に飲み食いしている者たちよ。そんなにお腹が空いているなら、先に自分の家でお腹を満たしてから集まるべきだった。あなたたちとは違って、社会的には奴隷の身分として働いている貧しい仲間たちのことを考えてもみなさい。彼らはあなたたちよりもずっと遅くまで働いて、ようやく駆けつける。お腹はペコペコ。にもかかわらず、集まった時には食事は終わっている。パンと杯も残っていない。おまけに、あなたたちの中には酔った者たちもいる有様だ。待てないのか。彼らに恥をかかせたいのか。だからパウロは、今日の33節以下で言うのです。「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。 空腹の人は、家で食事を済ませなさい」。


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「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(27~29節)。

私たちが聖餐の度に耳にしていますこの言葉は、決してパウロの頭の中で生み出されたものではありませんでした。正直、「それでも教会か」と思いたくなるような、コリントの教会の生々しい乱れの現実から生まれざるを得なかった、戒めの言葉なのです。

この事実を心に留めながら、私は、昨日のことを重ねて思います。昨日は2月11日、「建国記念の日」でありました。カレンダー上はそうなのですが、日本基督教団が定めました教会の暦においては、この同じ日は、「思想・信教の自由を守る日」として覚えられています。そして昨日は、様々な教会で催し物が行われました。私たちの教会が属する南信分区も、今年はお隣りの松本教会で集会を開きました。

この集会の講師としていらしたのはS牧師です。このS先生は、今メディアでも盛んに話題となっている、旧統一協会を始めとする、いわゆるカルト問題に対応するための重要な働きを、牧会とともに担い続けておられます。今回の集会テーマは、まさに「カルトって知ってますか?」というものだったのですが、大変驚くことに ―これはご本人が公言されておりますので、あえて申しますが― 実はS先生ご本人も、かつてはいわゆる「異端」と呼ばれているキリスト教系宗教団体の、熱心な信者であった方です。

しかしその後、S先生はそこから抜け出して、今教会の牧師となっておられる。その壮絶なこれまでの歩みの一端を、昨日のご講演では伺いました。長くなる話を短く申しますと、要するに、どのようにしてご自分が真のキリストの教会に繋がり、本当の自分の姿というものを取り戻し、そして本物のキリストの愛を受け取ったか。そういうお話です。

きっかけは、大学受験だったと言います。18歳の頃、S青年は進学を志します。ところが当時所属していたその宗教団体の教えは、大学進学を禁じていた。これに違和感を持ち始めたことから、S青年は逃げるようにして故郷から都会に出てきます。そしてあるキリスト教会の門を叩きました。実はその教会は、異端やカルト対策に力を入れている教会だったのですが、とにかくそこの牧師に色々相談をした。そして受け入れてもらった。

まもなくその教会の主日礼拝に出るようになりました。ところが、どうも礼拝に心が向かない。自分は、必ずしも真のキリストを求めて教会の門を叩いたわけではない。むしろキリストの十字架を見ると怖くなる。自分はただ、今困っている状況を助けてもらいたい。束縛ではなく安らぎがほしい。だからどうも礼拝には気が向かない。

そこでどうしたかと言うと、礼拝が終わりそうな時間になって、ようやく姿を現す。なぜならその教会は、礼拝後のお昼ご飯にカレーが出る。100円。おかわり自由。当時ほとんど金欠で苦しかったS青年にしてみれば、実にありがたかった。そこで礼拝が終わる頃にやって来て、さも礼拝に初めから参加していたかのように、平然とした表情で食卓について、カレーを三杯食べる。しかし、牧師や教会員たちにはとっくに見透かされていました。

にもかかわらず、誰も自分のことを責める人はいなかった。礼拝から来なきゃダメでしょ、とも言われなかった。ただ、受けいれてくれた。否、忍耐をもって見守ってくれていた。そこにこのS青年は、次第にキリストの愛を感じ始めたと言います。教会の人たちを通してキリストに招かれ、結ばれてゆく導きを受け取り始めたと言います。そしてついに洗礼を受け、牧師となりました。

実はここには後日談がありまして、この教会の会員のある一人の方と現在、S先生は仕事上のお付き合いがあるとのことですが、その方が今でもS先生に会う度に仰ることは、「あの時、あなたに文句を言わなくて本当によかった」ということです。あぁ、やはりずっと耐えてくださっていたんだ。自分は何と大きな愛を頂いていたんだろうかと、S先生自身も繰り返し思わざるを得ない。悔い改めと、感謝や喜びが同時に湧き起こって来る。あの時、誰も何も、自分に言ってこなかった。でもそれは、「お好きにどうぞ」という、放任や無関心とは似て非なるもの。忍耐という愛を受け取ったのだ。


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こうして、遅れて教会にやって来た一青年と、それに対する教会の眼差しや態度。そして今日のコリントの教会で起こっている問題状況。私にはどこか重なり合うものがあるように思えてなりません。もちろん、教会に遅れてやって来る理由は全く違います。コリントの教会の場合、貧しい人たちが遅れて来るのは、自由のない奴隷の身分として主人に仕えているわけですから、仕方のない状況です。他方、S青年が教会に遅れて来たのは、社会一般の常識で見るならば節操が無いとか、図々しいとか、文句の一つや二つは出てきてもおかしくない状況だと言えましょう。

そういう意味では、遅れて来る理由はまるで違います。けれども、その遅れて来る人に文句を言いたくなったり、軽んじてみたりする気持ちが芽生える点では、どちらの教会も同じであります。問題は、そしてこれこそが、教会が真のキリストの教会として立つか否かにかかって来ることですが、この遅れて来る人に対する眼差しです。要するに、人の目で見るのか。それともキリストの目で見るのか、ということです。

いったい教会とは何だろうか。初めに申しました。教会というのは、イエス様の恵みによって一人一人が集められている群れのこと。私たちに何か資格があって、集められているのではない。趣味や好みが同じで同好会のように集まっているのでもない。そういう意味では、皆バラバラです。共通点が一つもないことだってある。教会でなければ出会うことなど無いと言えるような人たちばかりです。

けれども、今ここに一つに集まっている。否、集められている。キリストによってです。ただただ、キリストの計り知れない自由と憐れみの故に、招かれている。この地上での御心と御計画の故に、私たちを必要としてくださっている。これを忘れてはなりません。そうであれば、私たちはたとえ、受け入れ難いように思われる人や、待つに値するかどうか疑わしく思えてしまう人に出会う時、まさにそこで、その人を、キリストの眼差しに捕えられた人として見つめ直すことができるかどうか。


教会が立ちもすれば倒れもするのは、まさにここにかかっています。だから大切なことは、どこまでもキリストの姿を見失わないでいることです。何度も思い起こすことです。私たちはすぐに見失い、忘れてしまうからです。そしていつの間にか、自分が主人であるかのように人を裁いてしまうからです。教会の中でさえ、それはいつでも起こり得ることなのです。

だからこそ、キリストは主の晩餐を備えてくださいました。主の食卓。主が招いてくださる食卓です。キリストだけが私たちの真の主人であり、私たちはその許で等しく集められ、養われるのです。そういう意味では、私たちは誰もが分け隔てなく、この世の身分や持ち物の差など、一切が無に帰せられるキリストのご支配の中に置かれることになります。

このキリストのご支配は、権威的で、抑圧的なものでしょうか。しかし、そもそも支配とは、否定的な意味だけではないはずです。文字通り、支え、配ることを意味します。キリストが両腕を広げる時、その腕の中にいる私たちはそのまま抑えつけられてしまうのでしょうか。そうではない。キリストはその御腕をもって私たちを支え、必要なものが十分に行き渡るよう、絶えず心を配ってくださいます。そして命の糧を、一人一人に配り続けてくださるのです。

もしこのような意味での支配に、キリストの権威を認めるならば、それはどんな権威でしょうか。もはや抑圧による権威ではあり得ません。愛による権威に他なりません。愛の権威とは何でしょうか。それは、徒に真理を振りかざして、もっともらしい事を言い放っては相手を裁くような、そうした自らの正統性を強めるための権威ではありません。真理を振りかざすのではなく、まさにその真理を、ただひたすら生きようとするキリストの愛に根差す権威です。

自らを正当化するのではなく、自らを犠牲にしてでも、ただ真理を生きる。父なる神の真理、その御心を徹底的に貫くために、自らの命を献げてでも、否、捨てでも、私たちを愛し抜こうとする権威。決して抑圧するためにではなく、悪しき思いと罪の虜から私たちを解き放つために、ついに十字架にまでかかってくださった、ただキリストの愛に根差す権威に他なりません。

この愛の権威こそが、私たちを支配するのです。そして私たちも愛の眼差しに生きることができるように、押し出すのです。


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「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(27~29節)。

ここに「主の体のことをわきまえ」ることの大切さが言われます。私たちが聖餐でパンと杯を頂く時に、絶えず主イエス・キリストのことを忘れないようにする、という意味です。しかしそのためには、キリストの「体」を、しっかり見据えようというのです。この体とは何でしょうか。言うまでもなく、あの十字架にご自分のすべてを献げてくださった体です。神の真理を生き、私たちを生かすために、まさに身をもって十字架にかかって、そこで肉が裂かれ、血が滴り落ちるのを苦しみ悶えながら耐え続けてくださった、そのキリストの体に他なりません。それは死を意味する体です。

ですからパウロは、26節でこう言いました。「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。私たちが「主の体のことをわきまえ」る時、それはとりもなおさず、キリストの死をわきまえることに他なりません。そしてその死を、この世にも告げ知らせているのです。しかしそれはまた、この尊い死が、私たち一人一人に対するキリストの揺るぎない忍耐と愛の故であった真実を証しすることでもあるのです。

こうして、私たちは聖餐の度に繰り返し「キリストの体」を心に深く刻みたいと思います。そしてその御体にふさわしい自らの姿を、絶えず顧みたいと願うのです。パウロは言いました。「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(28節)。「わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません」(31節)。

主の体をわきまえることは、自分自身をわきまえることでもあります。我が身を振り、自分をよく確かめる。自己吟味するのです。しかし、それはただ内省や、自己反省ということに留まりません。文字通り、自分の本当の姿を「味」わい、「吟」ずるのです。そこには悔い改めと共に、深い喜びがあるはずです。キリストがそこまでしてこの相応しくない私を愛し、忍耐をもって待ち、赦し、そして十字架にかかってくださったことを真剣にわきまえる時に、私たちはそこに、キリストの眼差しによって捕えられた自分の姿を見ます。愛されている自分をそこで発見するのです。そしてその自分を生きてゆくのです。それは何と味わい深い恵みでしょうか。喜びの心を歌い上げ、吟ずる思いで神を讃えずにはおられないのです。


<祈り>

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」。このように仰る、キリストの御声が聞こえます。この言葉から、キリストの命懸けの愛が溢れます。天の父よ。御子の命が懸かった食卓で、新しい契約が示されました。もはやあなたのお約束は、石板に刻まれたものによってではなく、私たち一人一人の心に刻み込まれることによって、確かなものとしてくださいます。どうか、キリストの食卓に招かれている恵みを覚えながら、主の体を思い、あなたの愛を思い、愛されている我が身を喜ぶことができますように。そして、この私と全く同じように主の食卓に招かれているキリストの友を、私の友ともしていくことができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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