2022年3月13日 主日礼拝説教(受難節第2主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編139:1~12
新約聖書 コリントの信徒への手紙一4:1~5
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少しずつ読み進めておりますコリントの信徒への手紙一は、本日から第4章に入ります。もともとこの手紙には、第○章とか、第○節とかいう数字の割振りは、パウロ自身の手によっては施されていない訳でして、これは後の時代に、私たちが読みやすいように便宜上つけられたものです。パウロはひたすら書き続けました。あまり細かな体裁は考えずに、否、その暇もない程に、ただひたすら、コリントの教会の人々にこの手紙を書き送りました。
しかし今日の第4章を見ますと、「こういうわけですから」と、一息入れてから始まっています。これまでに色々述べて来た事を踏まえて、パウロ自身がここで一つ仕切り直すことによって、本当に伝えたかった事をあらためて展開しようとする息遣いが伝わります。
既にご承知のように、当時のコリントの教会には様々な問題がありました。パウロはその問題を何とか克服したい思いでこの手紙を書きました。けれども私たちがこの手紙を読む時、何度も心に留めておきたいことは、パウロは人間の知恵を用いて解決しようとはしなかったということです。つまりその姿勢は、徹底して信仰的でした。信仰的とはどういうことか。それは、目に見える現実に立つのではなく、目に見えない現実に立つということです。信仰によってこそ知り得る現実に立つ。そこから問題に立ち向かおうとします。
この手紙で最初に問題となっていたのは、教会の中に生まれた、指導者を巡る争いでした。同じ教会の中で、パウロ派、アポロ派、ケファ派という具合に、指導者の名を掲げてそれぞれ分派を作って競い合っていた。けなし合っていた。極めて人間的な問題です。しかしそうした問題を前にして、パウロは彼らに何と呼びかけてこの手紙を書き始めていたでしょうか。
第1章2節を見ますと、彼は何より「コリントにある神の教会へ」と呼びかけました。そして続けて、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と記しました。これは単なる飾りの言葉ではありません。パウロは初めから、自分がどこに立ってものを言おうとしているかを、この言葉を通して明らかにしていたのです。コリントの教会がどんな問題を抱えていたとしても、それは「神の教会」であり、そこに集まる人々がどれほど信仰者として未熟であっても、その彼らは「主に召された聖なる者とされた人々」だ、という信仰の上にパウロは立つのです。
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このようにして、いったい教会という所はどんな所なのか。どういう集まりなのか。あるいは自分たちは何者なのか。そしてまた、その教会のために働くパウロのような伝道者とは、はたしてどんな存在なのか等ということについて、第3章までに色々と教えが書き記されていました。そして今日の第4章に至って、「こういうわけですから」と一息入れながら、パウロはさらに問題の深みに入ってゆきます。
「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」(1節)。パウロはここで、コリントの人々たちに対して、自分たち伝道者のことを「キリストに仕える者」、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」という姿として描き出しながら、そのように受けとめるべきだと述べるのです。
既に第3章で、パウロは自分のことを種を植える農夫に譬えたり、また、見えない土台を据えた熟練の建築家という風に譬えたりしました。今度は「キリストに仕える者」だと言い、また「管理者」だとも言う。色々言っているようですが、考えてみれば、これらは皆、繋がる話です。確かに農夫というのは、土地を懇ろに管理しながら畑仕事をするわけですが、しかし雇われの身である場合、その農夫は畑の持ち主である主人に仕えながら管理を委ねられます。同じように建築家も、家がしっかり建つために、設計や資材等を入念に管理しながら仕事をするわけですが、そこにはその建築を託した見えない家の主人がいて、その主人に仕えようとします。
このようにパウロは、自らを農夫や建築家として見立てる時、決して自分が主人なのではなく、そこには畑や建物の管理を委ねられた方がおられる。キリストが立っておられる。その方こそ、自らが仕えるべき主人であることを忘れることはありませんでした。
「管理者」とか「管理人」という言葉は、日常でも良く聞きますけれども、しかし教会の伝道者が管理人である、それも“仕える管理人”である、というのはイメージできるでしょうか。例えば、今でもあるでしょうけれども、映画やテレビドラマに出て来るような大きな屋敷を思い浮かべます。そこには、そこで暮らす家族や主人の他に、とてもしっかりとした家政婦やハウスキーパーと呼ばれる人が常駐している。その家のことを良く弁えていて、ある意味、その家の諸々を取り仕切っている存在です。時には客も迎え入れて、色々とお世話をする。そのように日々よく仕えながら、しかしまた誰よりも、その家をよく管理しています。推理ドラマで、屋敷内で何か事件が起こった際、その出来事の一部始終を最も良く知っているのは、実はそうした“仕える管理人”であったりします。
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教会における伝道者。それはパウロに言わせれば、「キリストに仕える」管理者であります。けれども今日、ここにもう一つ加えて私たちが知らされているのは、この管理者は同時に、「神の秘められた計画をゆだねられた」管理者だということです。そして、この神の秘められた計画に、管理者はどこまで「忠実であること」(2節)が求められるいるのです。
そこで当然問題となるのは、「神の秘められた計画」とは何かということです。しかしこれも、既にパウロははっきり述べていました。彼は第2章の初めでこう言いました。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。
「神の秘められた計画」。それはパウロをして、それ以外何も知るまいと固く心に決めさせた程の、神の確かな深いご計画、すなわち、「十字架につけられたキリスト」というご計画に他なりません。もう少し言葉を補うなら、神が、十字架につけられたキリストを通して、この地上でなそうとされたご計画ということです。したがって、私たちはキリストなしに、神のこのご計画を知ることも、味わうこともできません。どこまでもキリストと共に、キリストの中で、キリストに支えられることによってしか、見ることのできないご計画、御心なのです。
ところで、ある時主イエスは、神の国のことを、成長する種として譬えられたことがありました(マルコ4:26~29)。人が土に種を蒔いて、夜昼寝起きしている間に、その種は芽を出して成長するのだと仰いました。ここから、この世界の歴史の二つの側面が明らかにされます。一つは、人が夜昼寝起きしているという言葉で言い表される、私たち人間の姿を通して形作られる歴史です。ところが、こうした現実の中で、実は神の国が成長しているのだという、もう一つの歴史が同時に形作られているということです。
それは、夜昼寝起きしているだけの人には隠されている現実です。しかし人が気づこうと気づくまいと、土に蒔かれた福音という種は、着実に神のご計画の中で今日も成長している。パウロは、この真実を決して見失いません。主イエスが来られたことも、十字架の死と復活も、そして伝道者として今この自分がなしている宣教の業も皆、全世界の人々を神の国に招き入れる神の秘められた救いのご計画のために起きた出来事として、一続きに見ているのです。
教会もそうです。けれども地上の教会である限り、それが神の秘められたご計画の内に建てられているということや、またその中に私たち一人一人も召し出され、神のご用のために用いられているという恵みを忘れてしまうことがあるかもしれません。ともすれば、単なる人の集まりとして、世間の他の集会や集団とさほど違いないのではないかとさえ、時に錯覚を起こす危険がいつでもあります。
しかし教会は、そこに結ばれる一人一人、そしてまたそこに遣わされる伝道者も含めて、私たち教会は、パウロがコリントの教会を指してそう呼んでいたように、神の教会なのです。神の秘められた計画を委ねられ、それをこの地で為してゆくために集められた主の群れなのであります。この光を見失う時、私たち教会は塩気を失った、文字通りただウロウロと群れている集団になってしまいます。
その意味で、私たち松本東教会は、一方では特に今コロナ禍で、ここ数年は自由に集まって思いと祈りを寄せ合い、具体的な活動を伴って前進できているとは言い難いもどかしさ、また悔しさがあるのですけれども、しかし他方では、見えない糸で私たちを引き上げ、今もなお導いてくださっている主の光を、私は確かに見ることができます。神が時を備え、機会を与え、必要を満たしながら、何より今ここに連なる全ての一人一人を尊く慈しんで、主のご計画のために豊かに用いようとしてくださっている、その主の御手を握り返せる場所に、私たちは立っていることを堅く信じるのです。
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パウロは間違いなく、そうした神のヴィジョンの中に終始一貫、自らを置き、そしてコリントの教会を置いて、見つめていたに違いありません。神の秘められた計画に、忠実に仕える管理者でした。しかしまた、だからこそ、教会を通じて神の国がパンのように膨らんでゆく中で、その香ばしさや味わいを損ねてしまうような人間の綻びに対しては、がんと立ち向かわなければならない厳しさにも直面していました。
パウロが直面していた厳しさ、あるいはまた葛藤とは何だったのかと、あらためて思わされます。自分は、「キリストに仕える者」であって、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」であることを、どうしてもコリントの人々に分かってもらわなければならなかった、その切実な現実とは何だったのだろうか。
今日の箇所を読み進めてゆきますと、パウロはずいぶん、強気にものを言っているなという印象を抱きます。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」(3節)。「裁く」という言葉が繰り返されます。これは突然出てきている言葉ではありません。パウロはコリントの人々に裁かれるという現実を経験した来た。そして今もしているということです。
裁かれる。是か非かを問われる。良し悪しを比較され判断される。つまり、既に何度も述べて来ましたように、コリントの教会の中で起こっている指導者を巡る争いに、自分が巻き込まれている様を、パウロは裁かれていると受けとめ、そう表現しているのです。
次回読みます所の第4章6節を見ますと、こんな表現があります。「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました」。そう言いながら、パウロはその理由をこう続けました。「それは…だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするため」だと。パウロとアポロを巡って、人々はそれぞれ党派を組んでは、どちらか一人を持ち上げ、どちらかまた他方を蔑ろにした、ということでしょう。そのように、パウロは人々の裁きにかけられて来た。評価のまな板に載せられた。そんな現実を読み取ることができます。
けれども、パウロはここで言うのです。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」。自分に対する周囲の裁きは、これっぽっちも問題にはならない。この世の一切の評価や判断という裁きの秤に、自分が支配されることはない。パウロはそう、勇ましく言います。確かに勇ましく聞こえるのです。
しかしこれは、パウロ自身の強さから来る言葉だけはでないとも思うのです。否、むしろそんな自分の強ささえ木端微塵に打ち砕かれた所でしか与えられない力に包まれてこそ、この勇ましい言葉が言えたに違いありません。彼は確かに、自分が褒められても褒められなくても、感謝されてもされなくても、それは少しも問題ではないと言います。しかしこの勇気は、パウロ自らが今日述べていたように、どこまでも“キリストに仕える忠実な管理人”として用いられている、その誇りから来るものでしかありえないのです。それはちょうど、主イエスがまたある時こう仰ったことと通じるようです。主人に命じられたことを全て果たしたら、その僕は、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカ17:10)と言うように諭された、あの瑞々しい程の忠実さに、まさにパウロ自身が生きているとしか思えないのです。
そしてこの忠実さが今日最もよく表れているのが、パウロの次の言葉です。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」(3節)。パウロは教会の伝道者として、自らの存在、また言葉が、絶えず公にさらされては、絶えず評価され、裁かれてもきました。点数を付けられながら生きて来たとも言えます。私はそこに、戦いがあったと思います。いくらパウロと言えども、その評価からなかなか自由になれない葛藤があったのではないかと思うのです。
しかし今や、パウロは新しい所に立っています。コリントの人々を、もう自分はこの世の物差しで測ることはないし、また、自分に対するコリントの人々の評価からも自由である。否、それどころか、自分で自分を裁くことすら、もうしない。人の評価に振り回されて、自分をいちいち評価することもない。もはや自分に対して、そんな裁きや評価を下さなくても済む程に、私は自由なのだから。私はもう、人の目や裁きに捕われることはない。むしろ主の裁きにこそ捕えられている。そこに真の自由がある!
このようなパウロの言葉を書かせた神は、いったい私たちに今日、何を伝えようとしているのでしょうか。実は私たちも、自分で自分を裁いて生きているのではないか? 人の目や評価に揺さぶられながら、結局自分の姿を自分で見誤っているのではないだろうか? 自分に点数を付けては一喜一憂し、時に自分はダメだと嘆き、時に自分は素晴らしいと自惚れているだけではないか? そこに自由はあるか? けれどもあなたは、パウロのように自由になれるのだ!
私たちは人の目を気にし、しかし結局は自分の目で、自分自身を雁字搦めにして生きている存在です。これを聖書は、罪の姿として捉えます。なぜなら私の姿を本当に知り、裁いてくださるのはキリストであることを忘れているからです。的を外して生きているからです。しかしこの罪が赦されるとは、的を得て生きるということです。神の恵みに生きるということです。恵みの裁きに全てを委ねて生きるということです。そこに真の悔い改めと、喜びが生まれます。
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「わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」(4~5節)。最終的には、主がお裁きになる。主が再び来られるその日に、全てが明らかにされる。だから私たちは、それまで先走って自分も人も裁いてはならない。そう説かれます。私たちの生き方が問われます。
けれども、実は主ご自身も、終わりの日までは誰も、完全にはお裁きにならないのであります。終わりの日がいつやって来るかは分かりません。しかしまだやって来ていない。そうである今この時、主は、私たちを待っていてくださる。私たちが主に向き直り、立ち返ることを信じて待っていてくださるのです。人を裁くことなく、本当に信じ抜いてくださるのは、ただ主のみなのです。
その主が、最後の最後で、「闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされ」のだとパウロは言います。どんなにやましいことを闇に隠し込んでも、またどんなに自分は立派に生きたと自負できる歩みを積み重ねたとしても、すべては主の裁きのもとに明るみに出される。自分の努力で神の義を引き寄せることはできないのです。けれども私たちが最後に驚かされるのは、その終わりの日に、何が明らかにされるのか。パウロは言います。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。明るみに出されるのは、私たちの闇ではなく、私たち一人一人が神のお褒めに与らせて頂けるという祝福の約束なのです。
その約束と共に、主は待っていてくださいます。だからこそ今日、私たちもまた、この主のご計画を身に帯びて、この礼拝から、この世に遣わされてゆくのです。
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