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「主の食卓の味わい」

2022年11月20日 主日礼拝説教(降誕前第5主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 申命記32:19~21
新約聖書 コリントの信徒への手紙一10:14~22

            

「偶像礼拝を避けなさい」。

今日私たちに与えられましたコリントの信徒への手紙一第10章14節に記された、パウロの戒めの言葉です。実はこの「避ける」という言葉は、聖書の原文では「逃げる」となっています。偶像礼拝から逃げなさい!

パウロにしては、少し消極的なものの言い方かもしれません。あのパウロならもっと勇ましく、「さぁ、偶像礼拝に正面から立ち向かい、正々堂々と戦いなさい」と鼓舞してもよさそうなところです。けれども「偶像礼拝を避けて、逃げなさい」とここでは言う。それほどにパウロは、偶像礼拝に潜む恐さを決して甘く見ていなかったということでもありましょう。戦うよりも逃げなさい。逃れなさい。


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そうしますと、ここですぐにお気づきになった方もいらっしゃるかもしれません。この一つ手前の13節に、「(神は)あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と既にパウロは語っていました。ここにも「逃れる」という言葉がある。これとどう結びつくのでしょうか。

振り返ってみますと、13節でパウロが「試練」と繰り返し述べた時、その試練とはいったい何だったでしょうか。そのことを彼は、神の民イスラエル、私たちの信仰の先祖であるあのイスラエルの民の出エジプトの歴史を振り返りながら、まさに7節で、偶像礼拝の罪であることをはっきり述べていました。偶像礼拝に傾いてしまう、信仰の試練です。

彼らは、真実なる神によって、エジプトでの奴隷の身から救い出された者たちでした。そうでありながら、しかしそのように導いてくださった神にこれからどのように従ったらよいかを、自分たちの指導者モーセがシナイ山で神から教えを受けていた時、まさにその麓で、彼らの思うままに偶像を造ったのです。そして座って飲んだり、立って踊り狂ったりして、真の神を見失っていった。最大の試練は、実はそこにあったとパウロは見定めるのです。

翻って、私たちにとっての試練とは何でしょうか。しかし実際、私たちがに辛いと思ったり、耐えきれずに逃れたいと思ったりする試練というのは、もっと別の事柄ではないかと言いたくなるかもしれません。そして実際、別のものであってもよいのです。私たちが具体的に経験する試練の形は、様々です。しかしパウロがそこで問うのは、私たちがどこで何を経験しようが、その最も深い所で直面している試練とは何かと言えば、それは真実なる神をいつの間にか見失うこと、神を真実なる神として信じ抜くことのできない不安や疑い、あるいは時に反抗心にさえ捕えられてしまうこと。そのようにして、次第に偶像を求めてしまうことなのです。

もちろん私たちの教会には偶像などありません。皆さんも偶像を造ったり、ましてや拝んだりすること等、まずなさらないはずです。その意味で、私たちは既に「偶像を避けている」と言えるでしょう。しかし、そこでなお、私たちが真剣に避けなければならないこと、そして誘惑から逃げなければならないのは、実は、私たちの信仰において、あるいはこの私の、御言葉を取り継ぐ説教においてさえ、見えない偶像を造ってしまうという罪なのです。

それは言い換えれば、神という真実なるお方を、私たちが思い描く形に留めたくなるような誘惑です。こういう時にはこうであって欲しいと願う神。あるいは本当はこの自分の方が悔い改めなければならないのに、それを自覚できないまま、「あなたは、あなたのままでいいのだよ」と優しく言ってくれる神を、信じるに値する神だとしてしまう、そんな誘惑であります。


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二週前の、十戒の第二の戒めをここで学びました時にも紹介しましたけれども、「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20:4)。この第二の戒めにおいて、神は何を望んでおられるでしょうかというハイデルベルク信仰問答の問に対して、私たちは次のように教えられました。「第二戒において、神が望んでおられることは、わたしたちが、いかなる仕方にせよ、決して、神の像を造ってはならないこと、わたしたちが、神が御言葉において、お命じになられた以外の仕方で、神を礼拝してはならないこと」。

私たちはともすれば、「聞くに早く、語るに遅く」(ヤコブの手紙1:19)ならねばならないのに、その逆をしてしまう。神からの命令や語りかけを聴くにはあまりに遅く、自らの語りや願いが先んじてしまうのです。十戒の第二の戒めは、私たちが心で造り上げる偶像や願望においてではなく、御言葉を聴くことにおいて神と真実に出会い、その神を正しく礼拝する者へと導く教えなのです。

このように、偶像礼拝のもつ見えない暗闇が、私たちの貧しい姿を明るみに照らし出します。しかし今日注目したいのは、ここでパウロが、「だからこの偶像礼拝と真剣に戦わなければならないのだ」、という風に勢い込むことはしない、ということです。そうではなく、ただ「偶像礼拝を避けなさい」。そこから逃げなさい。神が備えてくださる逃れの道があるのだから、そこに逃げ込んだらよいのだと、私たちに勧めるのです。


では、その「逃れる道」(13節)とは何でしょうか。続く15節で、パウロはこのことをよく分かってもらいたかったのでしょう。実に丁寧に語ります。「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します」。あなたたちは賢いでしょう。私の言うことがきっとよく分かるくらい賢いはずだ。だからよく聴いてもらいたい」と、まるで親が子どもに丁寧に説得する時のように、これから筋道を立てて、慎重に語ろうとするのです。それほど大切なことが、語られる。

そして16節で続けるのです。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」。ここに二度出て来ます「あずかる」という言葉は、ギリシア語の「コイノニア」という言葉から訳されました。9月から私たちの教会で始まりました「しらゆりの会」は、その正式な名称が決まるまで「コイノニア」と仮に呼んでいました。その意味は、「交わり」という風にたいてい訳されることが多いのですが、元々は、「一つのものを共に分け合う」という意味です。ですからパウロがここで述べていることは、そういう意味で、私たちはキリストという、ただ一つしかない血と体を、共に分け合って頂いている。そのようにしてキリストの命に繋がっている。もっと具体的言えば、一つの聖餐を分け合うことによって、互いに交わりを作っている。その大切さを伝えているのです。

したがって、さらに17節で「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」とパウロは語ります。私たちの実際の聖餐では、予め一人分ずつ、小さく切り分けられたパンが備えられていますけれども、しかし元々は一つのパンであった。私たちはその一つのパン、ただお一人であられるキリストという体のパンを分け与えて頂くことによって、実はそこで共に一つの体となっている。否、一つの体を造り上げているのです。どんなに大勢でも、またどんなに分け与えて頂くパンが小さくても、それが一つのパンから分けられている限り、私たちはそこで一緒に、キリストという一つの体を造り上げているのです。


そして教会は、まさにこのキリストの体として立てられる所に、その真の姿が現わされます。実はこのことは、このパウロの手紙の中では特に大切なこととして、この後にも丁寧に語られてゆきます。教会は決して建物のことではないのです。それは、私たちの教会の歴史が教えてくれてもいることです。98年前、私たちの教会は会堂無しで始まりました。専属の牧師もいませんでした。それでもキリストを救い主と崇め、キリストの命を分け与えて頂く聖餐の恵みに与ることにおいて、教会としての歩みを始めることができました。

キリストは、確かに今、この目で見ることはできません。しかしその見えないキリストが、この歴史において、また私たちの生涯において、いったいどのように働いてくださっているのか。それは、ご自分の見える体である教会を通じて実現してゆくことなのです。それ故私たちは、このキリストのお働きに触れて頂く者でありつつ、しかしまた、その尊い御業のために用いられる者ともされているのです。

ここ毎週、説教においてI.Kさんのことに触れて来ましたが、あの病床で起きた驚くべき奇跡は、いったい何を物語っていたでしょうか。私たちが何か特別立派なことをして、あんなことが起きたのでしょうか。決してそうではありません。ただそこに神の真実が働いた。その真実とは、キリストが教会を通して働き、祝福をもたらしたということです。キリストご自身が、この一人の姉妹に為そうとされた御業のために教会が用いられ、私たちはそのためにこそ、お仕えしたまでのことなのです。


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そのようにして、私たちはどこまでもキリストに結ばれて、この地上世界に一つの体を造り上げている。しかしなぜパウロはここで、このようなことを述べているのでしょうか。それは、まさにここに「逃れる道」があるからです。私たちが様々な試練に直面する時、その最も深い所で大切なことは、この自分が、キリストの体として生きている恵みにいつでも立ち帰ることに他ならないのです。

この聖餐の恵み、そしてキリストの命に結ばれる恵みを語りながら、パウロは21節に至って、一つの結論に辿り着きます。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」。

ここで、主の杯や食卓に対して、悪霊の杯や食卓が対比されて、私たちはこの両方に着くことはできないとパウロは言います。「悪霊」という言葉がここに出て来ましたが、これは直前の20節の言葉を受けています。「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」。


ここはパウロが少々込み入った話を展開しているため、俄かには分かりにくいところですが、彼は18節と19節で、再び祭壇や偶像に供えられた肉のことを持ち出しています。これは既に何度か私たちも耳にして来たことです。そしてこれについてのパウロの主張についても知っているところです。彼の主張は、19節に記された「わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか」という言葉に現れています。

つまり、偶像に供えられた肉を食べることは、信仰において何ら差し支えない。何の害も及ばさない。しかしそんなことよりもっと大切なことがある。それを今、パウロはここで言おうとしているのです。それが20節の言葉でした。「いや、私がここで言いたいのは、そもそも偶像に供え物を献げること自体、それは神に対してではなく、悪霊に献げていることなのだ。どんなに立派な信心をもって供え物をしたとしても、それは真実なる神に献げることにはならない…。だから私は、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくはない。悪霊の虜になってしまわないでほしいのだ」。

そして、先ほどの21節の結論にようやく繋がります。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」。ここは、主イエスがお語りになった次の言葉が重なるようにして思い起こされます。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)。

つまり、一方で主の晩餐に与って聖餐の恵みを頂きながら、他方で偶像に備えられた肉を食べることは、二人の主人に仕えることに等しいということです。夫婦に譬えるなら、これは浮気をしているも同然ということになる。だからこそ、パウロは最後に言うのです。「それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか」(22節)。もしあなたが浮気をして他の主人に仕えるようなことがあったら、それは、主なる神に「ねたみ」を抱かせことになるということを知らないのですか。


「ねたむ」。日本語の辞書を引くと主に二つの意味が出てきます。一つは「羨ましい」という、あの指をくわえるような羨望の眼差しから来る感情です。しかしそのような意味はここにはありません。もう一つは、主に男女間の恋愛関係にみられる、あの「嫉妬」です。そしてこれこそが、ここに込められる意味です。

実に生々しい言葉だと思います。神が嫉妬される。今日併せてお読みした申命記32:21の言葉で言えば、神がねたんで、「怒りを燃えたたせ」るのです。我を忘れたかのように常軌を逸する神のお姿。これは、全く動かず、ものも言えない偶像には見られない姿でありましょう。ねたむ神、あるいは「熱情の神」(出エジプト記20:5)、これこそが聖書の語る生ける神なのです。

それ程までに神は熱く妬まれ、私たちがご自分のもとから去って、神ならぬ神(偶像)に心がなびいてしまうことをお許しにならない。妬みや怒りといった感情表現を用いなければならない程、心を燃やし、否、心をかき乱しながら、私たちをご自分のもとへと取り戻す。そしてその思いは、偶像を巡ってだけではなく、罪や死の滅びに私たちが引き渡されることにさえ及んで、これを断固として許さず、そこでたぎるような愛をもって、私たちをその滅びから奪い返してくださるのです。

このような神の激しい愛の結実が、あの主イエスの十字架の出来事に他なりませんでした。パウロは16節で「わたしたちが裂くパン」という言い方をしていました。初代の教会も、聖餐を「パン裂き」と呼んでいました。この「裂く」という言葉は、文字通りパンをちぎる行為を表し、聖餐の定型句でもあります。しかしパウロは、この言葉を用いる度に、きっと神の並々ならぬ愛を噛みしめていたと思うのです。そして彼自身が聖餐の司式を執り行う時には、そのパンを裂きながら、こう確信していたに違いありません。「神はこれ程までに、私たちを熱く愛し抜いてくださった。偶像、そして罪と死の闇から私たちを取り戻すために、ただそのために、あの十字架上で、愛する独り子の尊い体を裂いてくださった!」。


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妬みさえ抱かれる神は、私たちの全てを欲しがっておられます。全ての者たちをご自分の恵みの中に捕え込もうとしてくださいます。その主の恵みの御手の中に、私たちが逃げ込んで来ることを待っておられるのです。だから安心してそこに身を寄せたら良い。

「わたしたちは、主より強い者でしょうか」(22節)。パウロは最後に問いかけます。辛い困難に直面する時、私たちは本当に主より強い者なのでしょうか。「神様、あなたが戦う必要はありません。私が戦って勝ってみせます」等とうそぶくこと自体、既に過ちを犯すことになるのです。私たちよりはるかに強い主の御許に逃れて、そこで、キリストの裂かれた体のパンと、私たちのために流された血の杯を頂こうではないか。共にそれを分かち合いながら、キリストの生ける体を、教会を、この地に造り上げてゆこうではないか。

そこに私たちの命がある。喜びがある。望みがある。道が開かれる。そう呼びかけるパウロの言葉の背後から、キリストの招き声が聞こえてきます。「偶像礼拝を避けなさい」。私の許に来なさい!


<祈り>

天の父よ。御子イエス・キリストを私たちに与えてくださり、その命の恵みに与る道をも私たちにお与えくださった、あなたの深い御心に感謝いたします。本日、見える形での聖餐はありませんが、しかしそこに注がれるあなたの燃えるような愛の重さを、深さを、また尊さを、御言葉を通して受けとめました。どうか共に聖餐に与る来たるべき日、今日のこの恵みに支えられて、私たちも心新たに食卓に着くことができますように。そして一つのキリストの体に生かされる喜びを、どうか私たちの様々な困難や試練のただ中でさらに豊かに味わい、その幸いに一人でも多くの者たちが連なることができるよう、なおあなたの御業が成し遂げられますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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