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「人生の確かなレース」

2022年10月23日 主日礼拝説教(降誕前第9主日)     
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書52:7
新約聖書 コリントの信徒への手紙一9:24~27

          

パウロという人は、福音を宣べ伝えることに命を懸けた、使徒でありました。福音というものが何であるかをよく知り、福音の喜びがどれだけ大きなものであるかについてもよく知っていた、教師でもありました。そのパウロが、本日与えられました手紙の箇所の直前、コリントの信徒への手紙一第9章23節で、このように述べていました。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。

これは、パウロがそれまで語ってきたことの結論のように聞こえます。彼は使徒として、教師として、実に多くを語り、また教えて来ました。福音のためなら何でもしました。けれども、その事を通じてパウロが本当に目指していたこと。それは自分も同じように「福音にあずかる者となる」こと。福音の恵みの中に留まること。逆に言えば、自分だけが福音から落ちこぼれてしまわないこと。これが大切でした。

彼はそのように、必死に自分自身のあるべき姿を見つめ続けました。ですから、23節の言葉は、使徒としての言葉であると同時に、信仰者パウロの、一人の人間としての実存の懸かった言葉でもありました。それだけ使徒パウロにとっても、信仰をもって生きるということは、決して簡単なことではなかったということです。いつでも福音から離れてしまう自分の弱さや傲り高ぶりを知っていました。だから必死の戦いであった。そのことが、ここに物語られています。


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この戦いのイメージ。そしてパウロが、これに本当に真剣であることの姿、あるいは、この信仰の戦いを勝ち抜くのだという決意が、あらためて、今日の手紙の言葉の中に現れていました。それがまず、最初の24節の「あなたがたは知らないのですか」という強い口調によく示されています。そして最後の27節の言葉からも、その思いはさらに伝わってきます。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」。

失格者。これは、今日の箇所から明らかだったように、スポーツの競技でいう所の失格者を意味します。つまりパウロはここで、自分が失格者になってしまわないための走りを強調します。ちゃんと合格点をもらい、それどころか、そのレースでしっかり賞をもらえるための走りの大切さを訴えるのです。

このスポーツ競技の話は、あくまでも譬えです。実際に競技場のトラックを全員が走ろうという話ではありません。福音を聴き、それを信じる者として生きることになった私たちの信仰の道のりが、一つのレースに譬えられているに過ぎません。しかしこの譬えは、他に何でも良かったはずの譬えの一つというよりは、当時のコリントの人々にとっては、とても馴染みやすいものであったようです。

コリントという町は、現在はコリントスという地名でなおも存在する、今のギリシアの南部に位置する港町です。4年に一度開かれるオリンピックで、その開会式の入場行進の先頭がいつもギリシアであることは、既に多くの皆さんがご存知の通りです。それはこのギリシアが、オリンピック発祥の地だからです。

つまり、19世紀に始まった近代オリンピックは、古代ギリシアのオリンピアという町で行われていた運動競技会を起源として生まれました。そしてこのオリンピアは、まさに今日のコリントと同じ、当時アカイア地方と呼ばれた地域に属する町だったのです。したがって、当時のコリントの人たちにとっては、自分たちの町の近くで行われるこの運動競技会は身近であったはずです。そして、例えばあのマラソンに代表される走りの光景を、すぐに思い浮かべることができたかもしれません。そのイメージに重ねて、パウロは信仰の事柄を語ってゆくのです。


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はたして、私たちにとって信仰生活とは、どんな歩みでしょうか。私はしばしば、かつて私自身が耳にして胸に刺さった次の言葉を、この松本に参りましてからも、様々な機会に皆さんに紹介することがあります。その言葉をお伝えしながら、もちろん自戒も込めて、しかし皆さんにも、ご自身の信仰生活について色々思いを巡らせて頂きたいという願いを持っています。それは、このような言葉です。キリスト者にとっての信仰生活。それは、「生活に根差した信仰」なのか。それとも、「信仰に根差した生活」なのか、ということです。この「鶏が先か、卵が先か」にも似た、堂々巡りのような言葉は、しかし私たちがしばしば立ち止まって、よく考えてみる必要のある言葉だと思います。

「生活に根差した信仰」。これはとても大切なことです。私たちの信仰が、日々の生活から宙に浮いてしまうような、言わば頭や空想の中だけの信仰に留まるならば、これ程空しいものはないでしょう。信仰が日常生活に根差し、私たちの足元に活力を与える。そのようにして、信仰が私たちの日常の言葉や生活感覚によって親しく捉えられてゆくリアリティは、とても大切です。

しかしその一方で、「信仰に根差した生活」ということも、忘れてはならないと思います。確かに「生活に根差した信仰」は大切です。しかしこれはともすれば、自分中心の信仰に陥りやすい危険を伴います。たとえ燃えるような熱い信仰を持ったとしても、ある時から自分の生活感覚に合わなくなれば、その信仰は次第に遠のいてしまうでしょう。つまらなく思えてくる。自分の願ったような状況が叶わない時、信仰が無力に思える。あるいは、理不尽な事柄や耐え難い困難が自分の身に起きた時、信仰は何も自分を支えてくれない、むしろ空しく、苦しくさえ思えてくる。

これは私たちが人間である以上、いつでも抱えてしまう思いです。弱さです。しかしまさにそのような時、気づかされるのです。そもそも信仰は、私が信じようと思って手にしたものだったのか。信仰の方が、私を捕えていたのではないか。もしそうなら、否、まさにそうであるからこそ、信仰が私から離れ去ることはない。たとえ私が信仰から遠のいても、信仰は絶えず私の中に迫り、留まり続ける。

ではその信仰は、いったいどんな力をもたらしてくれるのだろうか。信仰に生きることが、どれ程の望みと慰めとなって、私たちを奮い立たせ、立ち上がらせるのだろうか。そのような問いと渇望、そして祈りの中で、私たちは、信仰そのものが持つ力に支えられて、なおこの信仰に根差した自らの生活を、整えてゆくことができます。新しく造り上げてゆくことができるのです。

しかしそこに、一つの戦いがあるのだと、パウロは言うのです。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい」(24節)。パウロは今日、ここで走りの競技を例にとっています。そして実際の競技で賞を得るのはただ一人だと言いながら、あなたたちも賞を獲るように走りなさいと鼓舞します。しかしこれは、ただ闇雲に一等賞を目指しなさい、という勧めではありません。むしろその大前提として、皆が皆、それを目指して信仰のレースを完全に走り切ること。そしてゴールにちゃんと達することの大切さが言われるのです。その上で、皆が「朽ちない冠」(25節)という賞を得ることができるように走ろうと呼びかけます。


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事は、「朽ちない冠」のためであります。しかしこれは、単なるおとぎ話に過ぎないでしょうか。私たちは、もしかしたら心のどこかでこう思うかもしれません。なるほど信仰生活とは、自分の弱さとか、この世の困難や誘惑に打ち克ちながら歩むことだ。それは確かに認める。けれども、その信仰生活の最後において、冠を与えられる。果たしてそんなことがあるのだろうか。

しかし、まさにこのような考えの方が、甘いと言えるのかもしれません。なぜなら私たちは皆、いつかは必ず死ぬ存在だからです。たとえ今はどんなに元気で、幸せでも、私たちはやがて死と共に、あるいは死にゆくプロセスの中で、誰もが耐え難い思いを抱えつつ朽ち果てる者だからです。

この当たり前の事実に改めて向き合う時、私たちの信仰も、死をもって終わってしまうのでしょうか。死を前にして、何ら歯が立たないものに過ぎないのでしょうか。ただ息を吸って生きている間に、人生の慰めや潤いを与えるようなものでしか、ないのでしょうか。しかしいったい、死を乗り越えることのできない信仰をもつことに、どれだけの意味があるのだろうか。

この問いは、私たちの死後だけでなく、今この時をどう生きるかという足元の問題を考える場合でも、決定的に重要なことです。私たちは今、どこに立っているのでしょうか。それは、人間を蝕んでやまない罪と死という巨大な闇が、まるで大きな口を開いて私たちを絶えずのみ込もうとする、その大地の上です。大地は、尊い命を育みつつも、死者が葬られる所でもあります。

そのように、今この時も刻々と死にゆく私たちがなおも立ち続けているこの大地。この大地が、しかしキリストという確かな土台によって新しくされたのです。死人の内から甦られたキリスト。死をも支配して、永遠の命をもたらすキリストが、私たちの生きる礎となってくださいました。だからこのキリストという礎を踏みしめ、またこのキリストという道を歩んでゆくことが、私たちにとって、永遠の命を目指して生きるということに他なりません。


厳然と立ちはだかる死をも突き破って、私たちを真の望みの中で生かすこの「永遠の命」こそ、私たちに約束された「朽ちない冠」です。そしてパウロは、この冠こそ、全ての者が目指すべきゴール、得るべき賞だと確信しました。否、むしろそれを受け取り損ねるような失格者に、まず自分自身がならないことを心に戒め続けたのでした。

その戒めの思いをパウロなりに言い表したのが、25節の「節制」という言葉でありましょう。彼はこう言いました。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」。

オリンピックは言うまでもなく、およそ全てのスポーツ競技は、言うまでもなく勝負の世界です。もちろん勝敗を超えて、参加すること自体に意義があるという見方も成り立つでしょう。しかしその場合も、本当に参加して良かったと心底思えるためには、ただ参加して競技に出ることだけを目標とするのではなく、自分も金メダルを目指す。否、自分こそ金メダルを勝ち取るのだという、本気を決めた努力が伴ってこその充実感であるに違いありません。

出るからには、金を目指す。そのような者たちの、嘘偽りのない真剣そのものの熾烈な争いが、それを観る者にも感動を与えます。私たちが感動するのは、そのレースの結果だけではないはずです。それぞれの選手にライフヒストリーがあり、そこに至る尊いプロセスがあったことを知ることで、その感慨はさらに増すでしょう。

そのプロセスとは、選手たちが自らを徹底的に節制しながら準備してきた姿だと言えるでしょう。その努力の積み重ねの上でこそ、放つことのできる輝きに私たちは惹かれるのです。もちろん勝負の世界はなおも厳しいことには変わりません。順位がつきます。メダルの輝きも違います。そしてメダルを取れない人の方が圧倒的に多いこともまた確かです。笑いもあれば、涙もある。しかしそこで、せめて気持ちだけは全員に金メダルを、と思えるとすれば、それは絶えず、自らを節制しながらその日まで走り抜いてきた姿があってこそ、に他ならないでしょう。


そのような姿を重ね合わせながら、あらためて25節のパウロの言葉を途中まで読み直してみます。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが…」。とても厳しい見方ではありますが、パウロは、オリンピック競技を含むこの世のあらゆる競争、それも、たゆまない節制の努力に支えられていたそのレースの結果がもたらした冠は、しかしどこまでも「朽ちる冠」だと言います。

それは、一つには、素材として、やがて朽ちるものだということがあるでしょう。実際、当時のオリンピックの冠は、花の冠であり、一説によれば、「枯らしたセロリで作られた」とも言われます。ですから、いつかは本当に廃れてしまうものあった。しかし廃れるのは素材だけではないでしょう。後にそのレースの記録が新しく塗り変えられれば、過去の冠の価値は下がるでしょう。あるいは、その賞を獲った人が後の人生で何か不祥事を起こしてしまえば、その輝きは失せ、汚されてもしまうでしょう。そういう現実を私たちは既に幾つも知っています。

しかしそれでも、その朽ちる冠を目指して、人々は涙をのむ程に節制するものだ。そうであるならなおさらのこと、「わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制」して当然ではないか。ただ、信仰の道を外から眺めるだけであってはない。単に、信仰の道の参加者に留まってもならない。まさに信仰生活というレースの競技者として、自ら節制しながら歩むのだ。否、走るようにして前進して、ゴールを目指すのだ。だから「生活に根差した信仰」のみならず、「信仰に根差した生活」をこそ、今ここから造り上げてゆこう。


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今日、パウロがこの私たちにも勧める競技者としてのレースは、しかし競技だからといって、決して人と競う類のものではありません。また26節にあるように、「やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘」を貫くものでもありません。そこには明確な目標があります。言うまでもなくそれは、「朽ちない冠」を目指すものです。しかしだからこそまた、そのために自らを整えてゆかなければならない姿があります。それが「節制」する姿。27節の言葉では、「自分の体を打ちたたいて服従させ」る姿です。

しかしこれは、自分を痛めつける自傷行為のことではありません。自分の体を打ち叩いてでも、自らを福音の恵みに服従させるのです。それは具体的に、自らを節制し、高ぶる思いを遜らせながら、そこでなお共に生きるべき隣人に仕えてゆこうとする奉仕のことです。既に福音を知る者だからといって、決してあぐらをかき続けるようなことがあってはならない。福音による真の自由を得たものとして、それをなおも、自らのためにだけ用いることであってはならない。用いることで他者を失うようであってはならない。むしろその人を、キリストに向かって得ていく歩みこそ、キリスト者の道なのです。その姿を、神は待っていてくださる。喜んでくださる。朽ちない冠を用意していてくださる。神の喜びは、私の喜びとなるのです。

勇ましいパウロの言葉を支えていたのは、彼自身の信仰の強さではありません。むしろ、自分が福音から取り残されてしまうのではないかという恐れや不安が絶えずあったのです。自分の弱さをよく知っていたからです。しかしそんな彼を生かし続けたのが、まさに永遠に「朽ちない冠」。それはこの私たちの望みでもあり続けます。死を超える望みです。

この望みを信じて生きる姿が、今日の私たちの姿と生活を造り上げます。そして共に生きるべき隣人のもとへと、私たちを押し出すのです。キリストの溢れんばかりの福音の恵みが、そこで私たちを待っています。


<祈り>

天の父よ。私たちの信仰の歩みの先に、パウロがいます。そのパウロがたどった信仰の戦いのレースを、キリストが導いてくださいました。どうか、決して朽ちることのない永遠の命の冠こそが、絶えずよろめく信仰弱き私たちを引き寄せ、奮い立たせるものでありますように。そしてその冠を望む信仰が、今ここに生きる私たちを、隣人に仕える愛の人へと新たに造り上げるものとなりますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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