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「伝道の始まり」

2024年2月11日 主日礼拝説教(降誕節第7主日)       
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書8:23b~9:6
新約聖書 マタイによる福音書4:12~17

                 

2024年は、私たちの教会の創立百年を祝う記念すべき年となります。様々な計画が検討されておりまして、その骨子については、本日お配りした長老会報告でお知らせした通りです。皆さんと共に楽しく、喜び合いながら、この節目をお祝いしたいと願っています。けれども単に一発花火を打ち上げるだけの、そんな一過性のお祭りにはしたくない。そうしたものに終わることがないよう、私たちは、この百年がいったい何のための歳月であり、また、これからのさらなる百年、二百年が、どこに向かうための歩みであるか、そのことを改めて心に刻むものでありたいと願ってやみません。

そこで長老会では、かねてよりこの百周年を、「伝道開始百年」という風に言い表すことを提案し、皆さんにも呼びかけています。今日に至る百年とは、単にカレンダーをめくり続けて百年が経った、といった具合に機械的に数える数字ではなく、私たちの教会がこの地で、まさに伝道を始めることになってからの百年に他ならない。そのことに心を留めたいのです。

この百年、私たちの教会は伝道する教会として歩んで来ました。もしそうでなければ、私たちはここに本当に繋がっていたでしょうか。でも幸いなことに、私たちの教会は熱心に伝道して参りました。福音を様々な仕方で宣べ伝え、キリストを証しして来ました。だからこそ私たちも、信仰の先達のこの尊い働きによってここに繋がることができていますし、伝道の働きは今も続いています。そして今度は私たち自身がその使命を担う者とされ、次世代に福音を手渡す者ともされているのです。

「伝道」とは、言うまでもなく、キリストの福音を宣べ伝えることです。しかしこの伝道の業は、当たり前のことですけれども、私たち自身では決してできません。キリスト抜きには一歩も前進できません。このお方と共に成し遂げてゆく。否、それどころか、実はこのお方こそ、伝道を始めてくださった張本人であり、完成させてくださる方でもある。私たちの伝道の源には、実にこの、キリストご自身の伝道があります。だからこそ、このお方が最初に始められた伝道の業に、代々の教会、そして私たちも、共に招かれ、参与し、これに仕える者にされているのだという原点に、何度も立なくてはならないでしょう。


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では、主イエスが始めてくださった伝道とは、どのようなものだったでしょうか。今朝ご一緒にお読みしましたマタイによる福音書の御言葉に掲げられた小見出しには、「ガリラヤで伝道を始める」と記されています。主イエスが伝道を始められたのはガリラヤだった。そこで12節をもう一度お読みします。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。

このヨハネとは、前回までの所で登場していました洗礼者ヨハネのことです。このヨハネが「捕らえられた」。なぜそうなったかについては14章に詳しく述べられています。当時、ガリラヤ地方の領主であったヘロデ・アンティパスという支配者―このヘロデは、主イエス誕生の時代に君臨したあのヘロデ王のことではなく、その3人息子の一人を指します―がヨハネを捕えたのです。それはこのヘロデが自分の兄弟の妻を奪って結婚したことをヨハネに批判されたからです。「この結婚は律法で許されていない」とあからさまに咎められた。その結果ヨハネは、獄中で無惨にも首を切られて命を奪われてしまいました。

この、最終的には死にまで及んでゆくヨハネの逮捕の出来事を聞いて、主イエスはガリラヤに退かれました。単純に考えれば、この「退く」とは、自分も捕まらないように安全な所に逃げて身を隠した、と理解するのが普通かもしれません。ところがガリラヤ地方というのは、実はヨハネを捕えた領主ヘロデのお膝元です。ですからそこに向かうということは、身を隠すどころか、ますます危険に身をさらすということでしょう。にもかかわらず、まさにそのような所に主イエスは退き、しかもそこで伝道を開始されたのです。

ところで、この「退く」という言葉は、実は先述した14章にも出て参ります。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」(13節)。「これ」とは、ヨハネが首を切られたことです。つまり、ヨハネの死を聞いた主イエスは、その時も「退かれた」のです。ですから今日の12節ととても似た書き方になっています。ヨハネの逮捕を聞いた主イエスは「退いた」。同じように、ヨハネの死を聞いた主イエスは「退いた」。

14章で主イエスが退かれたのは「人里離れた所に」でした。ではそれは、ヨハネのように自分も殺されてしまうことを恐れて逃れた、ということだったのでしょうか。しかし群衆たちが主イエスの後を追って来た、とその後に語られていますので、全く身を隠すことにはなっていません。ならば、主イエスが「ひとり人里離れた所に」退かれた目的は何だったでしょうか。それは、身を隠すというより、むしろ一人で祈られるためだったのではないでしょうか。

実際、その後の23節には「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」と続きます。身の安全のために隠れたのではなくて、一人になって祈り、そこで父なる神と向き合う時を持たれたのです。「退いた」のはそのためであった。ですから、本日のところで同じように「退かれた」とあるのも、そのためだったに違いありません。

主イエスは故郷「ナザレを離れ」、領主ヘロデの魔の手が伸びる危険なガリラヤ地方の「湖畔の町カファルナウムに来て住まわれ」、そこを伝道の拠点にされたのでした。故郷には主イエスの家族がいたことでしょう。父ヨセフは早くに亡くなったようでありますけれども、母マリアと兄弟たちが残っている。幼馴染もいたでしょう。そういう親しい人々を置いて、一人神と向き合うために、主イエスはわざわざ辺境の地ガリラヤへと赴かれたのでした。


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そのように、一人退いて神と向き合って祈られる中で、主イエスはいったいどんな示しをお受けになったのでしょうか。

主イエスが退かれたのは、先ほども申したように、洗礼者ヨハネの逮捕が直接のきっかけでした。そうであればこそ、主イエスは今、ヨハネが経験している苦難にご自分の行く末をも重ね合わせながら、これからの道を祈りの内に見つめておられたのではないでしょうか。ヨハネが捕えられたこと、そして主イエスご自身もやがて捕えられてゆくことの重なりは、実は聖書の言葉の上からも確かめられます。

今日の12節の「ヨハネが捕らえられた」には、「引き渡された」という意味の言葉が元々は当てられています。この言葉は、この後主イエスが祭司長や長老たちに捕えられる時、また、ローマの総督ピラトに身柄が引き渡されてゆく時、そしてそのピラトによって、十字架の死に引き渡されてゆく時の言葉として用いられます。

つまり、この時ヨハネが「捕えられた」出来事は、実は主イエスの身にも今後降りかかることになるご受難と十字架の死を暗示する言葉でもあったのです。ですから、主イエスがわざわざ危険なガリラヤの地に赴いて神に真剣に祈られたのは、これからもっと厳しい十字架の苦難が待ち受けているということ、そしてそれが神の御心においてご自身の成し遂げるべき使命であると受けとめるためには、ぜひとも必要だったに違いありません。否、神のご計画にあっては、それは必然、と言うべきでしょう。

そうした厳しさのただ中で、主イエスは伝道を始められました。その第一声が、17節の言葉です。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。

「そのとき」とは、いつの時でしょうか。直接的には、12節と13節を受けています。つまり洗礼者ヨハネが領主ヘロデに捕えられ、そのことで主イエスご自身が、慣れ親しんだ故郷ナザレを離れることを決意され、わざわざ身の危険が及ぶガリラヤ地方に移られた、その時であります。しかしそれだけでしょか。それは私たちと関係のない、歴史上のある昔の一点だけを指すのでしょうか。


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そこでご一緒に考えてみたいのは、先ほど申したように、今日の出来事が主イエスにあっては必要なこととして、しかしまた、神にあっては必然のこととして、避けようもないものだったとするなら、もう一つ、これに先立って起きていた神の必然的ご計画、あるいは聖霊の働きによって既に起きていた事があります。それが、直前の「サタンの誘惑」(4:1~11)です。

主イエスが荒れ野において、サタンから三度の誘惑を受けられたこの出来事も、実は「“霊”に導かれて」(1節)のことでした。つまり主イエスにとって、この戦いは避けようもない御心による試練だった。しかし主は、この試練に耐え抜いて勝ってくださいました。ここで知るべきは、この勝利が、単に主イエスだけの勝利ではなかったということです。なぜなら、他でもない私たちが人生の試練に勝利するための、その約束としての勝利だったからです。

はたして、私たちの人生の試練とは何でしょうか。あるいは、ここに出てくるサタンとは何でしょうか。もしサタンというものが、ここに登場するように私たちの目の向こう側にあって、見えるものとして対峙できるような存在ならば、それはおとぎ話に出てくる、現実味のないものと感じられるでしょう。しかしサタンの正体とは、実は私たちの目には隠され、私たちの内側に潜んでその命を蝕む、大変厄介な存在に他なりません。そして絶えず機会を狙っては、私たちを神から引き離そうとすることを使命とし、最大の喜びとするのです。

いったい私たちはいつ、このサタンの力の下で神から離れ、罪を犯してしまうでしょうか。私たちが罪を犯すのは、もちろん意志をもって背を向け、御心に反する悪事を働く時だとも言えます。しかし最も深い罪を犯してしまうのは、実は私たちが一番困窮し、あるいは切なる助けを呼び求める時だと言えるのかもしれません。

神の助けを最も必要とする時、しかし救ってもらえない。状況がよくならない。いったい神はどこにいるのか。全能の神ではないのか。石をパンに変えてはくれないのか。もし変えてくれたら信じても良い。そうやって知らず知らずの内に、私たちは神を疑い、呪い、試す。あるいは天から引きずり下ろし、あるいは神の上に立ち、そしてついには神を捨て、神から離れるのです。皮肉にも、私たちが神を求め、信仰に生きようとするそのところで不信仰に陥ってしまうのです。私たちの人生に起きるあらゆる試練中の試練です。避けようもない、人間の惨めな罪の現実です。

主イエスが伝道を始められた「そのとき」とは、領主ヘロデの悪の力が及ぶ時代のことでした。思いのままに人の首を切り、まるで自分が神であるかのような身勝手な振る舞いを繰り広げるその姿は、しかし決して彼だけの問題ではなく、私たち自身の罪の姿が究極的に映し出されている姿でもないでしょうか。

こうして、「そのときから」始まった主イエスの伝道は、決して過去のことに留まらず、まさに今この時代、私たちの罪で覆われたこの現実のさ中にも続いているのです。


そうしたこの世の闇の極まるところで、主イエスはこの一言を、この勝利の宣言を、伝道するための最初の言葉として仰せになられたのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。

これは、「天の国は近づいた」という事実の宣言です。私たちは、これを歪曲することなく、文字通りに受け取らなければなりません。つまり、悔い改めなさい、そうすれば天国に行けるとか、さもなければ滅びるとか、そういう条件付きの教えではないということです。私たち次第で天国に行けるとか、行けないとかという話ではない。天の国の方からやって来たのです。だから悔い改めなさいと。方向転換して、神の方に向き直りなさいと。主イエスが、御心と共に、愛をこめて語ってくださった、神の出来事の宣言です。今ここに天の国が近づいた。否、もうやって来た。この私と共に、これを聴くあなたのところに、やって来たのだ。

「天の国」とは、「神の国」です。マルコ福音書では「神の国は近づいた」となっています。そして「国」とは、本来は「支配」という意味の言葉です。ですから、「天の国」とは、「神のご支配」を現します。国というと、どうしても領土や境界線というものを思い浮かべてしまいますが、神の国のご支配は、ただ神の恵みのご支配が境界線なく、限りなくこの地上全体を覆い、天幕のように広げられ、そこに私たちを招き寄せるのです。


その天の国で、何が起こるのでしょうか。私たちはどうなるのでしょうか。先日の祈りの会で、ある一人の参加者がこんな興味深いことを仰ってくださいました。漢字の「国」という字をよく見ると、回りには囲いがある。これが神さまの支配を現す。神さまの恵みの御腕が包み込んでくるイメージ。そしてその中に、「玉」という字があるが、これは神が私たち人間をご自身の「宝」としてくださる、ということではないか。

汚れ多き罪深い人間を、それでも滅ぼすことなく、なお価高き存在として呼び寄せてくださるのです。悔い改める者、神に立ち返る者に向かって、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)と抱き寄せ、愛の内に立ち上がらせてくださるのです。


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最後に、本日併せてお読みしたイザヤ書8章の終わりから9章の初めにかけての言葉が、マタイの方の15節と16節に引用されていました。「ゼブルンの地、ナフタリの地」。これは、カファルナウムのある地域に昔住んでいたイスラエルの部族名です。しかしイザヤ書が書かれた当時、既にその土地は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになっていました。そこにはもちろんユダヤ人たちも住んでいたのですが、ユダヤ人だけが住んでいるユダヤに比べれば、異邦人の数がずっと多く、彼らとの接触を日常的に余儀なくされていたからです。

そういう意味で、ガリラヤはユダヤと比べると辺境の地であり、実際ユダヤに住む人々はガリラヤをそのように蔑んでいたのです。しかし、その「異邦人のガリラヤ」が栄光を受ける、ということをイザヤ書は告げており、その預言は主イエスがこのガリラヤの地で伝道を開始されたことによって、いよいよ実現したのです。

けれども、ここで言われていることは、単に「異邦人のガリラヤ」と蔑まれている地に「光が射し込んだ」ということではありません。むしろその次の16節が大切です。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。

「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」とは誰のことでしょうか。私たちのことでもないでしょうか。私たち人間は、生れた時から、逃れようもない罪の暗闇の中にいる。そしてお互いの罪が、私たちをさらに暗闇の中に閉じ込めているのです。その中で私たちは手探りで歩み、しばしばぶつかり合い、互いに傷つけたり傷つけられたりして生きているのではないでしょうか。

私たちはまた、「死の陰の地に住む者」でもあるでしょう。人は必ず死ぬ。ですから、私たちの人生は常に死の陰の下にあります。普段はそこから目を逸らしていても、やがて年老いてゆく中で、あるいは病を得て、その陰は次第に深くなり、それに怯えて歩むことしばしばです。若くて元気な人でも、ある日突然自分が、家族が、あるいは大切な友人が、その陰に覆われてしまうこともあるのです。

そのように私たちの生活は、罪による闇と、死の陰の下にある。それは全ての人に共通して言えることです。その深い暗闇に閉じ込められた私たちに、大きな光が射し込んだ。それが「天の国は近づいた」という宣言なのです。

今年、伝道開始百年を迎える私たちの教会であります。願わくは、主イエスご自身の伝道によって始められた天の国の光が、今ここに集められた一人一人の命の隅々にまで届きますように。そしてまた願わくは、主イエスの十字架の贖いによって成し遂げられる神の国の希望が、私たちの身の回りで、この町で、そしてこの日本と世界の果てにまで届くために、私たちもまた主の僕としてバトンを受け継ぎ、福音を携えて伝道する歩みへと押し出されて参りますように。


<祈り>

天の父よ。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」。

悔い改めるために何かを為そうとする前に、何よりまず、私たちはあなたに心を向けます。深い罪のゆえに、暗闇の中でさ迷い続ける私たちです。死の陰で脅える他ない私たちです。その私たちに、あなたのお遣わしくださった御子イエス・キリストが「天の国は近づいた」と宣言して下さいました。祝福の言葉をありがとうございます。この言葉の実現のために、キリストは全てを献げ尽くしてくださいました。どうか、己の罪深さと弱さによってもたらされるあらゆる苦しみや悲しみ、そして死への恐れから解き放ち、絶えずキリストと共にあなたに向き直り、あなたの確かな愛の中を歩ませて下さい。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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