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「体は主のため、主は体のため」

2022年6月19日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第3日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書43:1
新約聖書 コリントの信徒への手紙一6:12~20

アイデンティティという言葉があります。「あなたは誰ですか?」という問いに対して、「私はこれこれの者です」と答える。そう答える時に、まさにその人自身によって捉えられている自分の姿。あるいは、この自分が、他でもないこの自分であると思えるその感覚。これをアイデンティティと言います。なかなか掴みどころのない言葉ですが、この外来語は、日本語では通常「自己同一性」などと訳されます。

ある時の説教で、一度お話したことですけれども、私の母国韓国では、この同じ外来語を「정체성・正体性」という風に訳しました。アイデンティティ。つまりそれは、自分の「正体」ということです。この方が通りが良いかもしれません。私の正体。私の正しい姿。否、今日はあえて文字通りに、私の「正しい体」という風に強調したいと思いますが、いずれにしても、この肉体を伴って生きている自分という存在を、私たちは少しでも正しく知りたいと思います。正しく知らなければ、本当の意味で、自分を生きることができないからです。自分の命を、心から喜ぶこともできないからです。

聖書とは、まさに私たちの正体を映し出してくれる書物。そう言ってもよいでありましょう。聖書は、私たちの正体を、しかし自分一人で見つけなさいとは教えません。自分一人で見出す私ではなく、神によって見出されている自分こそを発見してほしい。その自分に出会い、受け入れてほしい。聖書はそう願います。

私たちはこの世の現実にどっぷり浸かって生きています。一つの家庭に生まれ、様々な社会の中で育ってゆきます。そして幾つもの身分や肩書を自分のアイデンティティとしながら、生きています。そのような私たちが、しかし思いがけず人生の途上で神に見出され、キリストに結ばれ、主のものとされて生きている。それがいったい、どれほどの価値と変化をもたらすのか。そのことを、今日のパウロの手紙から共に教えられたいと願うのです。


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「わたしには、すべてのことが許されている」。本日与えられましたコリントの信徒への手紙一の第6章12節に、この言葉が二度繰り返し語られていました。注意したいのは、どちらにも鍵括弧がついていることです。実は聖書によっては、この鍵括弧がないものもあります。理由は単純で、元のギリシア語の原文にはこのような鍵括弧はついていないからです。

私たちの礼拝で用いております新共同訳聖書は、この箇所を原文から翻訳する際に、おそらく次のような解釈に立って鍵括弧をつけたのだと理解できます。つまり、「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉は、パウロの言葉であるというより、むしろコリントの教会の人々の言葉であった。コリントの人々がとてもよく用いていた言葉、それも、まるで合言葉のように、自分がしていることを正当化するために用いていた言葉であったに違いない。そうであるからこそパウロは、相手のこの言い訳のような言葉をあえて引用しながら、それに対して「しかし」という言葉で応答する。否、ある修正を加えようとした。そう読むことができます。

けれども、ここで私たちはもう一つ注意深く心に留めたいことがあります。それは「わたしには、すべてのことが許されている」というこの言葉は、やはりパウロ自身の言葉でもあったのではないか。少なくとも、パウロにもこれと同じ思い、あるいはそれ以上の強い思いがあったのではないか。全てのことが許されていると断言できる程の自由を確信していたに違いない。否、そうでなければ、このように同じ言葉をあえて二度も繰り返すことはなかったでしょう。

事実、パウロは少し先の第9章の1節で「わたしは自由な者ではないか」と言い、また同じ所の19節でも「わたしは、だれに対しても自由な者です」と語っているのです。そうしますと、この自由なる思いは、実はパウロの中に元々深く息づいていた思いであって、したがって、パウロがかつてコリントに教会を建てた時、彼らにもこの教えを繰り返し強調していたと考えられるのです。キリスト者として生きるとは、全てがゆるされ、誰に対しても自由に生きることだ。律法の支配から解き放たれ、福音による自由に生きることだ。


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実に「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉は、コリントの人々の言葉の引用でありながら、しかし、そう言わせていたのは、他でもないパウロ自身でもあったのです。ところが、これに待ったをかけた。それが今日の手紙の主旨です。待ったをかけなければならない程、コリントの教会の人々が、キリスト者の自由というものを取り違えていたからです。あるいは、自由にされたキリスト者としての自分、その自分の正体を、見失っていたからです。

そこでパウロは12節で、やはり二度、呼応するように「しかし」・「しかし」と重ねます。最初の方は分かり易いと思います。「しかし、すべてのことが益になるわけではない」。確かに私たちキリスト者は自由であって、全てのことが許されている。だからどんなことをしても良いのだろうけれども、しかしだからといって、その全てが自分たちの利益になるとは限らない。そうであれば、益とならないようなことはしない方が良い。否、すべきではない。パウロはそう釘差しながら、私たちには、それをしないと決断できる自由もあるということ、また、自由と身勝手な放縦とは区別されなければならないということを、教えてくれます。


これに続く二度目の「しかし」は、少し分かりにくいかもしれません。すべてのことが許されている。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」。これはどういう意味なのだろうか。どうして、「すべてのことが許されている」ことと、「わたしは何事にも支配されはしない」こと、この一見同じ内容のものが、「しかし」で結ばれるのだろうか。

おそらく、パウロは次のように言いたかったのかもしれません。確かに、私たちは変わることなく自由だ。何をすることも許されている。けれども、それをしたおかげで、今度は何か別のものに支配されてしまっている自分の不自由さに気づかなければならない。私たちの自由は、自由であろうとすることに執着することによって、かえって不自由をもたらすという皮肉を、私たちは知らなければならない。そんな戒めに聞こえます。

そうであるならば、結局ここでも、先ほど「すべてのことが益になるわけではない」と言われていたことと同じことが、繰り返されていることになります。何にも支配されない自由の中で為したはずの行いによって、いつの間にか自分が何ものかに支配されるようになる。そのこと自体が、もはや益ではないのです。益にもならないことにうつつを抜かし、それをやめられないというのでは、もはやそれは自由ではなく、その欲望に支配された奴隷の姿でしかない。だからこそ、パウロは断固として、これに「否」を突き付けます。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」!


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さて、ここまでのパウロの教えや主張は、ある程度、私たちにもよく理解できるものではないかと思います。極端に言ってしまえば、キリスト抜きでも分かる。社会の常識や道徳、また私たちの経験に照らし合わせることで、それなりに頷けるところがあると思うのです。けれどもパウロは、二度にわたる「しかし」に込めた思いを土台にしながら、13節から、キリスト抜きでは理解できない私たちの姿を大胆に示してゆきます。キリストが伴ってくださるからこそ見えて来る私たちの本当の姿。自分の思いや、社会の常識によって見出す己の姿ではなく、まさにそのただ中で、神によってこそ見出される私たちのアイデンティティ、正体、その正しい体の姿を指し示してゆくのです。

そこで13節をお読みします。「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」。

これも、にわかには理解しがたい言葉です。「食物は腹のため、腹は食物のため」。ここは単純に考えて、「食物は腹を満たすためにあり、腹は食物を消化するためにある」。そんな風に理解できるでしょう。そう言いながら「神はそのいずれをも滅ぼされます」と続きます。つまり毎日毎日食べ物を食べて生きる肉体の営みは、しかし私たちが死ぬ時には終わってしまう。神がそれをお許しにならない、滅ぼしてしまわれると言うのです。

言われてみれば当たり前のことです。でもなぜ当たり前のことがわざわざ書かれるのか。諸説ありますけれども、実はこの13節の前半までの言葉も、鍵括弧で括ることで良く理解できるようになると考えられます。つまり12節と同じく、コリントの人々が口々に合言葉としていたその言葉を、パウロが引用したと考えるのです。


そのように考えますと、ではパウロの意図は、そしてそれに先立つコリントの人々の言い分は何だったのでしょうか。「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」。毎日食べ物を食べるという当たり前の営み。そうした私たち人間の肉体の欲求や、それに従った行いは、実は何ら特別な意味は持たないものである。そしていつかは終わり、神に滅ぼされるものである。つまり、神の救いと何ら関わりのない事柄である。腹が空けば食べ、またしばらくして腹が空けば食べる。それだけのことだ。そしてそれと全く同じように、性的な肉欲がある時には淫らな行いで満たし、娼婦と呼ばれる人と関わりを持つことで満足を満たすことも、何ら問題になることではないではないか。救いとは関係ないではないか。

これが、彼らの言い分だったのでしょう。自分たちの性的な自由を正当化するために、彼らはパウロに対して我を張っていたのです。既にお分かりのように、今日の手紙は、そしてこの手紙はそもそも、様々な問題に満ちていたコリントの教会の宛てて書かれたものでした。そして本日の箇所では、またしても、性的に「みだらな行い」を続けていた教会の者たちの姿が問題にされています。

当時、コリントの町には幾つもの神殿があり、様々な神々が拝まれていました。ところがそこには、神殿に仕える娼婦たちが千単位、否、万単位でいたと言われます。当時のギリシア世界で「コリント娘」と言えば、娼婦を意味した程です。そして不思議なことですけれど、この娼婦文化は、一種の宗教的なものとさえ考えられていたのです。

これを正当化し、さらには教会の信仰の論理に当てはめてこれを良しとしたコリントの教会の人々の口実は、簡単に言えばこうです。人間というのは、魂と肉体からできている。そして信仰とは、まさに心の問題、魂の救いに関わる事柄である。だから、魂と関わりのない肉体に信仰など関係ない。肉なるものはいずれ朽ち果て、滅ぼされるのであって、その滅びゆく肉体の中で、まさに魂が救い出されることこそ、信仰がもたらす望みだ。そしてまた、だからこそ、人の肉体は救いとは関係ないのだから、自分たちはその信仰ゆえに、肉の欲望の赴くままに振舞うことさえ、自由にできる。パウロ先生、私たちキリスト者は、あらゆる事において自由だと仰いましたよね。


しかしパウロは、これに対して首を縦に振りません。そして言うのです。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」。私たちの体は、淫らな行いのためにではなく、主のためにある。そう言われます。信仰者たる者よ、自分の体を淫らな行いのために用いるのではなく、主のために用いなさい。パウロはそう語ります。

私たちは自分の体を、さらに言えば自分の命を、何のために用いるかということを巡って、様々に思い悩みながら歩んできたに違いありません。そして今も、その問いと真剣に向き合いながら歩んでおられる方もいらっしゃるでしょう。皆、その点で必死です。

けれどもパウロがここで本当に伝えたかったことは何でしょうか。それは、命を宿すこの自分の体が何のためにあるのか、ということ以上に、私たちの人生の根本において、自分はいったい誰のものか。この問いかけに他なりません。そしてパウロははっきり述べるのです。私たちの体は主のものだと。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない」(15節)。

ここで語られるのは、もちろん娼婦と交わるような淫らな行いはよくない、という戒めではありますけれども、しかしそれ以上に、「あなたがたは、自分の体が誰のものだと思っているのか」、という人生の問いかけなのです。したがって、もしこの問いに重点を置くならば、ここで語られていることは、「自分は娼婦とは何も関係をもっていないし、そんな淫らな生活はしていない。するつもりもない」と内心思っている者にも、決して無関係ではなくなるのです。

「自分の体は誰のものなのか」。この問いは、性別にかかわらず、またあらゆる社会の身分や肩書に関わらず、私たち全ての者に向けられた、人生の根本問題なのです。


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いったい、私たちに与えられる信仰という賜物は、何でしょうか。しばしば信仰は、倫理や道徳と比べられることがあります。今日の文脈で申せば、自分の体を何のために、またどのように用いるかという問題は、実は倫理・道徳の領域で十分に扱える問題です。そしてその前提には、自由意思を持つこの「私」という主体が中心に据えられて、その自分の体を自分でどのように正しく、またより良く、用いてゆくかが求められます。

けれどもキリストが与えてくださる信仰、この信仰が求めるのは、そうした私たちの倫理・道徳的な姿勢や主体的努力、またそこで正しく身を立てようとするアイデンティティ(正体)ではありません。むしろ信仰は、「あなたの体は、そしてあなたの命は、あなたのものではない。あなたの体の、あなたの命の、本当の持ち主、主人がおられる。自分の体をどう用いるかということも、実はそのお方との関係において決まる」という道を開き示して、その歩みへと招く力なのです。それは私たちに対する、この上ない祝福の約束です。


この祝福を受け入れることのできる信仰が与えられ、実際、この信仰に生かされて、天に召されていった私たちの信仰の先達たちの姿があります、この姿に私たちも折々に触れることができることは、本当に幸いなことです。神が本当に生きて働き、その死にゆく体をご自分のものとしてくださっている真実が、そこにはっきり示されるからです。自由を追い求め、その自由を謳歌するど真ん中で、かえって不自由さに絡め取られてしまう皮肉な現実にあって、しかし神は、私たちの不自由な体の中に、真の自由を得させてくださるのです。

それは、キリストの恵みのご支配に捕えられた所でこそ得させて頂ける、真の自由です。やがて朽ち果ててゆく私たちの体、そして誰もが死に向かって滅んでゆくその肉体の惨めさ、またそれゆえの哀しみや虚しさのただ中で、しかし神は、その死を乗り越えさせる望みを与えてくださるのです。神の永遠の命で、再びこの体をもって生きることのできる約束です。キリストを復活させた、その力によって私たちをも復活させてくださる確かなご決心です(14節)。

ここに、私たちの真の平安と自由があります。私たちの体は主のためにあり、そしてまた主は私たちの体のためにおられるからです。

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