2022年12月11日 主日礼拝説教(降誕前第2主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編24:1~2
新約聖書 コリントの信徒への手紙一10:23~33
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昨年の秋からコツコツとご一緒に読み続けておりますコリントの信徒への手紙一も、今日で第10章を読み切ることになります。この手紙全体の約2/3の所までやって来ました。しかし今日の箇所で、またあの話か…と思われた方もいらしたかもしれません。「偶像に備えられた肉」(28節)を巡る議論です。
この問題について、パウロは既に第8章から随分長々と、色々なことを述べて来ました。途中、大きな脱線でもしたかのような話を展開して私たちをそこに導きながら、しかしまたここに連れ戻す。そのようにしながら、しかしようやくここに至って、この長い議論に一つの区切りを付けようとしています。
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そこで、まず23節の言葉です。「すべてのことが許されている」。鍵括弧が付いていますが、これは聖書の原文にあるものではなく、翻訳する際の解釈に基づいて付けられるものです。その解釈とは、つまりこの言葉は、パウロ自身の言葉というより、コリントの教会の人々がしばしば口にしていた合言葉のようなものであり、それをパウロがここで引用している、というものです。
「すべてのことが許されている」。これは、第6章12節にも出てきた言葉です。そしてこの言葉は、ここでも二度繰り返されます。これまで度々申して参りましたように、コリントの教会の人々の中には、当時のギリシアのものの考え方に強い影響を受けたこともあり、次のような信仰理解に立つ人たちがいました。つまり自分たちはキリストによって罪赦された。それによって新しい霊的な自由を獲得した。何ものからも束縛されない自由を手にした。だから何をしても大丈夫だ。全てのことは許されている!
ところが同じ教会の人でも、そのような解放感や確信を持てない人たちもまたいたのです。例えば、ある人の家に招かれてご馳走になる。でもそこでどうしても気になるのは、食卓に並べられた肉が、実は他の神々の偶像に一度供えられた肉だったのではないか。それが市場に卸ろされて売られていたのではないか。そういう肉を、はたして食べて良いものかどうか。汚れてしまうのではないか。偶像礼拝に加担することになりやしないか。そんな不安があった。
しかしこれに対して、「すべてのことが許されている」のだからと言い張る人たちは、周りの人が何と言おうと、平気で肉を食べて見せる。そんな姿を見せつけられた側は、ますます不安を高めて、彼らに対する嫌悪感も募らせることになります。そのようにして、教会を大きく二分する深刻な対立が、現実に起こっていたのでした。
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そこでパウロは、こうしたコリントの教会の現実に対して既に様々な見解を述べて来たわけですが、いよいよこの問題について、明確な区切りを付けようとします。あなたがたの一部の人たちが言うように、確かに「すべてのことが許されている」。キリストのものとされた人は、その信仰の恵みにおいて、あらゆる不自由から解き放たれている。それはこの私も認めるところだ。
けれどもそこに、パウロはすぐさま「しかし」という言葉を挟みます。「しかし、すべてのことが益になるわけではない。…しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」(23節)。この「しかし」以下の内容こそ、パウロが最も力を入れて述べたい事であることは、言うまでもありません。彼はここで、一つの条件を示すのです。あるいは、一つの方向性を打ち出す。自由に関する方向性です。あなたたちが「何でも許されている」と言っている自由。その自由が、まさに自由であるが故に、いったいどの方向に向かって本領を発揮すべきなのか。そのことを、改めて念を押すように説いてゆくのです。
「すべてのことが益になるわけではない」。確かにキリスト者である私たちは何をしてもよい。何を食べても良い。しかし、その全てが本当の益になるとは限らないことも、知っておいてほしい。では、「益」とは何だろうか。これを言うために、パウロはこう言い換えました。「しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」。つまり、本当に益になるものとは、私たち自身を造り上げるものだ。そうパウロは言います。そこで改めて思うのです。では、私たちを本当に造り上げるものとは、いったい何だろうか。
ここで、「造り上げる」という言葉から、少し前にパウロが「愛は造り上げる」(8:1)と語っていた言葉を思い起こします。つまり、「すべてのことが許されている」自由に生きている者が、しかし、本当に自らを造り上げるようにして生きるためには、愛に根差しているかどうかが問われるということです。なぜなら、「愛は造り上げる」からです。愛こそが人を造り上げる。私たちを造り上げるのは、愛に他ならないのです。
その愛とは、まさしく24節で言われている通り、「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」という意味での愛です。愛とは、他人の利益を追い求めること。自分のためではなく、人のために益することを為すこと。これに他ならない。そしてこの愛に生きる姿こそが、私たちを真実に造り上げ、益するものとなるのだ。教会を建て上げることになるのだ。パウロの力点は、ここに置かれます。
ちょうど先週、私たちの教会の仲間の一人であるM.Sさんのお家の起工式が執り行われました。これから新しい家が建つ。そのことを覚えて、工事の安全と、M家の祝福を共に祈りました。ご存知のようにM.Sさんは、同じく教会員のMAご夫妻のご長男でありますが、姓は母方の「M」を受け継がれました。そしてこの度、M家の古い家を取り壊して、新しいM家の家が建て上げられることになりました。
この起工式を通じて、私は改めて「家を建てる」とはどういうことなのかを考えさせられました。それは単に、家のデザインや造りをどんな風にしようとか、そうした目に見えるもの以上の事柄を含んでいると思います。そして大切なのは、これからこの新しい家が、どんな土台の上に建てられるかということだと思うのです。それは決して見える土台とは限りません。むしろ見えない礎でありながら、しかしその家をしっかり下から支え、そこに住まうご家族一人一人を豊かに育て上げ、そして麗しい家庭をそこに造り上げてくれる、そんな土台です。
私は思いました。M.Sさんが受け継がれたのは、実は「M」の姓だけではなく、M家の良き伝統でもあるに違いないと。古い家を解体してもなお残る、否、むしろより明らかにされる、見えない伝統。これが、M家を本当の意味で造り上げてゆくのではないか。良き伝統とは、この場合、“信仰の遺産”と言っても良いでしょう。そしてその要に、「愛」があると私は信じてやみません。
M.Sさんのご祖父さまも、私たちの教会の仲間でありました。数年前に天に召されたM.Tさんであります。このTさんが以前、ご自身の半生を振り返って教会で証しをしてくださいました。その時、自分は特に三人の女性たち(母・妻・娘)に支えられた。その愛に支えらえた。そしてその愛を通してキリストの愛に結ばれた。途中、教会から離れてしまう時期もあったけれど、周囲の忍耐強い愛が、この自分をイエス様の愛に繋ぎとめてくれた。そう仰って、今日お読みしている同じコリントの信徒への手紙一の第13章から始まる、愛についての教えを、ご自分の愛唱聖句として紹介してくださいました。「愛は忍耐強い…」(13:4)。
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この愛こそが、Tさんを造り上げてきた。M家を支える良き伝統となった。そしてこの土台の上に、これからM.Sさんのご家庭もさらに豊かに造り上げられてゆく。否、今ここにいる私たち、そして教会もまた、この愛によって真実に建て上げられてゆくのです。その愛とは、繰り返しになりますが、「自分の利益ではなく他人の利益を追い求め」ることです。共に歩んでゆく隣り人にとって益となるような、喜びとなるような愛に生きてゆく。キリストの愛が、私をそのように駆り立て、そしてキリストの愛の香りがまた、この私を通して隣り人へと放たれてゆく。それが、キリスト者としての自由に生きることに他ならない。
あなたたちは今、確かに自由だ。「すべてのことが許されている」。だから一方では、「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(25節)と言う。また「あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(27節)とも言う。いつだって、どこだって、何でも食べて良い。
なぜそれが許されているのかと言えば、26節にあるように、「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。これは今日、共にお読みした詩編第24編1節を初めとして、同じ詩編の他の箇所でも繰り返し語られる、一つの信仰告白といってもよい言葉です。「地とそこに満ちているもの」は全て、主なる神がお造りになったものであり、今なおその神のご支配の下に置かれているのだから、全て清いものとして感謝して受け取ればよい。だからパウロはこうも言うのです。「わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです」(30節)。
けれども、もう余計な説明は必要ないでしょう、パウロがここで本当に言いたかったことは、やはり28節で再び用いられる「しかし」の後に続く言葉です。「しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません」。もしも食事の席に誰かがいて、「これは実は、偶像に供えられた肉です。だから私は食べません。あなたはそれでも食べるのですか」等と気にする人がいたならば、その人のために食べないでおくという選択肢もどうか持ってほしい。
そしてその時、それは「良心」の故に食べないということになるのだろうけれど、しかしこの良心とは、実はあなたの良心のことではない。「この場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです」(29節)。そのようにして、肉のことで気にしているその人の良心に、重荷を負わせるようなことはしないでほしい。ここに、他者に注ぐ愛を土台とするキリストの者の自由を説くパウロの思いが、改めて述べられています。
ただし、パウロの説くこの道筋が、実は29節の最後の所に来て、うっかりするとピンと来なくなってしまうかもしれません。というのも、ここで重んじなければならないのは「他人の良心」だと言いながら、パウロはすぐその後にこう言うのです。「どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう」。
「左右される」とは、要は「振り回される」ということです。そしてこの場合、相手の良心に重荷を負わせないために自分の自由がある意味で制限されるということは、言ってみれば、相手に振り回される、という事態でもあります。けれども、パウロは逆のことを言うのです。「どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう」。
ここで大切なことは、あくまでもこの私の自由は、相手の良心によって左右されるものではないということです。相手に振り回される仕方でその良心を慮るのではない。そうではなく、相手の良心を傷つけまいと判断すること自体が、実は私の自由の現われに他ならないのです。ここが大事です。何にも束縛されず、感謝をもって何でも食べることができる自由があるからこそ、その自由を、他者を傷つけないために断つことすらできる自由というものが、実はある。相手を励まし、愛するが故に、その友の益となるために自らの自由を手放すことを、むしろ喜びとする自由がある。その自由こそが、真の益をもたらし、私たちを本当に造り上げるものとなる。それ程までの自由を、あなたは生きているだろうか。
考えてみますと、私たちは自由というものを案外うまく用い切れていないところがあるかもしれません。「周りが何と言おうが、自分は自由なのだから、その自由を貫く。自由にさせてくれ」と言った時、その自由はただの我がままとして、教会の交わりを崩すものになる場合があります。あるいはまた、私たちは意外に自分の行動を決めるのに、周囲の目が自分をどう見るかということに捕らわれて、周りの動きを見回してから、「あの人もしているから、自分も大丈夫」といった具合に、実は不自由な判断しかできないこともあります。
そういう現実の中で、パウロはもう一つの自由、あるいは本当の自由を見ているのです。その自由とは、どこまでも私たちを真実に造り上げ、豊かに喜ばせる自由。愛に基づく自由です。そういう自由の恵みを、共に生きようではないかと呼びかける。キリストが私たちに与えてくださる自由とは、まさにそういう自由なのだと。
ですからパウロは31節でこう言うのです。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」。私たちは何を食べる時にも、何をする時にも、「すべてのことが許されている」。これは実に誇らしい言葉です。自由の讃歌です。まさに栄光に生きている。自分が光の中に生きていることの証しです。聖書も確かに、「あなたがたは光の子だ」と言ってくれる。けれどもその光は、自分から放つ光ではありません。神の光を受けて初めて輝くことができる光です。神の愛に支えられながら、他者を愛することができた時に放っている光です。
私たちは、神の栄光を基も美しく映し出す器となる時に、実は最も自由に、喜ばしく生きることができるのです。
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最後に、この神の栄光を受けて初めて、私たちは何をするにも本当の自由を生きることができる、ということのために、キリストがまさしくこの世に来てくださったことを、心に留めたいと思います。
先ほども申したように、私たちは案外、真の自由を生き切れないところで孤立したり、束縛されたりして生きています。否、もっと言ってしまえば、私たちは既に生まれつき、本当の自由に生きるどころか、罪の虜となって生きている存在だと言わざるを得ません。自由があるようで、しかしその自由が本来もたらす喜びに生きられない息苦しさを、誰しもが経験しているのです。しかし、まさにこの罪から救い出すために、キリストは私たちの所にやって来られた。それは言い換えれば、私たちを罪から解き放ち、真の自由に生きられるようにしてくださった、ということに他なりません。
本日の礼拝後に、先月天に召されたI.Kさんの記念会を行います。このひと月の間に、葬儀に続いて埋葬式も既に執り行われました。必ずしも、多くの方々がご参列頂ける日程ではなかったかもしれません。しかしこの埋葬式については、Iさんが一つ、強く願っておられたことがありました。それは、「埋葬はできるだけ早く」という願いでした。
その理由の一つは、遠方から集まって来る親類の足の便を考えて、葬儀のために滞在している短い期間の内に、埋葬まで済ませたい、という配慮でありました。しかしもう一つの理由を、教会に寄せてくださっていました。それは、「罪深い者ゆえ、死に顔をあまり見られたくないので、なるべく早くお骨にして埋葬してほしい」というものでした。
Iさんは自らの内に深く潜む罪を、決して最後まで忘れることはありませんでした。ご自分の葬儀の時でさえも、別れを惜しんで参列される方々に、できるだけ死に顔を見られたくないと思われた。早くお骨にして、そのお骨さえも、罪にまみれた肉体の象徴である故、なるべく多くの人目に触れられない内に埋葬してほしい。それがIさんの願いでありました。
Iさんにしか分からない、心の最も深い所で秘めていらした思いであります。人がどう思おうと、神の御前でこそ明らかにされる罪への恐れと、悔い改めに生き続けたIさんのお姿であります。しかし私たちは知っています。Iさんはただ無惨に、救いようのない罪人の姿のままで、息を引き取られたのではないということを。文字通り、息を引き取ってくださった神の罪の赦しと祝福の中で、生かされ続けて来られたということを。
Iさんの、あの大胆さと、愛に溢れたお姿を思い起こします。しかしそのIさんを支えていた土台には、キリストの愛がありました。キリストが罪を赦してくださったからこそ与えられる自由がありました。私たちにも約束されている自由です。キリストはこの喜びが満ち溢れるために、この世界に、そしてあなたの元にやって来られたのです。
<祈り>
天の父よ。御子の到来を待ち望むこの季節、私たちに約束された真の自由をあらためて受け取り直すことのできた恵みを感謝いたします。いつも自分の思いが先走ってしまう私たちをどうか憐れみ、解き放ってください。そして私たちの隣り人のためにこそ、今全てのことを為し得る自由が与えられているという真実を、キリストの恵みの中で思い起こさせてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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