2023年7月9日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第7主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 ホセア書6:1~3
新約聖書 コリントの信徒への手紙一15:1~8
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パウロが記したこの手紙も、本日から第15章に入って参ります。残すところあと二章ですが、最後の第16章は、挨拶や結びの言葉が中心となりますので、実際にはこの章が、手紙の本論部分の最後に当たると言ってよいと思います。この最後の所で、パウロは他でもない「最も大切なこと」(3節)をコリントの教会の群れに伝えようとしています。
けれども実は、初めて伝える内容ではありません。彼はこのように語り始めました。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」(1節)。間もなく手紙を締め括るにあたって、ここで「もう一度」、私からあなたたちに、ぜひ念入りに伝えておかなければならない福音の大事な話がある。既に語ったことではあるけれど、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えて」(2節)いるだろうか。覚えていれば、「あなたがたはこの福音によって救われます」。でも忘れていたら、「あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」。
少しゾッとさせられます。もし福音の言葉をしっかり覚えていなければ、これまで信じたことが「無駄になってしまう」と言われる。では無駄にならないために、自分の記憶力や学習能力を絶えず研ぎ澄ませていなければならない、ということなのでしょうか。福音に関する大切な教えや知識の一つ一つを、私たちはしっかりと余す所なく覚え続けることで初めて救われる……。はたして、福音による救いが起こるとはそういうことでしょうか。もしそうなら、救いの根拠は私たち自身の内にある、ということになります。しかしそれではあまりに心許ないことは言うまでもないでしょう。
ここであらためて注目したいのは、1節後半の言葉です。「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」。「生活のよりどころとしている福音」。新共同訳聖書は随分思いきった訳を当てています。しかし原文ではここは単純に、「立つ」という言葉が使われて、「(あなたがたが)立っている福音」という風に記されます。つまり福音は、あなたがたの頭や心の中というよりも、あなたがたの足元にある。その足元を見よ。今、あなたながたはどこに立っているのか。そんな問いかけにも聞こえます。
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さて、このようにして、パウロはコリントの教会の人々に対して、足元の土台に据えられるべき福音について具体的に語ってゆきます。その中身がこれから詳しく展開されるわけですが、その前にもう一つ、これはぜひ抑えておきたい、パウロのある大切な姿があります。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(3節)。
パウロがコリントの教会にこれまで語り伝えて来たもの、その最も大切な福音は、パウロ自身も受けて来たものだということです。受けて、伝えるということ。これは何でもないようなことかもしれませんが、教会の信仰の伝統は、まさにここから生まれました。既にパウロは、今日聖餐制定の言葉として私たちにも馴染みのある、あの言葉を述べる時にも同じように語りました。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(11:23)。
残念なことに、今でも「キリスト教は、イエスが開き、パウロが作った」等という言説を時々耳にすることがあります。もしこれをパウロが聞いたら、激しく反論するに違いありません。パウロ固有の教えや、パウロの内なる情熱や信念が、キリスト教の発展・福音伝道の業を決定的に支えたわけではないからです。パウロはどこまでも、信仰の先達(使徒たち)を通して主イエス・キリストから受け取ったものを、受け渡すようにして伝えたまでである、という謙虚さを自覚していたことはこれらの言葉から明らかです。
信仰とは、自分の外側にある福音を受け取ることである。これはとても大切なことです。信仰の出発点を、自分の内にではなく外に置くということでもあります。もしかしたら私たちは、信仰というものを信心深さと混同しているところがあるかもしれません。キリストを信じる燃えるような心が自分にはないことを憂いて、自分には信仰が無いという。しかし信仰とは本来、自分の内側から芽生えたり湧き起こったりするようなものではないのです。
受洗志願者や信仰告白志願者のための準備会を持つ時に、私たちの教会で大切にし続けていることがあります。それは、神と会衆との前で自らの信仰を言い表す時、その信仰とはいったい何か、ということです。それは例えば、自分の信心深さをアピールすることではありません。誰が何と言おうと、自分が信じている神様やイエス様はこういう方である、ということを熱く告白することが条件となるのではないのです。
準備会を経て、最後の長老会諮問会で問われることはいつも同じです。その人に信仰があるかないかを確証する客観的な基準は何か。それは、教会の信仰において受け継がれて来たもの、端的には「使徒信条」で告白されている一つ一つの言葉を、今この自分も受け取って、それを自らの信仰として告白するということに他なりません。この、教会の信仰を受け取ることができるかどうか、このことこそが問われるのです。
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では、この教会の信仰といった時の中身、その福音たるや、いったい何でしょうか。そのことを具体的に展開してゆくのが3節後半からの言葉です。「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと……」。
イエス様の十字架における死と復活のことが続けて言われます。ここでも明らかなのは、これらは私たちの外側で起こった事実だということです。私たちが知ろうと知るまいと、信じようと信じまいと、神はこの救いの出来事を、まず私たちの外側で起こしてくださったということです。しかも、ここでさらに大切なのは、これらが「聖書に書いてあるとおり」に起こったことだと、3節と4節で繰り返し述べられている点です。
主イエスが救い主として十字架にかかり、人類の罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、そして三日目に甦らされたこと、これらはいずれも、確かに新約聖書に書かれている通りのことです。けれども、パウロがこの手紙を書いていた時代にはまだ新約聖書はありません。今私たちが手にしている旧約聖書が当時の聖書ということになります。
したがって、「聖書に書いてあるとおり」といった時、それは旧約聖書に書かれていた通りのことが起こったということを意味します。つまり、キリストの死と復活の出来事が実際に起こる前から、旧約において預言されていたことが本当に現実のものとなった、ということです。旧約のどこに、ということまでは詳しく書かれていませんが、例えばイザヤ書は中でも有名でしょう。本日お読みしたホセア書もその一つに数えられるでしょう。しかし決定的に大事なのは、(旧約)聖書自体がこのことを預言し、したがって神の御心通りにキリストの出来事が起こったのだ、という揺るがない事実です。
この神ご自身による出来事の中で、キリストは死に、葬られた。「死ぬ」ことと「葬られる」ことは、意味としては重なるものです。しかしあえてこう記されるのは、十字架の死が本当の死であったことを示すためでしょう。キリストの死は、決して中途半端な死ではなく、完全な死であった。だから私たちと同じように、死んだ後に墓にも葬られることを自ら経験してくださった。
そう述べながら、しかしパウロの心にあったのは、これらのことが偶然起きたのではなく、どこまでも「聖書に書いてあるとおり」のことが実現したのだ、という確信でありましょう。あの時、もし人々の主イエスに対する誤解や策略さえなければ防げた事件だった、というようなことでもない。神が初めから計画し、お望みになり、起こされた御業であった。なぜなら神は、私たち人間を愛しておられるからです。神の恵みによるもの以外、何ものでもないのです。
私たちは、自分が救われなければならないほど、深刻な罪の虜になっているという現実に、ほとんど気づけないのかもしれません。もし気づき得たとしても、その縄目から抜け出す術も道も知らない。しかし神は、私たちよりも先回りしてくださった。そして私たちの身代わりとなって犠牲になってくださるキリストを十字架につけることで、救いの道を開いてくださいました。私たちの外側で、私たちのための出来事が起こったのです。これは人間にとって、まことに有難いことです。
パウロが訴える最も大切なこと、すなわち福音の中心にある十字架の出来事は、しかし死だけでは終わりません。その闇のどん底を突き破る光の出来事が、その後に起こったからです。「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」キリストの姿に、パウロはこの後5節から8節にかけて迫ります。
その甦りのキリストが、いったいどんな人々の前に現れたのか。ケファ(ペトロ)、十二弟子、五百人以上の兄弟たち、さらには主イエスの弟・ヤコブと全ての使徒たち、「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたし」、すなわちパウロ自身の前にも、復活のキリストが現れてくださったことを述べます。これはあの、ダマスコ途上でのパウロ(サウロ)の回心の出来事を指しているに違いありません(使徒9:1~19)。
しかしここで一つ、立ちどまって考えてみたいことがあります。復活のキリストが現れてくださったのは、本当にパウロが「最後」だったのかということです。この「最後」という言葉に、パウロはどんな意味を込めたのだろうか。最後の最後、いよいよあと一人というところで、キリストはこの自分にこそ現れてくださった、その特別な栄誉を誇っているのでしょうか。
もちろん、そうではないでしょう。この「最後」は、時間的な意味での最後というよりは、主の憐れみによって選んで頂いた神の家族の末席、本当にその資格があったかどうかは全く疑わしいけれども、ともかく主の眼差しに捕えられて最後列に加えて頂いた、その感謝と畏れを謙虚に表現した言葉ではないでしょうか。キリストを拒み、教会を迫害していたこんな私にさえ、主は現れてくださった!
その意味では、ここで最初に名前が挙がっていたケファ(ペトロ)も、実は同じだったと言ってよいでしょう。ペトロの前に主が最初に現れてくださったのは、彼が筆頭弟子だったからでしょうか。主の家族とされるだけの十分な素質や資格があったからでしょうか。思い返してみれば、ペトロは主イエスが十字架にかけられる直前、自分も捕えられるのではないかと恐れをなして、三度も知らないと言い放って逃げ出した人物です。死んでも従つと、あれだけ力強く誓っていたにもかかわらず、です。
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主なるキリストを前にして、私たちもまた同じだと言わざるを得ません。私たちも、最後列に連なる者です。救いの資格が自分の側にあって、堂々と神の家族の一員となっているのではないのです。キリストが私を探し出し、選び、招いてくださった。値無き者を、値ある尊い存在として見つめてくださっている。そのキリストの恵みの中にこそ、私たちは己の本当の姿を見出すのです。
こうして、どこまでも自分の外側で起こったはず救いの出来事が、しかし、他ならぬ自分のためであったと受けとめられる時、福音は初めて福音として実を結びます。「信じたこと自体が、無駄に」なることなく、私たちの足元を支える土台となります。復活の主が、この私たち一人一人にも現れてくださるからです。
この関連で、最後に、今年99周年を迎える私たちの教会の歴史を紐解きながら、ある一人の先達の信仰の姿に学びたいと思います。「思出の時」という小冊子が教会にありますけれども、これは、かつて私たちの教会を40年近く牧会して来られた故・和田正先生の追悼文集です。そこから、二人の文章をご紹介します。
一つは、故人の遺言によって葬儀の際に式辞を述べられた李仁夏先生(当時、在日大韓基督教会川崎教会牧師)の、次のような言葉です。「和田先生が語るお言葉と、また命をかけて生きて来られた唯一の出来事、それは、正にイエス・キリストの十字架の福音であります。その証人としての和田先生を、この場を借りて追憶をさせていただきたいと思います。…和田先生が身をもって厳しく生きて来られた、あの十字架の福音の証言に耳を傾け、もう一度十字架を負い給うた主イエス・キリストを仰ぎみることによって神に御栄えを帰し、私どもも和田先生に見習って、主の十字架の御後に服従の生涯をそれぞれ全うしたいと思います」。
そう述べつつ、次の聖句が躊躇なく引用されるのです。「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである」(Ⅰコリント2:1~2、口語訳)。
十字架につけられたキリスト以外、自分は何も知るまい。今日の第15章の手紙に記された「最も大切なこと」とは、まさにパウロのこの言葉と相通じるものであったことをあらためて教えられます。このパウロのこの固い決意に、和田先生の姿が重ね合わされているのは明らかです。そしてキリストの十字架を前にした時にこそ、人間・和田正の真実なる姿が最も鮮明に立ち現れるということが言外に語られているようにも聞こえます。問題は、どこまでも人間の外側で起こったはずの十字架の出来事が、なぜそこまで和田先生を真剣にさせたか、ということです。
そこで二つ目にご紹介したいのは、和田先生の義理の息子さん(娘婿)の文章です。「1985年の『共助』(という雑誌)…で故人は語っているが、そこに故人が『最も大事なこととして』いたと思われることが語られている。祈りということであるが、それは故人が自ら見出したり、身につけたことではなく、故人『自身も受けたことであった』(Ⅰコリント15:3)」。
このように故人を追憶しながら、和田先生が生前に大切にされたある言葉が続いて引用されます。「私たちは何かするとき、まず伝道の方法を考えようとする。あるいは相手のようすを知るとか、人に働きかける方をすぐ先にする。(中略)人ではない。まず、私のうちに主御自身によって伝道のわざが起こらねばならなかった。祈りにおける主御自身との交わりの中に、まず私自身が準備されねばならなかった」。
そしてこれに重ねて、再び故人の言葉が紹介されるのです。「私は若い日からずっとこの事を教えられて来たのです。それにも拘らず、この最も大事な、最も基本的な事に於て、むしろ以前よりも駄目になって来ているのではないか。誠に申し訳なく思います」。ここで、何が「以前よりも駄目に」なったか。それは、「祈りの中に聖書を通し、どんなに神の聖言を聴き、それに沈潜し、それにのみ従おうとするか」ということだと言われます。
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私は、この和田先生の姿を通して、「以前よりも駄目に」なって来たご自分に憂いつつ、主の御前に深く悔い改めようとする誠実さを感じずにはおられません。今日の言葉で言えば、「信じたこと自体が、無駄になってしまう」ことへの深い反省でもありましょう。
そうした揺れ動きの中で、しかし和田先生が、周囲の者に対して最後まで、「命をかけて生きて来られた唯一の出来事、それは、正にイエス・キリストの十字架の福音」であり続けたことを確信させたのは、何ゆえだったからでしょうか。それは、福音伝道者として、自分が何をどう上手に相手に伝えるか、ということ以上に、「まず、私のうちに主御自身によって伝道のわざが起こ」ることを切に祈り求めたということではなかったでしょうか。
要するに、「何を為すか」にも勝って、自分が「如何に在るか」を追求した。そしてそのために、再び今日のパウロの言葉で言えば、まず自分が「受けたもの」が何であったか。あり続けるか。これを祈りの中で必死に求め、神の聖なる言葉から示されることを静かに待ちながら、何度も復活の主の御前で立ち上がっては、従い続ける。
ここに、受けて、伝える者としての真実なる歩みが映し出され、私たちを励ましてくれているように思えてなりません。この先達の信仰の歩みに連なりながら、私たちも主の祝宴の末席にこそ繋がる大いなる喜びを、これからも噛みしめ、また分かち合う者とされることを願ってやみません。
<祈り>
天の父よ。今日の御言葉を感謝します。私たちの信仰もまた、コリントの教会と同じく、まことに弱く、脆く、いつでも身勝手で独りよがりなものに陥ってしまいます。しかしどうか、信じたことが無駄になることがないように、否、信じたことが無駄になることなど決してないあなたからの大いなる恵みの中で、私たちを励まし続けてください。日々祈り求める中で忍耐する力が養われ、復活のキリストが私たちを呼び起こしてくださる喜びに生き続けることができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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