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「信仰のたたかい」

2022年5月15日 主日礼拝説教(復活節第5主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 申命記13:2~6
新約聖書 コリントの信徒への手紙一5:9~13

            

おそらく多くの人が親しみをもって聞く、主イエスの譬え話の一つに、「一匹の迷い出た羊」の譬えがあります。百匹の羊の群れから一匹が外に迷い出てしまった。羊飼いは、このたった一匹の羊を捜し出すために、九十九匹の羊を残してでもずっと捜し回る。そして見つけた曉には、この尊い一匹を抱き上げて大いに喜ぶ。そんな、主イエスがどんなお方であるかを示す、愛に満ちた救いの譬えです。

しかし、これを記したマタイによる福音書18章において、この譬え話のすぐ後に続いて、主イエスがどんなお話をされたかご存知でしょうか。それは、ある兄弟が罪を犯した場合、その兄弟を繰り返し忠告するようにとの戒めです。罪を犯した人の所に、まず一人が行って忠告する。もし聞き入れられなければ、他にもう一人か二人連れ立って、忠告する。それでも上手くいかない場合は、教会に申し出なさい。それでもやはり駄目なら、もうその人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。つまり罪人と同じように扱い、裁きなさい、というのです。

一人の失われた仲間をめぐる、「救い」と「裁き」の話が続けて語られています。いったいどっちなのか。矛盾するのではないか。主イエスの真心はどこにあるのか。けれども、主イエスにとっては、この二つは何ら矛盾するものではなかったはずです。一人の命が、本当に救われるためには何が必要なのか。それは主イエスからの、赦しという招きである。しかしまた、主イエスの真の裁きも必要だ。それによって私たち人間の悔い改めが求められている。

救いと裁き。あるいは、赦しと悔い改め。この二つは、言ってみれば、一枚のコインの裏表のような関係だと言えるでしょう。


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本日与えられました、コリントの信徒への手紙一の言葉。今朝は先週の続きで、第9節からお読みしました。前回も今回も、パウロの厳しい言葉が続いています。コリントの教会の中で、性をめぐる「みだらな行い」(1節)を犯してしまった者がいることを耳にした。その男に対して、パウロは今、はっきりと裁いているのです。裁かずにはおられなかった。否、教会の群れから除外したとまで言う。

これを書いたパウロは、どんな気持ちだったでしょうか。しかし私は思うのです。パウロはこの時、激しい言葉を並べて、裁いてはいるけれども、裁くことそのものが最終目的ではなかったはずだ。パウロの心は、先ほどの主イエスのお心と全く一つではなかったか。裁きと赦しが一つになって、やはり救いを語っているに違いない。パウロは自分の言葉を通して、そうした主の御心をよく伝えているのではないか。そう思わされるのです。

そのようにして見ます時、この手紙で一つハッとさせられることがあります。前回述べたことですが、それはパウロがここで、「みだらな行い」を犯した張本人を裁きながらも、しかし本当に裁こうとしたのは、実はコリントの教会全体に対してであったという点です。そんな彼らを批判して、パウロは2節でこう言いました。「あなたがたは高ぶっているのか」。悲しむどころか、「高ぶっている」と。

高ぶる。神の御前で己の姿を顧みることなく、神が望んでおられる新しい姿に向かって変えられることもなければ、変わることすらも望んでいない、ただ古い姿の自分のままで居座っている、そんな、神の目から見た傲り高ぶりの姿です。その結果、彼らは自分たちの教会の群れに今、罪を犯した人がいるにもかかわらず、裁くことをせずに放置している。裁きがもつ本当の力に生きていない。そんな彼らの教会共同体のあり様を裁いているのです。戒めるのです。教会としてのあるべき姿に引き戻そうと正すのです。

つまり、パウロがここで強調するのは、一言で申すなら、個人の罪の問題を、教会共同体という全体の責任として見るということです。いわゆる自己責任論で終わらせない。余計なお節介とか、プライバシーの侵害等と言われようとも、一人の闇の問題を、教会全体で受けとめる。そこに関わってゆく。そして本人が見失っているキリストの力ある赦しの恵みを、仲間である教会の人々こそが指し示す。それができないなら、もはや教会は教会でなくなってしまう。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ」(12:26)。それが教会の姿だと。


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ある一人の仲間が抱える罪の問題、その根深い闇の問題を、教会がどんな眼差しで見つめるのか、また関わるのか、という課題は、実はそのまま、その教会の生命線にまで直結する課題だと言えます。だからこそ、パウロは真剣そのものだった。だから一歩も引かない。妥協もしない。そしてまた、だからこそコリントの教会の人々に、繰り返しこう戒めるのです。その人を、教会の群れから除外せよと。取り除きなさいと。

たった一人の仲間をどう見つめ、またどう関わるかという問題は、そのまま教会の生命線に繋がる事柄だと申しました。しかしパウロが示した教会に対する結論は、罪人を取り除きなさい。その人の中にある罪だけを取り除け、ではありません。罪を犯したその人自身を、まるごと群れから取り除きなさい。関わると言いながら、縁を切る話なのか。矛盾ではないか。「パウロ先生、それはいくら何でも厳しすぎるのではないですか」と、口を挟みたくもなります。

しかし逆に言えば、これはパウロにとって、何か決定的な根拠や確信が無ければ、決して言い切れるような生半可な言葉ではなかったはずではないでしょうか。私たちはそこに着目したいのです。


そこで、今日は第9節からお読みしました。ここに至るまでのパウロの論調は、この先も変わることはありません。彼はこう続けました。「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きました」。どうもパウロは以前にも、今のこの手紙に先立って、既に一通か、あるいは何通かの手紙をコリントの教会に書き送っていたことが分かります。そこで何を伝えていたのか。「みだらな者と交際してはいけない」。

淫らな行いをした者を、群れから「取り除きなさい」と戒めてきたパウロの言葉は、ここでもっと具体的に、そうした者とは「交際してはいけない」のだという戒めと深く結びつくことになります。除外するとは、何も力ずくで、無理矢理外に連れ出すことではない。交際をしない。一切つき合わない。中途半端に関わらない、ということでもあるのです。

ただし、ここに一つ誤解があった。それが10節以降の言葉です。「その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」。

パウロがつき合うなと言ったのは、この世の世間一般の人のことではない。教会の内部の人々のことである。教会の中で罪を犯している兄弟姉妹たちのことだ。これを明らかにしようとしたのが11節です。「わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです」。


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ここで明らかなように、パウロは教会の内側と外側をはっきりと区別します。キリスト者であるか、ないかを明確に分ける。そして分けながら、さらに12節でこう主張するのです。「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」。

私たちは、自分の家族や身内、親しい友人たちがクリスチャンではないという現実を、祈りをもって生きています。しかし、教会の外の人のことは全くどうでもよいとパウロは思っているのだろうか。確かに彼は、続く13節で「外部の人々は神がお裁きになります」と言いながら、外の人々を自分たちの領域から神の領域へと手放します。けれどもそれは、自分たちは何もしない、ということなのか。関心すら持たず、伝道して教会に招くことなんかも、しなくてよいということなのだろうか。

そんははずはありません。教会が内と外を区別するのは、外の人を切り離すためではありません。ましてや、教会の自己保身的な目的からでもありません。まさに世の人を愛し、招くためだからです。この世に向けて、私たち人間同士の真実なる関わりがどのようなものであるかを示し、そこへと招くことが、教会の使命だからです。もしも教会が世界から離れてしまうならば、そこにあるのはただ、世に対する無関心か、憎悪でしかないでしょう。

教会という船は、この世という海を離れては航海などできません。しかしそこで大切なのは、船は海に浮かんでこそ意味があるということです。浮かんでこそ世の光ともなる。教会という船は、真実なる教会として世に光を放ち続けることで、世は神と出会うのです。

しかしだからこそ、教会の内側に穴があってはならないのです。中に水が漏れて、船ごと沈むことがあってはならない。私たちにはすべきことがある。この罪という穴をどうにかしなければならない。この穴に、パウロがどれだけ心を痛めていたかを思えば、あらためて12節の言葉が染み渡ります。「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」。


こうして、パウロの眼差しは自ずと、教会の内部へと研ぎ澄まされてゆきます。内に温存されている罪を放置してはならない。その罪とは、淫らな行いに留まりません。「強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」。まるで罪の徳目リストがズラリと並べられているようです。

これらを今、一つ一つ細かく見る暇はありません。しかしここに共通する問題は、いずれもその人自身を幸福にするものではない、ということです。もし罪を犯さずにはおられなかった背景に、何か傷や怒り、飢え渇きや空しさ、あるいは後悔の念といった思いを、内に抱え込んでいるならば、そこにこそ目を向けるべきでしょう。偶像とか、物欲とか、人の悪口とか、そうしたものに依存しなくても済む平安や喜びに、生ききることのできない私たちの弱さ。ここに私たちの哀しみがあります。


けれども、本当に哀しむべきは、そうした闇に陥っている信仰の友に対して、正しく裁くことができないでいる、教会としての弱さです。否、高ぶりです。あるいは、寛容という名のもとでその人を見放し、その人が見るべき本当の姿を共に望み、待ち、見ようともしない愚かさなのです。そして結局は、私たちはそこで、何とも生ぬるい関わりしか持てない。だからパウロはあえて断言するのです。「みだらな者と交際してはいけない」(9節)。「そのような人とは一緒に食事もするな」(11節)。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」(13節)。

なぜつき合ってはいけないのでしょうか。罪を犯したままの者と繋がることで、自らも罪に染まるからでしょうか。しかしパウロにそんな恐れはありません。そうではなく、そうした者との中途半端なつき合いは、教会の聖なる交わりとは似て非なるものだからです。この世的な生半可な温情は、あの使徒信条で唱える「聖徒の交わり」を脅かし、教会における真の交わり・コイノーニアを壊してさえしまうものだからです。

では、そこで守られようとしている教会の清さとは何でしょうか。教会は、いかなる意味でこの世に対して存続の意義を示し、自らの光を放つことができるのか。この世に立ちつつも、この世にはなき、聖なる教会の交わりとはいったい何であろうか。

その時、私たちはキリストを見失うことがあってはなりません。特に、既にパウロが第一章18節で、「十字架の言葉」と言い表していた言葉を思い起こします。これに耳を傾けることが極めて大切だと思うのです。「十字架の言葉」。「十字架からの言葉」と理解し直しても良いでしょう。さらには、今の第五章の言葉で言えば、7節の「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」、その言葉の真実がもたらす力であります。


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私たちは今、十字架の言葉に生きることができているでしょうか。キリストの十字架の真実に、本当に立つことができているでしょうか。十字架の真実。それは、キリストが自ら小羊として屠られてくださったその尊い犠牲によって、この自分が罪の赦しに生かされている、ということです。その恵みに生かされる喜びを生きている、ということです。そして、だからこそまたその恵みによって、お互いの罪に対しても向き合い、諭し合い、御前に進み出る悔い改めを促し、共に赦しの光の中を歩むという、主にある兄弟姉妹の姿が、そこで形造られてゆくことにも他なりません。

しかし私たちには、恐れがあります。人をそのように裁くこと等できない。そんな厳しいことをしていたら、あの人もこの人も皆、教会に来なくなる。そんな恐れや反発が絶えず先立つのであります。だから私たちは究極的に、人の罪を断罪する裁判官にはなれません。自らも罪人である以上、なれるはずがないのです。けれどもだからこそ、そこに真心からの畏れが生まれます。

いったい誰が、人を正しく裁けるのでしょうか。また裁くことで、誰が正しくその人を生かすことができるのでしょうか。真実をもって人を裁き、罪という闇から救い出して霊の息を吸わせてくださるお方はただお一人。キリストを置いて、他にはいません。私たちの誰も、キリストに代わることはできません。私たちと同じ罪人となって、あの十字架の出来事を成し遂げてくださったキリストこそ、真の裁き主であります。

そのキリストの体なる教会は、この裁きを自らの「鍵の務め」として果たすよう、主から委ねられて歩む共同体です。鍵の務め。天の国の扉を開くための鍵です。しかしこの裁きという鍵は、どこまでもキリストがその持ち主であります。私たち教会は、ただその鍵を託され、握らされているにすぎません。好き勝手に別の扉を開こうとしてはなりません。そもそも開くこともできません。私たちはただこの鍵を用いて、人をキリストのもとに導くだけです。キリストの真の裁きに導くだけです。神の国、神の家族としての交わりを、そこで回復するためです。


私たちは先週から、再びこの会堂に集まって礼拝ができるようになりました。しかしこの礼拝こそが、実はキリストによる真の裁きの場に他なりません。神の言葉を聴きながら、十字架の言葉の真実、すなわち、キリストによる裁きの真実に撃ち抜かれるのであります。高ぶりが打ち砕かれるのです。今なお古いままの自分の姿に居座り、変わらぬこの自分が御前に連れ戻され、新しくされるのです。

そこに私たちの悔い改めが起こされるならば、その裁きは、既に私たちを滅ぼすものではなく、生かすものです。そこに新しい力が与えられるならば、私たちは既にキリストに赦されているのです、否、実にキリストの裁きは、恵みの裁きなのです。キリスト共にある平安と勇気をもたらす、赦しの裁きに他なりません。

その時、この礼拝という裁きの場は、私たちの真の立ち上がりの原点ともなります。共に喜び、祝う場となるのです。そしてここに、誰一人欠けることなく呼び戻され、集まれるよう、私たちは今日、裁きという鍵さえも与えられながら、大切な友のもとへと遣わされるのです。ここに、聖徒の交わりが生き生きと回復してゆく道筋が開かれます。私たち教会は、どこまでも主の赦しと裁きの光の中で世の光となるのです。

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