2022年1月30日 主日礼拝説教(誕降節第6主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 ホセア書11:1~11
新約聖書 コリントの信徒への手紙一3:1~9
*
日本の代表的なキリスト者の一人である内村鑑三は、かつて札幌農学校の生徒であった頃に、聖書の福音に触れて洗礼を受けました。その彼も、もちろん最初からキリストの福音のことが良く理解できていた訳ではなかったようです。転機となったのは、その後アメリカの大学に渡って学んでいた時。シーリーという先生が、内村の信仰の悩みを見ながら、次のように語ったからだと言われます。
「内村君、君は自分の心の内ばかり見るからいけない。君は外を見なければいけないのだ。なぜ自分を顧みることを止めて、十字架の上に、君の罪を贖いたもうイエスを仰ぎ見ないのか。君のなすところは、子どもが植木を鉢に植えて、その成長を確かめようとして、毎日その根を抜いて見るのと、同然である。何ゆえにこれを神と日の光とに委ねて、安心して君の成長を待たぬのか」。
内村はこの言葉を聞いて、「自分の魂は目覚めた」と書き残しています。「君のなすところは、子どもが植木を鉢に植えて、その成長を確かめようとして、毎日その根を抜いて見るのと、同然である」。自分の姿が気になって仕方のない内村の姿。寝ても覚めても自分自身に囚われ続けていた彼の生身の姿が、この表現によって浮き彫りにされています。
いったい、信仰の成長とは何でしょうか。それはこの場合、まさに、自分自身への囚われから解き放たれることではないでしょうか。それも、自分の力によってではなく、十字架のキリストを仰ぎ見ることによって。そしてその十字架からの言葉をよく聴きとることによってなのであります。
**
信仰の成長。今日、私たちに与えられました手紙を読みますと、パウロはどうも、ここで「信仰の成長」というものをテーマにしているようです。私たちも知っていますように、成長には、幾つかの段階と申しますか、その時々に特徴的な姿というものがあります。その姿について、パウロは今日の箇所の最初で、まず「霊の人」という表現を用いました。
この言葉は、前回の第2章15節で既に出てきました。霊の人。つまり、「神の秘められた計画」(2:1)や「隠されていた、神秘としての神の知恵」(2:7)を、その深みまで究めることのできる、霊の賜物を与えられた人のことを言います。それは言い換えれば、「キリストの思いを抱いて」(2:16)いる人のことでもあります。逆に言うなら、キリストの思いなしには、神の思いを知ることはできない。この真実に生きる者が「霊の人」です。
ところが、この「霊の人」に対して、パウロは今日のところで、「肉の人」、「乳飲み子」、あるいは「ただの人」という言葉まで用いています。そう表現しながら、コリントの教会の人々に、本当の「信仰の成長」とは何かについて、強く、厳しく説いているのです。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。」(1-2節)。
この手紙を読んだコリントの人々は、どんな思いで聞いていただろうと思い巡らします。パウロ先生にこう言われた。あなたたちは大人ではありませんね。まるで乳飲み子のようです。まだ固い物が食べられず、お乳しか飲めない。今もそうです。相変わらずですね。…そのように突き放された。否、馬鹿にされた。頭にカチンと来たのではないかと思うのです。
むしろ、彼らはそれまで自分たちは立派な大人であると、ずっと誇りをもっていたのではなかったでしょうか。コリントという町はギリシアにありました。当時の文化の都であり、哲学が盛んに生まれるほど、知的な風土に溢れていました。そういう土地柄に立てられた教会であり、その教会の中に、やはり知性に富んだ、それも、霊的な知性に富んだ人々も少なからず集まっていたのです。だから、自分たちは決して乳飲み子などではなく、大人だ。それも、霊的な次元においても深い知性を持ち合わせている立派な大人だ。そんな自負心があったに違いないのです。
***
けれどもパウロは、そんな彼らの自負心を打ち砕くようにして、「否、あなたたちは相変わらず乳飲み子だ、肉の人だ、ただの人だ」と言わざるを得なかったのです。パウロという人は、どうしても言わなければならない事は遠慮なく、大胆に話すことができた人です。だから誤解されることも多かったでしょう。しかしパウロには真実が見えていました。神が開き示してくださっている真実の中を生きた人です。
ではいったい、コリントの人々の何が問題だったのでしょうか。確かに彼らは、彼らが自負するように、決して霊的な事柄について無関心だったわけではありません。それどころか、この先の第12章以下を読みますと、彼らは熱心に霊的な賜物を求めていたことが分かります。例えば、コリントの教会には、異言や預言を語る人、奇跡を行う人、さらには病気を癒す人までいたのです。にもかかわらず、パウロはこの人々のことを、「霊の人」とは呼ばないのです。
「霊の人」の対極にあるのは「肉の人」です。そこで、この「霊」と「肉」について、あらためて聖書が教えてくれていることは何でしょうか。私たちは、例えば「肉の思い」等と言うように、「肉」というのは、自分の中の汚れた思いや悪しき思い、肉欲、つまり邪悪な部分を指すのに対して、「霊」は、逆に自分の中の清らかな部分、肉欲に染まっていない純粋さや崇高さのようなイメージを思い浮かべるかもしれません。
けれども人間は、そのように自分の姿を簡単に分けることができない、一つの存在です。自分の中の肉なる部分、聖なる部分という風に、確かに私たちは、あれこれ自己分析できるようにも思えます。しかし、そのように自分自身で己の姿を把握しながら、嘆いたり、誇ったりしている内は、実はその姿自体がまるごと「肉の人」だと聖書は教えるのです。
なぜなら、あのかつての内村のように、自分で自分の心の内側を覗き込んでばかりいるからです。自分で自分の成長を確かめようとして、毎日植木の根っこを抜き続けているからです。「肉の人」とは、つまり、キリストの十字架の贖いの御業を知りながらも、その前を素通りして、どこまでも自分の力に拠り頼んだままの「私」であり続けようとする姿です。しかし「霊の人」は違います。自分がどんな状況に置かれても、たとえどんなに錯乱したような焦りや虚しさ、また哀しみに襲われたとしても、そこで十字架のキリストを仰ぎ見て、そのはかり知れない赦しの恵みによって「神のもの」となった「私」、そこで初めて出会うことになる、神のものとして頂いた新しい「私」の姿なのです。
そのような眼差しで見つめた時、コリントの人々は、やはり霊の域には達していなかった、否、どこまでも「肉」の域に留まっていた、と言わざるを得なかったのです。それはつまり、キリストの思いに生きてはいなかった、ということに尽きます。彼らの関心は、キリストの十字架ではなかった。では、どこに関心が向いていたのか。それは「自分自身」に他なりません。その明らかな証拠は、彼らが教会の中で互いに妬んだり、争っている所に現れてくる。
だからパウロはこう言うのです。「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(3-4節)。
****
ここでパウロが語り、またこれまで何度も触れて来ましたように、コリントの教会の中には争いがありました。しかも、つまらない事ではなく、事もあろうに、キリストの福音理解を巡って、互いに党派を作りながら睨み合っていたのです。そのことが再び、ここで言われます。「わたしはパウロにつく」。「わたしはアポロに」。
しかし、こういうものの言い方の背後にあるものを見つめると、実はこれは、パウロの福音理解とアポロの福音理解のどちらがより正しいか? どちらがより説得的で立派か? という争いのように見えて、しかし結局は、どちらがより優れた指導者として、自分を立派な人間にしてくれるか、という自分自身への関心に行き着くのではないでしょうか。そこでの関心は、十字架のキリストの苦しみにではなく、自分自身の喜びと成長に向けられるのです。そして、だからこそ自分を軸にする限り、そこに他者との比較が出てきます。競争も生まれる。そして妬みや恨みまでもが、沸々と湧き起こって来ます。
いったい「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」(5節)。パウロは自分自身を含めて、そう問わざるを得ませんでした。否、そこで彼はすぐ心の中でこう返したでしょう。自分は何者でもない。アポロだって何者でもない。そう返しながら、「この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者」にすぎないと言います。そして続けて、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」だけだと言います(6節)。
いくらパウロが優秀で知性に富んでいても、それはただ種蒔きをしただけだ。苗を植えたまでのことだ。アポロだって、いくら雄弁でも、ただそこに水を注ぐことことができるだけだった。実際に信仰の苗を育て、実らせることができるお方は神。ただこの神以外には絶対に存在しないのだ。神は、パウロやアポロと肩を並べながら相対することのできるお方ではなく、まさに比較を超え、優劣を超えて、文字通り、対を絶する仕方で存在するお方なのです。「成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6~7節)。
いったい、信仰の成長とは何でしょうか。「信仰の成長」と一言で言っても、これは私たちが植物を観察するように、信仰とはどのように成長するのか、という類の観察日記のような話ではありません。そうではなく、私たちが信仰という賜物を与えられ、人として豊かに成長するとは、はたしてどういう現実を意味するのか。そのことが問われるのです。
その意味で、パウロは最後にとても大切なことを教えてくれます。パウロはここで、「植える」とか「水を注ぐ」という言葉を用いて、信仰の成長を、畑で作物を育てることに喩えています。苗を植えたのはパウロ、水を注いだのはアポロ。そのように二人で力を一つに合わせて神様のために働いた。ではこの時、コリントの教会の人々はどのように喩えられたのでしょうか。パウロはこう言いました。「あなたがたは神の畑」なのだと(9節)。
これは私たちも含めて、教会の信仰に連なって生きる人たちは皆、神様の「畑」だと言われているということです。これは少し不思議に思えるかもしれません。普通であれば、信仰者というのは、パウロが植えた苗や作物のことだと思うでしょう。そのように自分たちは作物として植えられ、水を注がれ、育てられ、豊かな作物となっていく。それが信仰の成長、あるいは信仰者の成長だと考えます。
けれども、ここではそうではないのです。「あなたがたは神の畑」と語られる。蒔かれる種は御言葉である。そこで植えられる苗も、そこで実りと共に育つ作物も、実は私たちではなく、御言葉である。私たちという畑の中で、御言葉が実を結ぶというのです。芽を出し、豊かな実を結ぶ作物は、私たち自身ではない。私たちという畑で、それはつまり、私たちのこの身体、存在、生涯の歩みの中で、御言葉そのものが実を結んでゆく、ということが言われているのです。そのように、神の御言葉が自分の生き様の中で、豊かな実りとして見えてくる時、味わえる時、既にそこには、私たちの信仰の成長、霊的成長が実現しているのです。
*****
そうすると、パウロが私たちのことを「神の建物」とも呼んでいた理由も、今のことに関連して理解することができるでしょう。建物という言葉で示されているのは、一人一人のことではありません。この建物は、教会を意味するからです。一人一人が、建物のように立派に、高く、頑丈に成長するというのではなく、神が、ご自身の教会へと私たちを呼び集めてくださる時に見えてくる私たちの姿が、ここでは描かれています。その時、ここに集う私たち一人一人は全体ではなく、あくまでも部分でしかありません。目立つ所に位置する部分もあれば、全く小さく目立たない部分もあるでしょう。
けれども、そうやって一人一人が神の恵みの中に招かれ、結ばれて、互いに仕え合っていくところにこそ、一つの建物ができあがる。教会が生き生きと形造られてゆく。そこに現れてくるのは、個人の成長や完成ではなく、教会という共同体の成長と完成です。ただの建物であるはずの教会が、この世にあってキリストの体として光を放ち、地の塩となるのです。
そのように、私たちはこの自分という存在が、低くされ、小さくされ、部分となっていく。私のための教会が、教会のための私となってゆく。私のためのキリストが、キリストのため私とされてゆく。自分のための他者が、隣人のための自分に変えられてゆく。しかしそれは決して、自分が惨めになるとか、自分が自分でなくなるということではありません。強いられて嫌々そうなるのでもありません。
なぜなら、キリストがそこで、私たちを共に力を合わせて働く者としてくださるからです。否、十字架上で裂かれた体から流されるその血が、私たちの思い上がりを打ち砕き、そこでこそ、「自分自身への囚われ」から解き放ってくれるからです。私たちも、依然として肉の人に留まっているかもしれません。信仰を与えられながら、今なお、よちよち歩きしかできない乳飲み子なのかもしれません。けれども、ただの乳飲み子ではありません。どこまでも、キリストとの関係にある乳飲み子、キリストの恵みの中で育まれ続ける乳飲み子なのです。ここに、私たちが自らの新しい姿、真の姿に出会うことのできる道が開かれます。キリストによって、キリストの思いと共に、肉の人から霊の人へと成長させて頂く歩みが始まるのです。共に御言葉の実りを喜ぶために。
Kommentarer