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「全体の益となる霊的な賜物」

2023年3月12日 主日礼拝説教(受難節第3主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 エゼキエル書11:17~20
新約聖書 コリントの信徒への手紙一12:4~11 

            

昨日は、7回目を数える「しらゆりの会」が教会で行われました。秋に始まったこの会は、寒い冬をまたいで春を迎えています。そしてこの季節に因んで、昨日は桜餅が準備されて、皆で頂きました。それはそれは美味しく頂きました。ご馳走様。しかし私は自慢話をしたいのではありません。あるいは、「しらゆりの会に来れば、美味しいおやつが出ますよ」といった具合に、安易なお誘いをしたかったわけでもありません。

ましてや昨日は3月11日。あの大震災から12年の歳月を数える大切な日と重なっていました。そして忘れてはならないのは、今が受難節だということです。犠牲となった多くの人々の命、そして十字架にかかって死んでくださったキリストの命の尊さを思うこの時、浮かれて良いのかという思いが脳裏をかすめます。禁欲や抑制ムードが漂う。私は、一方でそんな葛藤も抱いていました。

しかし今日の説教のための黙想も併せてするような時間を過ごす中で、次第にこんな風に考えるようになりました。いったい、キリストのご受難を思い起こしながら過ごすとはどういうことだろうか。それはただ漠然と禁欲を守るとか、何もしないでいる、ということなのだろうか。キリストのご受難を思う。それは、なぜキリストがそこまで命を懸けて十字架にかかってくださったのか、その意味を問い続け、受けとめること。そして、あのご受難を通して私たちに与えられたキリストの命に、今私たちが本当に生かされ、また生きようとしているかどうか、点検し直すことではないのか。

そう思えた時に、今日の与えられた一つの御言葉が重なって響いて参りました。「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(Ⅰコリント12:7)。キリストの命に生きるということ。その一つの確かな姿は、私たちがイエス様を主と信じながら、さらに各々に与えられた霊の賜物を、全体の益となるために用いてゆくことではないだろうか。

昨日美味しく頂いた桜餅。ここには、これを準備してくださった方々のご奉仕があったことを忘れるわけにはいきません。その前日、実は幾つかのお店で買ったものを食べ比べしてくださった。そして味や見た目、食べやすさや価格等を総合的に判断して、ある一つのものに定めてくださっていたのです。私はこれを当日初めて伺って、とても嬉しく思いました。ただ美味しいものを食べることができたからではありません。ここに、奉仕者たちの様々な献げものをする隠れた姿が見え始めたからです。

まず時間を献げた。そしてここ松本で長く暮らす中で身に付けて来られた経験や知識を、惜しみなく献げてくださった。何より教会のために奉仕の心を献げくださった。そのようにして、各々の賜物を献げてくださった。それを自分の内に留めるのではなく、まさに「全体の益となるために」、喜んでお献げくださっていたのです。そしてこれを受ける私たちも、共に喜びに包まれました。


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本日は4節から読み始めました。前回から少し間が空きましたが、この第12章全体は、小見出しにもありますように、「霊的な賜物」について書かれていることが分かります。前回の1~3節で言われていたことは、コリントの教会の人々に対して、あなたがたには霊の賜物(カリスマ)がある。そのカリスマによって、皆が共通して、「イエスは主である」と告白することができる、ということでした。

そしてこの告白ができるのは、あなたたちの力によるのではなく、聖霊の賜物がもたらす恵みだ。この霊の恵みを受けていながら、「イエスは神から見捨てられよ」等と言う人は誰もいなし、本物の霊の賜物を受けたならば、皆が皆「イエスは主である」、イエス様は我が救い主、私の命の主であると告白することができるはずだ。そういうことが言われていました。

今日の4節以降は、そこから先の話です。「イエスが主である」と告白する共通の基盤に立ちながら、さらに教会を造り上げてゆくために、あなたたちには様々な霊の賜物が与えられている。これは本当に色々だ。そう言って、パウロは「賜物にはいろいろ」(4節)、「務めにはいろいろ」(5節)、そして「働きにはいろいろ」(6節)あるのだと述べていきます。

ここで注目したいのは、同じ一つの霊、同じ神から与えられる賜物が色々あるという時に、それが「務め」とか「働き」と言い換えられていることです。霊の賜物というのは、決して目には見えない、何か抽象的なもの等ではなく、必ず目に見える形で、特に人の務めや働きという形で表れてくるものだ、ということです。

だからパウロは、その具体的なものとして、8節以下で例示していきます。列挙しますと、ある人には「知恵の言葉」や「知識の言葉」が与えられる。またある人には「信仰」や「病気をいやす力」、「奇跡を行う力」、「預言する力」、「霊を見分ける力」が与えられる。さらにある人には、「種々の異言を語る力」やその「異言を解釈する力」というものが与えられている。

ここに挙げられる霊的な賜物は、もしかしたら私たちには馴染みが薄いものばかりかもしれません。けれども、パウロとコリントの教会の人々の間では、すぐに了解し合えるものだったに違いありません。問題は、なぜパウロが今ここに、幾つもの働きや務めとしての霊的な賜物を挙げているのかということです。ただ何の問題意識もなく羅列しているだけなのだろうか。


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もちろん、そんなはずがありません。既に私たちは繰り返し確認してきましたように、コリントの教会には問題が山積みしていた。そもそもパウロがこの手紙を書くことになったのも、この教会の再生を切に願ったからです。教会が教会としてしっかり建て上げられてゆくために、何が問題か。必要か。そのようなパウロの使徒としての宣教の課題がありました。それを下敷きにして見る時に、コリントの教会の中に見られる様々な霊的な賜物には、やはり問題があったと言わざるを得ない。

それは、賜物そのものに問題があったと言うよりは、むしろその賜物が、教会を造り上げてゆくための尊い「働き」として機能していなかったということに尽きます。もっとはっきり言ってしまえば、今日の7節にありましたように、「全体の益となるため」に一人一人に与えられているはずの「霊の働き」が、全くそのように機能するどころか、その賜物を持つ己自身を誇るために、人々がこぞって競い合っていた、ということなのです。そこには傲りや自己卑下がひしめき合い、妬みや争いが絶えず燻って、教会を揺るがせる現実があったのです。

例えば、最後に出て来る「異言」を語る人や、これを解釈する人。こういう特殊な賜物の持ち主が、実際教会の中にいたのです。この賜物自体は、パウロも霊の賜物として認めて、頭ごなしに否定するものではありません。しかしこれを、神から与えられた恵みの賜物として教会全体の益となるように献げることをせず、まるでそれを自分の能力であるかのように誇示していた人々がいた。

だからパウロは、この後第14章で、異言については特に厳しく戒めていきます。そしてこれに先立つ、あの愛について語った第13章1節でも、実は次のように語っていたのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」。もしそこに愛がなく、つまりは教会全体の益となるような愛がなければ、異言はただのやかましい騒音に過ぎないと、パウロは言い切るのです。

同様に、最初に挙げられていた「知恵の言葉」や「知識の言葉」についても、パウロは、はたしてこれが全体の益となって、教会を喜びの内に生かすものとして用いられているかどうかを鋭く問う意図で、これを挙げていたことは明らかです。既に第3章で、パウロはこう述べていたからです。「ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(21~23節)。

ここは、人の知恵、またこの世の知恵というものが、神の前ではどんなに愚かなものであるかをパウロが語っていたところでした。だから誰も自分を誇ってはならない。確かに全ては、あなたがたのものである。キリスト者として生きる者には、全てが手の内にある。パウロやアポロ、ケファといった指導者たちも、この世界も、生も死も、否、何なら今起こっている全ても、将来起こることの一切も、まるごとあなたがたのものだ。それ程までに祝福と自由が約束されている!

けれども、そのあなたがた自身というのは、どこまでいっても、キリストのものであることを忘れてはいけない。そのキリスト自身も、実は父なる神ご自身のものである。そのように、全てはどこまでも唯一なる神ご自身の御許に帰り着く。そこを決して踏み外してはならない。いったい、あなたのその豊かな賜物は、どこから来て、どこに向かって、何のために用いられてゆくためのものなのか。


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ところで、こうしたパウロの問題意識を肯定的に受けとめながら、自らの創作活動に生かしたある一人の作家のことを思い起こします。エリザベス・ギルバートというアメリカの女性作家の名前を聞いたことがあるでしょうか。彼女が2006年に出版した『食べて、祈って、恋をして』という本が大ヒットし、世界30ヶ国語に翻訳されて一千万部の売り上げを数えました。

その彼女が、ちょうど今から10年程前、日本のあるテレビ番組に出演しました。「想像力の神秘を探る」というタイトルでなされた講演が紹介されていました。印象深いのは、そこでまずエリザベスが語ったのは、作家の創作活動の素晴らしさよりも、苦労についてであったということです。

大ヒットした作品によって一躍人気作家となった彼女は、しかしその後の人生をどう生きればよいかが課題になったと言います。創作活動を続けても、過去の自分の栄光を乗りこえることができなくなっていたからです。押し寄せる周囲の期待が高まる中、焦りも生じて来る。そこで、自分がどのように精神的な平静を保ちながら創作を続けていけるかが課題の中心となりました。

こうして、彼女は芸術家として作品作りになお打ち込むというより、創作活動そのもののあり方や考え方について、哲学をするように思索を深めていきます。そこで彼女は問います。現代の多くの芸術家は、自分の才能や能力によって創作をしていると考えることが当たり前になっているが、果たしてそうなのだろうか。もしそうであれば、自分自身が作品を生み出すことになるのだから、上手くいけば喜び、果てには傲慢になるだろう。反対に上手くいかなければ、相手を羨んだり妬んだりしながら、結局は自分に失望して自己卑下していくことになるだろう。しかし、それで本当に先があるのか。

そこで、彼女は一歩踏み留まって歴史を紐解き、古代ギリシア・ローマの芸術家たちの創作活動の姿に、あるヒントを発見します。彼らは、自分たちの才能で芸術を営んでいるとは考えていなかった、ということなのです。英語でジーニアス(genius)という言葉がありますが、これは特に芸術や科学等の分野で「天才、非凡な才能」という意味で用いられます。古代の芸術家たちは、互いにジーニアスと呼び合う。しかしそれは、芸術家自身が天才というのではなく、まさに非凡なる才能が天から与えられている。その人自身は平凡な一人の人間であって、失敗や過ちも犯す人である。だから芸術作品とは、どこまでも人間とジーニアスとの間で生み出される共同作業の賜物として理解されていたというのです。

確かにそのように受けとめれば、自分の才能のことで驕ったり、必要以上に悩み苦しんだりする必要は無くなるのかもしれません。そして彼女は最後にこう提案しました。「創造性というのは、自分の中にあるのではなくて、自分の外の神様に宿るものだと考えるようにしたらどうだろうか」。

これは、今日問題となっていた「霊的な賜物」について私たちが理解する上で、助けになるような現代風の事例だと言えるでしょう。ジーニアスをカリスマと置き換えてみる。カリスマとは、神に由来するものであって、それが霊的な賜物として私たち一人一人に与えられているものです。決して自分たちが誇るためのものではない。それはどこまでも、「全体の益」となり、喜びとなるために与えられ、用いられるもの。そして私たちも、それを喜んで献げるように神に期待されているものなのです。


私たち一人一人に与えられている霊の賜物とは、何でしょうか。神はあなたに、何を賜物として既に与えてくださり、またこれから与えてくださるのでしょうか。それは、今日例として挙げられた、何か特別でスバ抜けた才能や、魔法がかった力のことだけを言うのでしょうか。しかし私たちは、霊の賜物とは様々な「働き」として現れ、「教会全体の益」となるために、神が一人一人にお与えになるものだと教えられます。

いったいこの自分のどこに、そんなものがあるのか。私にはあれがない、これもない。あんなことも、こんなこともできない。ない、ない、ない。しかしそれは、自分の中だけを見ようとするからないのです。賜物は天から与えられるもの。自分の能力や所有物のことではないのです。だから私たちは天を仰いで、祈り求めることしかできません。どうか与えられますように。与えられているものを発見することができますように!

霊的な賜物は、この世の物差しでその価値を測れるものではないのかもしれません。しかしだからこそ、この世の基準では小さく、つまらないように見えるものであっても、霊の注ぎを受けて、霊の眼差しで自分自身や現実を見つめ返す時に、その何かが尊く思えてくることがあります。そしてそれが、かえって相手を生かし、全体の益として豊かに用いられ、教会を真のキリストの教会として造り上げるために必要な献げ物となってゆくのです。

実は、霊の賜物が働きとして現れると言われる時、この「働き」と訳される言葉は、元々は「エネルゲイア」というギリシア語です。ここから、私たちのよく知る「エネルギー」という言葉が生まれました。力です。霊の賜物には力がある。効力や効果がある。だから実りをもたらす。皆がそれぞれに実りをもたらす。そしてその実りを共に味わい、喜び合うのです。そこで最も喜んでくださるのは、もちろんキリストです。キリストが私たちの献げ物を喜んで受け入れ、豊かな実りに変えてくださる所で、私たちも一緒に喜び合う。ここに教会の姿があります。


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教会は、決して建物のことではありません。そこに集まる人々が生き生きとしている共同体の姿こそが、教会の姿を世に証しします。この教会共同体の正体は、もちろんキリストの体です。しかしその生きた姿は、私たちと無関係にこの地上で光り輝くものではありません。私たちの生きている姿と密接に重なり合うからです。

私たち一人一人が、様々な賜物を生かして共に生きている所に、キリストがおられ、神が働いておられます。否、既に神が働いておられる真実が私たちを捕らえ、キリストの体に結び合わせてくださっています。私たちは、そこに小さなキリストとして、全体の益となるために主に呼び出されています。一人一人尊ばれながら、この地にキリストの教会を形造る者とされているのです。とても素晴らしい姿がここに現れて来ます。

「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エゼキエル11:19~20)。


<祈り>

天の父よ。あなたは、私たちは一人一人に霊の賜物を与えていてくださいます。どうかその賜物を互いに大切にし、さらに発見し合い、喜び合うことができますように。何より、それをあなたの御業にお仕えするために献げ、またそれが主イエスの体である教会の益となるために用いられてゆくことが、何にも勝る恵みとなりますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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