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「共に苦しみ、共に喜ぶ共同体」

2023年3月19日 主日礼拝説教(受難節第4主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 エゼキエル書34:11~16
新約聖書 コリントの信徒への手紙一12:12~26

             

コリントの信徒への手紙一第12章半ばの箇所をお読みしました。この12章はその初めから、今日もそうですが、「霊的な賜物」について語り続けています。ギリシア語でいう所の「カリスマ」です。既に申したことですが、カリスマという言葉は、私たちの日常でもしばしば耳にする言葉です。ただしその場合ほとんど、何か特別な才能や人並外れた能力、あるいは神秘的な魅力をもち合わせている人に対して使われることが多いのではないでしょうか。

しかしカリスマとは本来、そういう一握りの人にしか当てはまらない言葉ではありません。元々は、「恵みの賜物」を意味します。神様から頂く恵みの賜物。贈り物。そういう素晴らしいカリスマが、実は私たち一人一人に与えられている。私たちは誰もが神に愛されて、それぞれに何がしかの賜物を与えられている。しかもそれは、自分一人のためにあるのではなく、全体の益となるために与えられているものだ。

これが、前回までにパウロが力を込めて述べたことです。パウロはここで明らかに、教会のあるべき姿を描き出そうとしていました。教会とはキリストの体。そのキリストの体に、私たち一人一人が結ばれています。しかしそこで大切なことは、誰もが霊の賜物を与えられて繋がっているということです。だからその賜物を教会のために用いて献げてゆくことが教会全体の益となるし、そのような姿が、キリストの体としての教会を生き生きと造り上げることになるのだと言うのです。


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さて、本日は12節以降をお読みしました。新共同訳聖書には「一つの体、多くの部分」という小見出しが付いています。しかしここは、前回までと無関係のことが展開されているわけではありません。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」(12節)。

ここで人の体のことが言われています。私たちの体は一つである。誰だって一つの体をもって生きている。その一つの体は、しかし実に多くの部分から成っています。実際この後、足や手、目などが出てきますが、そのように私たちの体はたくさんの部分で成り立っている。けれども、それら一つ一つはバラバラに独立して存在しているのではなく、どんなに部分の数は多くても、やはり一つの体に繋がって生きているものだ。

確かに自分の体を見れば、言われる通りです。そしてその姿は、まさに「キリストの場合も同様」だとパウロは言うのです。この場合のキリストとは、キリストの体として立てられる教会のことです。教会もまた、キリストという一つの体として生きている。そしてここに、その体の様々な部分として一人一人が繋がって生きている。しかも霊の賜物を与えられて結ばれている。

問題は、このそれぞれの賜物が、必ずしも皆に平等に与えられているものではないということです。まもなく新しい年度を迎えますと、私たちの教会ではその最初の礼拝で任職式を行います。新長老、奏楽者、こどもの教会の教師たちがその対象です。教会が、ある人々に特別な職を任じて、教会のための働きを任せることになります。その人に霊の賜物が与えられていることを信じて、務めを託します。

しかし当たり前のことですが、教会に集まる人の皆が皆、その職を担うわけではありません。また担えるわけでもありません。皆が等しく同じ賜物を与えられているわけではないからです。それは皆が了解し合っていることです。けれどもしばしば私たちは、神から頂く霊の賜物について考える時に、この平等という思いに捕われることがあります。

神様は誰に対しても、この自分にも賜物をお与えになったと言うけれども、いったい自分にどんな賜物が与えられているのだろうか。これだと言えるものがよく分からない。たとえ分かったとしても、あの人やこの人と比べると、自分にはあれもできない、これもできない。なんと貧しく、ちっぽけな自分かと悲しくなることがある。そのように嘆きながら、賜物についての神の与え方は実は不平等で、不公平であるとつい思ってしまうのです。


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ここで一つ思い起こす主イエスの譬え話があります。「タラントンの譬え」です。ある主人が、自分の雇っている三人の僕たちに財産を託して旅に出かけるというお話です。最初の者には5タラントンを預け、もう一人には2タラントンを託し、最後の者には1タラントンを委ねた。最初の二人は、それぞれの与えられたタラントンを生かしてせっせと働いて、倍に増やすことができました。ところが1タラントンの者は、それを土に埋めて隠してしまった。もしそれを失ったら主人に叱られると思って、大事にしまっておいたのです。しかしこの人のしたことは、後に、主人に厳しく戒められることとなりました。なぜでしょうか。

確かに大事にしまっておいたと言えば、聞こえはよいかもしれません。1タラントン与えられた者は、他の二人のように増やしはしなかったけれども、減らしもしなかった。忠実に守った。しっかり主人の財産を管理した。けれども、本音のところではこんな思いがあったのではないでしょうか。自分だって、もし2タラントンや5タラントンを託されていれば、もっと増やせていた。でもたった1タラントンしか与えられなかった。不公平だ。どうせ小さく見られている自分だ。だからせいぜい自分にできることは、このお金を無くさないようにすることだけだ。

この僕の気持ちは、私たちにも痛いほどよく分かるのではないでしょうか。自分には、たった1タラントンしか委ねられなかった。そこで心がしぼんでしまったのです。これは、比較という目で自分自身を見ることから起こって来る正直な姿であると言えるでしょう。けれども、私たちがここで知らなければならないことがあります。はたして、1タラントンとは、そんなにちっぽけな額なのだろうか。

これは、実は一人の人が約20年働いて得ることのできる賃金に相当します。想像してみてください。決して少ない等とは言えないはずの価値です。そしてこの主人の立場からすれば、自分の僕に対して信頼がなければ、決して任せること等できない高価なものです。信頼を注いでいたからこそ託すことのできた財産。ところが僕は、この主人からの信頼の眼差しを完全に見失っていたのです。


ここに、私たちの姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。つまり、神との関係の中で尊ばれている自分の姿を見失い、この世の比較というものさしで測られる自分の姿に振り回され、落胆する姿です。いったい私たちは、自分自身の価値の根拠をどこに見出すことができるのでしょうか。確かに人と比較すれば、平等ではない現実が歴然とあります。その差はあまりに不公平だと神に嘆いたり、文句をぶつけたりすることもあるに違いありません。しかしパウロは、むしろ平等ではないという現実の中にこそ、神の真実を見出すようにと目を向けさせるのです。

もし皆が皆、全く平等に同じ賜物を与えられて足になってしまったらどうなるか。皆が皆、耳になったらどうするか、と問うのです。「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」(17節)。もし皆が同じ賜物を与えられて、同じ働きをするようになったら、それはもう、一つの体として成り立たなくなってしまうことは明らかです。

しかしどうも、私たちはキリストを信じ、イエス様を主と告白し、その体なる教会に結ばれてからも、不平等をめぐる拭いようもない悲しみや空しさ、あるいは怒りや息苦しさを抱えてしまう存在であることを認めざるを得ません。そのように、ある意味とても愚かで、貧しく生きてしまう私たちではないでしょうか。そこに、私たちが本当に見るべき神のご計画を見失っているからです。この自分がどこに生かされているかということが分からなくなっているからです。


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コリントの教会の人々も同じでした。だからパウロは言います。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(15~16節)。

これはもちろん比喩でありますけれども、キリストの体に繋がる足が、例えばこんな風にものを言うのです。自分は手ではないから、つまり手ほどには及ばず、手がするような働きは到底できないから、自分は役立たずだ。したがって、もう体の一部としての価値もない。そう決め込んで、自己を卑下するのです。同様に、耳も「わたしは目ではないから」と嘆く。どちらも、劣等感から来る言葉です。

ところで、この15~16節の言葉は、捉えようによっては、全く逆の意味にも理解できます。つまり劣等感ではなく、優越感や傲りから発せられる言葉としても聞こえるのです。その意味はこうです。例えば足が、自分は手ごときの存在に甘んじるはず等なく、もっと素晴らしい価値ある働きをなすことができる、と言う。そして自分一人だけで独立した完全体として生きてゆける。だから自分はもう、体の一部なんかに小さく納まる存在ではない!と豪語するのです。

私たちはこれまで、コリントの教会が抱える数々の問題について知らされて来ました。それらを踏まえれば、むしろ後者の意味合いの方がふさわしいと言えるかもしれません。自分に与えられたある特別な霊の賜物を、教会全体の益となるように献げるのではなく、むしろ自分を誇るための道具としてしまう。しかしいずれにしても、劣等感や優越感が教会の中でひしめき合ってエスカレートする時、例えば自ら教会を去る人が現われたり、逆に「お前は要らない」(21節)と相手を教会から追い出したりするような人が現われて、教会が割れてゆく。そこでキリストの体が引き裂かれるように、教会が崩れてゆくのです。


こうした現実に対する一つの結論は、自分のことも相手のことも、そのままの姿で認め合い、尊び合いなさいということでしょう。目は目でありなさい。耳は耳でありなさい。他のものになろうとせず、自分らしくありなさい。けれども、パウロがここで本当に言いたかったことは、これだけに留まるものではありません。22節以下で語られる言葉に注目したいのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。

一人一人に与えられた賜物の中には、確かに他と比べて弱く見えるものがある。あるいは比較しないまでも、既に自分の中で認めざるを得ない弱さや生きにくさを抱えている人たちがいる。パウロはそれを、23節でさらに「格好が悪い」とか「見苦しい」部分とまで大胆に表現しながら、そういう人たちについてさらに何と言っているのでしょうか。「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」。

要するに、これは教会の中で共に助け合って生きる姿を指します。弱い人に対して包みで覆うように優しく接したり、格好よく見栄えがするよう繕ったりしてさしあげる。24節には「引き立たせる」という言葉も出てきます。そのように関わることが、教会という一つの「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合って」(25節)生きる姿なのだ、と。

ただしこう聞くと、ある懸念も同時に湧き起こるかもしれません。もし私たちが弱い人たちをそのように助ける時、それはかえって、時に恩着せがましくなるのではないか。あるいは、相手の自尊心をくじくことにもなるのではないか。確かに私たちが繕う営みには、いつでも破れが伴うに違いありません。善かれと思ったことが裏目に出てしまう。


しかしここで言う「わたしたち」(22節)とは、あらためて誰のことでしょうか。もちろん、それは教会に集められた私たちのことです。では教会の主体は、本当に私たちなのだろうか。足し算をするように、教会の正体は、ここに集められた私たちという集合体なのでしょうか。

しかし私たちは、ここにいる一人一人を集めてくださった本当の主人を知っています。他でもないキリストご自身が、ご自分の体に私たちを繋ぎ合わせてくださいました。弱さを抱えて生きる私たちを、「かえって必要」な存在として引き立て、引き上げてくださりながら、ご自分の命の内に生かしてくださるためです。私たちが本当に生きるべき場所を、主は用意していてくださるのです。

この恵みに支えられて、私たちはさらに、この主イエス・キリストというお方の御業に仕える者として、一人一人教会に招かれてもいます。その招きに、私たちは絶えず忠実であろうとしているだろうか。主のその招きの声を、互いに聴き合い、響かせ合っているだろうか。

一人の弱き者が苦しむ時、そこで本当に体全体で苦しんでいるのは、主イエスにほかなりません。だから私たちがこのお方に真実に繋がる時、実は私たちも、友の苦しみを共に担う者とされるのです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26節)。


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これは、単なる助け合い精神やヒューマニズム精神に基づく共同体造りの話ではありません。なぜなら教会が緑豊かな牧草地となり、そこに集められる者たちが共に喜び、互いに助け合って生きることができるために、主は偽りなくご自分の全てを献げ、与え尽くして、その犠牲の上に私たちを生かしてくださったからです。

苦しむ者たちのために共に苦しみ、傲り高ぶる者たちのためにも赦しを与えて、最後まで愛に生きたお方。それが私たちのイエス・キリストです。諦める者たちを奮い立たせ、驕る者の心を打ち砕いて、共に一つの主の体に繋がって生きる道を開いてくださいました。ここに私たちの命があります。希望が広がります。

「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」(エゼキエル書34:14~16)。


<祈り>

天の父よ。あなたから頂く霊の賜物を、どうか軽んじることがありませんように。そのことで心が振り回されて、人のことも自分のことも歪んだ仕方で見誤ることがありませんように。あなたが与えてくださった賜物、それはこの私の弱さでさえあるかもしれません。今、負いきれぬ程の重さでのしかかっている自分の苦しみや痛みでさえあるかもしれません。ここにもあなたの深いご計画と幸いの道が備えられていることを、どうか教会に繋がって生きる恵みの中でこそ豊かに味わわせてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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