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「助けを求める祈り」

2022年6月5日 ペンテコステ礼拝説教(聖霊降臨節第1主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書42:5~7
新約聖書 マタイによる福音書6:13

              

教会の暦は、本日から聖霊降臨節に入りました。今日はペンテコステ礼拝です。興味深いことに、このペンテコステという言葉には、「聖霊が降りて来る」という意味はありません。数字の「50番目」というのが元々の意味です。

十字架に架かって死なれた主イエス・キリストは、三日目に死人の内から甦られました。そしてご自分が生きておられることを再び弟子たちにお示しになりながら、福音宣教の御業を託されました。いわゆる主イエスの大宣教命令です。先ほどの洗礼式、また任職式の時に、私が制定の言葉としてお読みした主イエスのお言葉です。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19~20)。

そう仰って、やがて天に昇られました。ご自分の宣教の御業を、弟子たちに、そして私たちにも委ねられたのです。あとは頼んだぞ。これからはお前たちが伝道するんだぞ。そう託されました。けれどもただ無責任に託されたのではない。天から聖霊を送ってくださると約束してくださいました。その聖霊の降って来た出来事が、ちょうど主イエスのご復活から50日目だったという訳なのです。


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この聖霊降臨の出来事によって、教会が生まれました。ですからペンテコステは、教会の誕生日です。そして私たちの教会もまた、この同じ聖霊の力によって誕生しました。今年で98歳を迎えます。

松本東教会が聖霊によって立てられている。それは、目には見えない事実です。そこに聖霊が働いていても、なかなか気づきにくいかもしれません。しかし聖霊そのものは見えなくても、聖霊がもたらす実りは、形となって見えて来ます。まさにそれが、今日の洗礼の出来事でありました。またそれに続く、任職式の出来事でもありました。そしてさらには、この後の聖餐式もそうであります。

何だか今日は、一つの礼拝に三つもの式が重なって、盛りだくさんという印象を持たれるかもしれません。しかしこれらは決して、バラバラではありません。すべては神の見えない一つの霊、聖霊の導きによって起こされている出来事だからです。しかも、私たちがそれを喜んで味わうことができるようにと、神さまが与えてくださった愛の果実に他ならないのです。


先ほど申しましたように、そもそも聖霊は、主イエスが私たちを助けるために約束してくださった天からの贈り物でした。主の大宣教命令を果たしてゆくための聖霊の助け。一人でも多くの者が、主の弟子となってゆくために注がれる聖霊の助け。この助けがある限り、私たちは共に、主の弟子とされてゆく喜びの中に生きることができるのです。

この自分が、生涯で本当に従うべき主人に出会って洗礼を受け、主の弟子とされるということ。またその恵みを、繰り返し何度も味わうことのできる食卓が備えられているということ。そしてその自分がまた、今度は教会に集められている神の家族のため、あるいは教会の外にいる愛すべき隣人のために奉仕をするということ。その奉仕に自分が召し出されているということ。これらはすべて、聖霊なしには起き得ない出来事です。聖霊なしには、喜びも与えられません。しかし聖霊が働くところには、人が集められ、喜びが与えられる。

そのような聖霊の働きに目を留める時、実は毎週この礼拝があることも、また、私たちの教会がこうして存在しているということも、聖霊の助けによって支えられている事実であることを、思わずにはいられません。否、私たちの命が今日も生かされているという事実さえも、そうであります。だから自分には何の取柄があるだろうか。弱ってゆく自分、やがて死にゆくこの自分。そう思えてならない、この小さな自分さえも、しかし生きる時も死ぬ時も主のものとされている恵みの中で、私たちは誰一人欠けることなく、聖霊の息吹によって、主に確かに繋がっていられるのです。


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さて、この聖霊に助けられて生きる教会の姿。そして私たちの命について、私は最近、一つ感慨深く思わされたことがありました。それは、今日めでたく洗礼を受けられた二人の兄弟姉妹と一緒に、この日を迎えるために行なって来た準備学習会でのことです。

この会で、洗礼を受けるということがどんなに素晴らしいことか、ということについて、色々と学びを積み重ねて来ました。その中で、一つキーワードになった言葉がありました。「神の子」という言葉です。そしてこの言葉は、準備会と並行して行われた長老会の諮問会でも、共有することとなりました。

この試問会に、二人をお招きしました。そしてこの度与えられた洗礼志願という尊い志について、それが本当に確かなものであるかどうかを、畏れ多くも長老会が、与えられた務めの中で問いながら、一同、確かな手応えをもって神の御心と確信することができました。その中でお二人は、自分にとって洗礼というのは、自分が神の子として生きることだと、はっきり答えてくださったのです。

この諮問会の後も、準備会は続きました。そしていよいよ最後となった先週の会で、私はもう一度二人にお尋ねしました。あなたにとって、洗礼を受けるとはどういうことか。一方がこう答えました。「神の子になることです。そして神の子として、神さまを喜ばせるように生きることです」。素晴らしい答えでした。全くブレることのない、確信のある答えでした。

そして続いて、もう一方に同じようにお尋ねしました。ところが、その答えは意外でした。「神の子…でも、もともと、自分たちは……」。そう言って言葉が止まりました。さらに言葉が続きそうだったので、しばらく待ちました。沈黙が続き、その後「でも、もともと……」という言葉がもう一度繰り返されました。しかしもどかしくも、言葉はそこで詰まってしまいましたので、今度は私が口を開きました。

「もともと、自分たちは神の子だったんじゃないの。そんな風に言いたかったのかな。洗礼を受けるというのは、確かに神さまの子どもとして生きることだけれど、でもそれは洗礼を受けて、初めてこれから神の子になるという風に言われると、ちょっと違うって思ったのかな」。そう尋ねると、頷いていました。

そこで私は、さらに続けました。「確かにその通りだね。私たちはもともと、神さまに愛され、神さまの子どもとして生まれて来た。でもその事に気づけなかったり、気づいてもその素晴らしさがよく分からないまま生きてきたのが、これまでの私たちだったかもしれない。でも今、洗礼を受けたいという心が与えられたことによって、自分たちはもともと神さまの子であったことを確信し、これからもそうであり続けることを喜ぶことができる。神さまを喜ばせたいという願いさえ生まれてくる。そんな嬉しい気持ちが与えられていることは、本当に幸せだね」。


二人はずっと聞き入っているようでした。私はここに、言いようもない感動を覚えました。聖霊がここに働いてくださったと思いました。この一連のやり取りは、誰かの答えが合っているとか、間違っているとか、足りないとか、そんなことではなかったと思います。一人ひとりに言葉が与えられて、その言葉をバトンのように繋いでいった先で、一つの真実に出会ったのです。それは自分たちが辿り着いたというより、そこに聖霊が働いて、聖霊がその真理に導いてくれたのであります。

その時、私はあらためて確信しました。聖霊は、私たちを真理に導くということを。私たちが知るべき真理、あるいは神が私たちに知って欲しいと願っておられる真理に、導くものだということを。つまり、私たちが神の子であるということ、またそれを知ることがどんなに素晴らしいことであるかを、聖霊は教えてくれたのです。

そしてまた聖霊は、キリストの共同体を造り上げるということも知りました。聖霊によって共に示された一つの真理を通して、この僅か三人の小さな学習会でさえも、主の確かな群れとなったのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)、と仰った主イエスのお言葉を思い起こします。


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こうして、私たちは、聖霊の注ぎを受けることによって、神の子として真実に歩むことができるようになります。ではその「神の子」として生きるとは、具体的にどのように生きることなのでしょうか。それは言うまでもなく、私たちを「子」として受け入れ、呼び出してくださる天の神を、「父」と呼ぶことができるということです。主イエス・キリストの父なる神を、私たちの父とすることができる、そうした永遠の交わりの約束に生きることに他なりません。

私たちは、神の子として、神を「父よ」と呼ぶことができます。「父よ」と祈ることができます。その祈りの言葉を、主イエスは私たちに教えてくださいました。今日の最後に、この主の祈りの恵みに、ご一緒に触れたいと思います。


「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6:13)。この言葉を、主は祈りの最後の言葉として、私たちに教えてくださいました。教会ではこれを、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という言葉をもって祈り続けています。実はこの後さらに、「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」と続くことはご承知の通りですが、しかしこれは後の教会が言葉を整えて加えたものでして、主イエスご自身はあくまで、13節の言葉で祈りを閉じられました。

なぜこの言葉が最後だったのでしょうか。しかもこれは、穏やかな祈りとして献げられるというより、時として、私たちの叫びにも似た思いから発せられる言葉ともなるでしょう。「神さま、助けて!私たちを誘惑や試みから守ってください。どうにかこの悪から救い出してください!」。こうした叫びを、しかし主は、「祈り」として良いのだ。これを祈りとして聞き入れてくださる方がいらっしゃるのだから、そのお方を信じて祈ってご覧らん。そのような励ましの心が伝わってきます。

私たちが助けを必要とする時、その助けを求める祈りが与えられています。許されています。私たちは確かに一方では、信仰が与えられ、聖霊が注がれ、神の子として歩む希望が約束されています。けれども、だからすべての困難は乗り越えられる、あなたは大丈夫だから頑張れと、そのようには主は仰いませんでした。むしろ、あなたたちはなお、助けなしには生きられない存在であることを知れ。あなたは今、本当の助けの源をどこに置いているだろうか。そんな己の姿が、ここで問い質されるような響きとしても聞こえます。

否、実際そうでありましょう。私たちは本当に自分が必要とする助けを、神に心から祈り求めているだろうか。どこかで遠慮したり、疑ったり、傷つく自分を恐れたり、あるいは自分ですべて解決できると過信したり、そのような姿を引きずったまま、真剣に神の御前に祈りを注ぎ出しているだろうか。それは言い換えれば、自分の弱さをすべて包み隠さず認めて、神の懐に明け渡しているだろうか。そうした、神の子とされている恵みの中に自分が立っているかが、鋭く問われるのです。


もし私たちが祈ることを避けている心の場所があるなら、そこでこそ、主は祈りの声を上げよと仰っているのかもしれません。もし自分の弱さを御前に隠し続けているならば、私たちはそこでこそ、最も悪の誘惑や試練に負けやすい弱さを抱えて、生きているのかもしれません。しかしだから、主は私たちの祈りを待っておられるのです。

自分の強さに生きようとする時、実は私たちはなおも弱さに中にあります。しかし自分では認めたくない弱さを認め、また人からも知られたくない自分の弱さを認め、その自分をずっと前からご存知でいてくださるお方に明け渡して助けを求める時、私たちは神の強さの中で生きるのです。神の子として生きる幸いが、ここにあります。どうかすべての人が、この祝福をもたらす聖霊の注ぎを受けて、歩むことができますように。

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