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「召された時の姿のままで」


2022年7月24日 献堂記念礼拝説教(聖霊降臨節第8日)
牧師 朴大信
旧約聖書 創世記3:1~10
新約聖書 コリントの信徒への手紙一7:17~24

          

1980年にこの教会堂が建てられて、42年の歳月が過ぎました。これを覚える献堂記念礼拝において、ほとんど毎年のように紹介される和田正元牧師の次の言葉が、今年もまた思い起こされます。「会堂のあることによって、信仰の堕落を恐れる」。ここには、それまで半世紀以上にも亘って、建物が無くても教会として歩み続けてきたことへの誇りと、しかしまたそれ故に、念願の会堂が建ったことで信仰に緩みが生じてしまうことへの懸念が、露わにされています。

以来、私たちはある意味、ここで毎週礼拝を献げる度に、信仰が緩んでいないか、堕落していないかが、問われ続けていることにもなります。しかしまた幸いなことに、実は私たちは、この会堂が今このような形で建てられているおかげで、信仰の何たるかが教えられています。つまりこの会堂がある特別な造りをもって建てられている故に、私たちはそのことにも思いを馳せる時、むしろ「会堂のあることによって、信仰の堕落から守られてもいる」のです。

ある特別な造り。実は昨年の記念礼拝でも、一度ご紹介しました。本日は大変幸いなことに、この会堂を42年前に建ててくださった、㈱山共建設の当時の社長であられた降幡廣信さんが、私たちと同じ信仰者として、この礼拝にご出席されております。その降幡さんが、以前私にこのようなお話をしてくださいました。どのような思いでこの会堂を設計し、今のような造りになったかを生き生きと語ってくださったのです。

この会堂の上をご覧になると、とても太くて重々しい梁が水平に組まれているのが見えます。そして今度は、皆さんが座っておられる会衆席の左右を見ますと、細い縦の柱が立っていて、上の重たい梁を支えているのが分かります。けれども、しっかり力強く支えているというよりは、どこか弱々しく支えているように見える。その視点で見つめ続けると、確かに大丈夫かなぁと不安にもなる。

しかしまさにそうした不安を抱かせる所に、この構造がもたらす一つの狙いがあると降幡さんは仰います。つまり、左右の細い柱は、私たちが生きるこの地上世界を表現しています。その一本一本は、私たち自身とも言えますし、私たちがこの世で頼りにしている何かでもありましょう。けれども、これら地上に立てられた柱は、上の重々しい梁が象徴するように、この世界に重くのしかかる闇のような力、その得体の知れぬ脅威にもちこたえるにはあまりに弱々しく、不安定なのです。

この地上の柱には、私たちの信仰も含まれてよいでしょう。ただその信仰さえ、時によろめくのです。しかしだからこそ、私たちはそこで自分自身の内側にではなく、また周囲の地上世界にでもなく、ただひたすら天に向かって目を開いてゆく信仰が与えられている。心許ないこの世界で被る様々な重苦しさや虚しさ、哀しみ、不条理、そうした分厚い闇を突き抜けて、その闇さえも天からご支配される真の神に出会うことができる。

決して十分広いとは言えないこの会堂空間が、それでも天に向かって突き刺すような高い天井を持っているのは、私たちが天を仰ぐことで、この重苦しい世界で突破口を見るためだったのです。この会堂の高さは、私たちを天の神に導くための高さである。


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このように、信仰とは天を仰ぐことだ。確かな基盤など無いこの世界にあって、天にこそ確かな望みを抱き、天からの救いを確信して歩むことだ。そう教えられます。そしてここに、信仰のもう一つ大切な側面を重ね合わせるならば、私たちが天を仰ぐのは、実は私たちに先立って、天の神ご自身が私たちをそのように招き、私たちの名を呼びながら召し出してくださっている。この真実に支えられているからに他なりません。

神が私たちを召してくださる。この「召す」という言葉が、本日与えられましたコリントの信徒への手紙一の第7章17節以下に、実に8回も使われています。私たちと神との関係は、他でもない神が、先に私たちを召してくださっているという信実に改めて気づかされます。私たちが神を選んだのではなく、まず神が私たちをお選びになった。これ無しに私たちの信仰の歩みは成り立たない。そんの勢いを持つパウロの言葉が、次々と畳みかけて来るのです。

そのように幾度もこの「召す」という言葉を用いながら、パウロが特に今日の箇所で私たちに強調して伝えるのは、本日の説教題にも掲げましたように、「召された時の姿のままで」ということです。これとほとんど同じ意味を持つ表現が、実はこれも一度のみならず、三度も記されていたのです。

17節の初めにこうあります。「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」。続いて20節でもこう語られます。「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」。そして最後の24節ではこう結ばれます。「兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」。

この三つの箇所には、いずれも「身分」という言葉があります。しかしギリシア語の原文には本来、ないものです。日本語に訳す時、この言葉を入れるのが文脈上妥当だと判断されたのでしょう。だた、ここは直訳するなら、「神がお召しになった、そのように歩め」となります。これを口語訳聖書では、「神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきである」と訳しました。

つまり元々は、身分というより、私たちが神様に召されたその時の姿やありようのままで歩みなさい、ということが勧められているのです。そう勧めながら、パウロはさらに17節後半で、「これは、すべての教会でわたしが命じていることです」と語りました。いつどこの誰であっても、これは肝に銘じてもらわなければならない。


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さて、毎週この礼拝で少しずつこの手紙を読み進めてゆきます時、どうしても前後関係に注意を払いながら読むことになります。前回申しましたように、この第7章は、全体として「結婚」にまつわる教えが細やかに書き記されています。次週は25節以下を読みますけれども、再びこの主題が続きます。

けれども今日のこの部分は、結婚については特に触れていません。18節以下では割礼のことが語られ、21節以下では奴隷の身分のことが語られているからです。それでも、ここが前回と深い関わりを持っているということが、例えば23節を見ますと分かってきます。「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」。

前回見ました15節に、「結婚に縛られてはいません」という言葉がありました。この「縛られている」という単語は、実は原文では、「奴隷となる」というのと全く同じ単語であります。こうした言葉の使い回しから十分に推察できることは、つまりパウロが言うのは、結婚においてだけ私たちが奴隷であってはならない、という教えに留まらないで、およそ私たちは、「人の奴隷ともなってはいけません」ということでありましょう。もはや私たちはいかなる人、物、事によっても奴隷のように縛られることがあってはならない。否、もうそこから自由にされているということです。だからそのことを肝に銘じてほしい。他者の存在、あるいは人間の考え、あるいは人間の造り出す常識や制度が、あなたの生き方を決めてしまうのではない。


こうしてパウロは、私たちがあらゆる束縛から解き放たれ、自由な存在であることを確信します。ではその自由は、より具体的に、何から自由になることでしょうか。ここで彼が挙げていますのは、先にも述べましたように、一つは割礼であり、もう一つは、当時の奴隷や自由人といった社会的身分についてです。

要するに、割礼を受けているかどうかは、もう問題にはならない、ということです。これはユダヤ人にとって、大きな衝撃であったに違いありません。なぜなら割礼は、神の救いの見える徴だからです。この徴を持つ者こそがユダヤ教徒であり、ユダヤ人である。そうでない者は、神の救いから外れた者として見なされました。けれども、パウロはそこで言うのです。「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません」(18節)。

おそらく、ここで言い表されているような問題がコリントで実際に起こっていたのでしょう。自分の体に割礼を受けたユダヤ人が、後にキリストの名による洗礼を受ける時に、過去の古い救いの徴が恥に思えてしまう。それで何とか割礼の跡を無くそうとする者たちがいたのです。しかしまた逆に、割礼を受けていない異邦人が洗礼を受けてキリスト者となる時、どうも周りは、かつて割礼を受けていたユダヤ人キリスト者ばかりだ。自分は生粋の神の選民ではない。後からようやく入れてもらった劣等生のような気がする。それなら、形の上だけでも同じ割礼を受けた方がいいのではないか。

しかしパウロは明確に語ります。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」(19節)。つまりキリスト者として大切なのは、もはや割礼を受けたユダヤ人か異邦人かではないのであって、神に召されるために自分の姿を変える必要もない。ただそのままの姿で、神の掟を守ることができるかどうか。それは字義通り、律法の教えを余す所なく守り通すというより、その律法を完成へと導くキリスト、ただこのお方に従うかどうか。これに尽きる。


同じことが、21節以下にも言い表されています。ここでの大きな問題は、やはりまず、社会で奴隷の身分であった人たちのことだろうと思います。その奴隷であった人たちが、信仰をもって生きる者とされた。思いがけず、人生の旅路で神に召し出された。自分が仕える主人に、自分の命まで縛りつけられる者ではなくなった。教会においては、まるで初めて自分が人間として扱ってもらえた。そう感謝した時に、しかし自分がなお奴隷であることが恥に思えてきた。矛盾や葛藤、否、怒りすら覚える。信仰を持つ者が、こんな奴隷のままで良いのだろうか。いったいこの現実は何なのか。

しかしここで、またもやパウロは言うのです。「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」。

そしてこの教えは、今度は、同じ神に召されながらも、社会的に自由な身分の者、つまり奴隷を売り買いして、自由に扱うことさえできる者たちに対しても語られます。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」。

ここで言われているのは、奴隷と自由人との間に、社会的立場の逆転が起きた、ということではありません。現実には、なおも社会的身分の格差や不平等は残っているのです。けれども両者は、それぞれの姿のままで、同じキリストの権威のもとで、霊に生きる新しい人間としての先駆けとなるよう、共に神に召されているのです。そしてひたすら、主イエスをキリストと仰ぎながら、互いにキリストの奴隷として生きる者とされているのです。教会は、まさにそのような真に自由な共同体をこの世に創り出す、最後の砦なのです。


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自由な共同体、と申しました。パウロのこの教えは、ある本の書名を借りて申すならば、「置かれた場所で咲きなさい」ということでもありましょう。奴隷は奴隷のままで、自由人は自由人のままで、キリスト者の自由を生きなさい。しかし見ようによっては、ここには、ともすれば当時の社会制度、あるいは奴隷制度そのものを変革しようとする気概が見えない。むしろそれを温存する保守的な思考がまかり通って、なおも不自由で不平等な現実を容認しているだけではないか。そんな風に理解される所かもしれません。

しかしここで、一つ大切にしたい言葉があります。小さいことのようですけれども、21節に「そのことを気にしてはいけません」と言われます。確かに今の時代、割礼を受けたかどうかとか、奴隷の身分であるかどうか、というようなことで私たちが思い悩むことは、ほとんどないかもしれません。けれども時代が変わっても、場所が違っても、同じ国に生きている者同士であっても、その生活は当然様々であり、そうした現実の中で、各々の状況に応じて、私たちは実に色々なことを日々気にしながら、生きているに違いありません。

例えば、生まれながらの自分の容姿や、口下手な性格を気にする。他人と比較した場合の己の才能や財産を気にする。あるいは、自分の出自や家庭環境、学歴、職歴、肩書を気にする。不運な出来事もそうでしょう。気になるものは山ほどある。否、気になるどころか、気に病むほどです。しかしそうした思いが地中に深く根を下ろし始めると、私たちはやがて、日々思い煩いに生き続けてしまうのです。


主イエスがなぜ、「明日のことまで思い煩うな」と教えられたのか。それは留まることを知らぬ思い煩いが、いつしかその人に罪を犯させてしまう恐ろしさを、よくご存知だったからではないでしょうか。思い煩いが災いすると、私たちは犯人捜しを始める。段々人を恨んだり、許せなくなる。人生を諦めたり、何もかも信じられなくなる。白々しく感じられる。そのように、いつの間にか神の豊かさに生きられなくなってゆく。孤独であったはずの哀しみが、実に望まない仕方で、独りよがりの罪へと化けて、暴走し始めてしまうのです。

私たちは、今でこそ、奴隷制度のない時代と国に生きてはいますけれども、しかし我が身をよく振り返れば、案外、不自由さを抱えながら生きているのかもしれません。この世の物差しで測られっ放しになっている。まさにこの会堂の重々しい梁が象徴するように、得体の知れぬこの世の暗闇が、私たちを圧し潰そうとするのです。

しかしまさにそこで、パウロは私たちに、福音を告げ知らせます。キリストの奴隷となった者は、気になるものがなくなるのだ、と。何かが気になってしょうがない、その心の傾きのままに日々必死に闘うのではなく、むしろその闘いからも自由となって、気になどならなくなる。そういう所で、一人の人間として召し出して下さる神の御前で自立できた時に、私たちは初めて、何かの虜となってしまっていた奴隷から解き放たれる。その自由の喜びは、自分が何かを好き放題にできると思える自由よりも、はるかに勝る喜びなのです。


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パウロは今日、私たちに繰り返し語りました。「神に召された時の姿のままで歩みなさい」。これは、本日併せてお読みした旧約聖書、創世記第3章における、神ご自身の御言葉と響き合います。神から自由が与えられたアダムとエバは、決して食べてはならぬと命じられた園の中央の木の実を食べてしまいました。神との関係で自由を正しく用いることができなかった、ただ自分の欲望を満たす目的でしか自由を用いなかった、人間の深い罪の姿が映し出されています。神の愛の外へと反れてしまう、私たちの惨めな姿でもあります。

そんなアダムに向かって、神は9節でこう問われました。「どこにいるのか」。この問いかけを、私たちは今日どのように聴くでしょうか。もちろん神は、園の木の間に隠れたアダムの居所を本当に知りたくて、こう訊ねられたのではありません。彼に答えてもらわなくてもご存知であった。ではこの問いに込められた御心は何か。こんな呼び声が聞こえてきます。「アダムよ、なぜ隠れるのか」。否、「アダムよ、なぜ隠れる必要などあろうか」。否、もっとストレートに、「アダムよ、私の許に帰ってきなさい。その姿のままで」。

いったい私たちが神に捕えられて召された時、どんな姿だったでしょうか。予め十分に準備し、召し出されるに相応しい徳を積んでいた時でしょうか。しかし私たちのあらゆる徳や賢さを積み上げたところで、その力の限りの賢さは、神の愚かさにも及ばないのです。神はそのように立派であろうとする私たちを求めません。求めるのはただ一つ、罪にまみれたその裸のままで、御前に進み出ること。その赦しの愛の中に、ただ戻って来ること。

神はこの願いを、心の中だけに留められませんでした。文字通り、ご自身の命を懸けてまで、これを成し遂げられました。「身代金を払って(私たちを)買い取」ってくださったからです(23節)。独り子イエス・キリストを十字架にかけて犠牲にする、あの代償を払ってでも、私たちをご自分のものとしてくださった。愛し抜いてくださった。だから私たちは今日、何度もこの言葉を聴き続けます。

「兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」(24節)。溢れる神の御恵みの中に、留まっていなさい。この召しに応える姿こそ、ただ神のみを畏れる私たち小さき群れの、自由なる姿であり、喜びなのです。

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