2023年8月13日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第12主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編8:4~10
新約聖書 コリントの信徒への手紙一15:20~28
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「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)。
冒頭に出てくる「しかし」とは、いったい何に対する「しかし」なのでしょうか。これまでご一緒に聴き続けてきた第15章の中で、実は度々出てくる言葉で、私にとって気になるものがありました。2節にこうあります。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」。
最後の「無駄」という言葉です。同じ言葉は14節にも出てきます。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。そしてこれとよく似た言葉が、17節にも続きます。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく…」。さらに19節ではこうも言われます。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。
「無駄」・「むなしい」・「惨め」。これらの言葉が重ねられているのは、パウロ自身が、そのようにいつでも無駄で空しくなってしまう信仰生活を、じっと見つめていたからではないでしょうか。もし福音の最も大切な肝心処を受け取り損ねてしまう時、私たちの信じていることが無駄になってしまう。信仰が空しくなってしまう。否、信仰をもって生きようとする私たち自身が惨めになってしまう。その儚さや恐ろしさを、パウロはよく知っていたのだと思います。
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「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)。
この冒頭の「しかし」は、まさに私たちの信仰が「無駄」になり、「むなしく」なり、それ故私たち自身までもが「惨め」になることへの「否」。決してあなたたちをそんなどん底に陥らせることはしまい、そうなるはずがない、とする明確な意志が貫かれているように響きます。
では、私たちがどん底に陥らずに済む福音の肝心処、あるいは、私たちが拠って立つべき信仰の足場とは何でしょうか。それが、「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられ」た、という言葉で言われている真実です。
ここにキリストの復活のことが言われます。それが大切である、ということくらいは私たちにも分かりそうです。けれども事はそう単純ではありません。ここでの肝心処は、そのキリストの復活が、「死者の中から」起こったということです。ただ漠然と「死から」甦られたのではない。どこまでも「死者の中から」、より正確には、「死者たちの中から」復活したというのです。
死者たち。これはもちろん、既に地上での生涯を終え、文字通り死んでいった人たちのことです。しかしここにはもう一つ、やがて必ず死すべき者たち、つまり私たちのことも含まれてゆくと理解してよいでしょう。つまりキリストは、ご自身よりも先に死んだ者、しかしまた後に死んだ者、これら全ての死者たちの中から甦られた。しかもこの甦りは、眠りについた全ての死者たちの「初穂」となられる出来事に他ならなかった。つまり死者たちもキリストに次いで復活することを約束する、まさにその先駆けとなられたのだ、ということが明らかにされるのです。
要するに、キリストの復活は、ただ死の暗黒からご自身の甦りのためだけに起こった出来事なのではなく、あらゆる死者たちの中から、その死者たちを代表して、まさにこの死者たちの復活こそを目指して、成し遂げられた出来事であった、ということなのです。
ですから、先ほどお読みした14節と17節。この二つはいずれも、一つ前の節からの続きとして本来は読まれるべきだったのであり、その意味はもう明らかでありましょう。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(13~14節)。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(16~17節)。
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もし、死という決定的な絶望の闇にうずもれて行く人々の復活が、将来、誰一人の身においても起こらないのであれば、あの十字架の死から甦られたキリストの復活もなかったことになる。けれども、決してそんなはずはない。あのキリストの復活は、ご自身のためというより、他でもない私たち死すべき人間の復活をこそ約束するための初穂の出来事だったのであり、逆に、死者の復活を目指さないキリストの復活など到底あり得なかったのだ。
したがって、キリストを信じながら、またその復活を信じながら、死者たちの復活、ひいては自らの復活をも信じないなら、こんなに空しく惨めなことはないのです。復活を否定することは、己自身を否定することになるからです。己自身に差し出された永遠の命を否定することは、自らの存在の根拠を失うことでもあるからです。
この意味で、先ほど遡ってお読みした19節にもう一度目を留めてみます。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。ここは少し誤解しやすい所かもしれません。この世の生活でキリストに望みをかけて生きること、しかもそこにだけ望みを置くことが、どうして「最も惨め」だとまで言われるのか。むしろ幸いと言うべきではないでしょうか。キリストを脇に置いて、他に何に望みをかけたら良いと言うのでしょうか。
実はここに一つ、翻訳上の問題が絡んでいます。「だけ」をどこにかけるかで、意味合いが変わって来るからです。パウロの意図は、むしろこうではなかったでしょうか。「この世の生活においてだけ、キリストに望みをかけているだけだとすれば…」、そこでこそ、私たちは最も惨めな者となる。この世で自分がどう生きるか、死をもって終わるこの地上の命を、どうしたらより良く生きることができるか。そうした、この世の倫理・道徳的な意味に留まってキリストを模範とするだけなら、私たちはキリストの本当の救いを受け取り損ねている。永遠の天から祝福された自分の命を、十分には生きていないのです。
このパウロの厳しい眼差しは、私たちがいくら鋭く目を凝らして見ようとしても見ることのできない憐れな現実を、はっきり捉えていると言えるのかもしれません。けれどもパウロもまた、彼自身の信仰深さやセンスの鋭さで見つめているのではないと思うのです。そうではなく、この空しい現実、信仰の儚さ、あるいはこの事態を引き起こしている罪の根深さ、それ故あらゆる人間の中で最も惨めな者になってしまう危険を誰よりよく知っていたのは、主イエス・キリストご自身ではなかったでしょうか。
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ではこのキリストは、いったいそのために何を為し、何を成し遂げてくださるのでしょうか。21節から22節で、パウロはアダムについて語ります。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。
ここに唐突にアダムの名が出てくるのは、単に人類の起源を記念するためではありません。むしろ心に刻むべきは、このアダムによって、「すべての人が死ぬことになった」という事実です。人はそもそも、なぜ死すべき存在となったのか。単に自然科学の法則や生物学的な宿命をなぞっているだけに過ぎないのでしょうか。
聖書が見つめる死の根源には、神に対する人の罪の姿があります。この罪によって、人は決定的に死すべき者となった。その始まりに、アダムの罪がありました。それは私たちに関係ないと、知らんぷりなどできない程に、私たちにまとわりつく呪いとなってしまっているのです。けれども、「死が一人の人によって来た」のだとすれば、その甦りもまた、ある決定的な「一人に人によって」すべての死者たちに及ぶものとなった。ただ一人のお方、主イエス・キリストによって、全ての者が永遠の命に生かされるようになったのです。
私たちはこの約束の真実を、ただ教理の方程式のようにしか理解しないでしょうか。だとすれば、頭ではなく、心をキリストに集中させてみましょう。いったいここに見えて来る現実とは何でしょうか。それはあのアダムによって、どれだけ私たち人間が罪に深く毒されてしまっているかという、己の姿です。しかしまた、この深刻さに私たちが気付く前から、否、なお気づき得ない愚かさの中で、キリストが全ての者たちの罪を背負い、ご自分の重荷として担い、不条理の道を歩まされた、その苦しみであります。否、それ程までに私たちに注ぎ切ってくださった、愛そのものではないでしょうか。
先週、私はある人から「興味と関心の違いは何だと思うか」という問いを思いがけず受けまして、しばらく考え込んでしまいました。興味と関心。日常的には、この二つを厳密に使い分けることはほぼないように思います。学校教育でも、「子どもの興味・関心を育む」といった具合に、ほとんど二つを一つにして用いているのではないでしょうか。ところがこの二つは、私たちの心のありようにおいて、似て非なるものだということを教えられ、私は膝を打ちました。
興味とは、まず自分の中に興味の枠があって、その枠に好ましい仕方で当てはまる要素が、もし相手(人やモノ)の側に容易に見出される時、そこに興味という感情が自然に起こってくる、というのです。これに対して関心は、同じように最初は何らかの興味の枠を持って相手と接する訳ですけれども、しかしその自分の枠に納まる好ましい要素がもはや相手に何も無い。それどころか、ことごとくその枠から反れるような、好ましからざるものしか見受けられない。けれどもまさにそのような処で、立ち去ることなく、踏み留まって、文字通り相手に対して「心を関わらせてゆく」態度。または決心。ここに、関心の関心たる所以があることを教えられました。
愛の反対が、憎しみや恨みと言った負の感情ではなく、「無関心」という態度であるとは、しばしば耳にすることです。ならば、まさに愛とは、今述べたような意味での「関心」に生きることなのだという真実に気づかされます。憎まれ、裏切られてもなお、相手に関心を持ち続けることが私たちにはできるでしょうか。
しかし他でもない主イエスこそ、私たちに対する真の関心を貫かれたお方ではなかったでしょうか。何のいさおしもない私たち、主の御心を受けとめることができない過ちばかりを繰り返す私たちに対して、決して立ち去ることなく、そこに留まり続けて心を関わらせてくださいました。心どころか、その存在をかけて命を関わらせ、私たちを永遠の命へと導く友となってくださいました。
このキリスト故に、私たちは死してもなお、キリストのお甦りの初穂に連なって、復活の命に生かされる者にして頂いたのです。ただし、そこには順序があるとパウロは語ります。「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」(23節)。
まず初めに、キリストがあの十字架の死から三日目に甦られた。これは言うまでもないでしょう。では次にどんな人が続くのか。それは復活して天に上げられたキリストが再びこの地上に来られる時、つまり世の終わりの時に、「キリストに属している人たち」のことだと言います。これは要するに、キリストのものとされた人々のこと、キリスト者のことです。キリストの再臨の前に天に召されたキリスト者たちも、キリストの再臨時になおこの地上での歩みを続けているキリスト者たちも皆、甦りの命が与えられる。
問題は次です。「次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです」(24節)。
ここは一見、復活の順序とは関係のないことが書かれているようにも思います。最初にキリスト、次いでキリストに属する者たちと来て、では三番目に、という風に見ますと、一瞬あれと思ってしまう。しかしここは、もはや復活の順序というようなことではなく、むしろ復活の目的、つまりキリストの復活が究極的に目指していることは何であるか、ということが描かれていると読むべきでありましょう。
いったい、世の終わりの時、復活のキリストが再び来られるその終わりの時に、どんな目的が成し遂げられるというのでしょうか。英語の”end”が、「終わり」と同時に「目的」をも意味するのと同じように、まさに「そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡され」るのであります。そして、「すべての敵をご自分の足の下に置くまで」闘い続けるのだと言うのです。
ではあらゆる勢力の中で、最後までキリストに抗い続ける最大の敵とは何でしょうか。それこそが、死であります。しかしこの最後の敵である死さえ、キリストによって完全に滅ぼされるのです(26節)。まさに死の死。私たちをその足の下に置いて踏み潰し、勝ち誇っている死そのものが、しかしキリストによってついに滅ぼされ、完全に敗北するのです。なぜなら、「神は、すべてをその足の下に服従させた」(27節)からです。
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この27節の言葉は、本日併せて読まれました詩編第8編からの引用です。その一部をもう一度お読みします。「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」(6~7節)。
文脈から分かるように、御手によって造られたもの全てを、神が「その足もとに置かれました」と言われるのは、詩編の場合、人間の足もとであることが分かります。それ程までに、神は人を信頼し、「神に僅かに劣る」尊い存在としてお造りになり、その御心ゆえに、「栄光と威光を冠としていただかせ」て被造物を支配させたのです。これが神に造られた人間の正しい姿であり、神との正しい交わりにおいてこそ保たれる尊厳ある姿でありました。
ところが人は、「神に僅かに劣るもの」としての位置に留まることを良しとせず、それに飽き足らない欲望のただ中で、自らを神とする罪を犯し続けてきたのです。これが、アダム以来の私たち人類の姿であり、歴史に他なりません。そしてこの罪によって、私たちは死に至らしめられ、死の支配下に置かれる存在となったのです。この神との歪んだ関係は、結局のところ、私たちの尊厳も損なわれ、罪と死の虜となる他ない、不自由をもたらすものとなりました。
しかし神は、この不自由から私たちを解き放ち、罪と死からの真の救いを成し遂げるために、キリストにその使命を全て負わせたのです。そして神は、今や人の足もとにではなく、キリストの足もとにこそ全てを服従させることによって死を滅ぼし、死に至らしめる罪の縄目からも私たちを解き放って、私たちの尊厳を回復してくださいました。ご自身との正しい、愛の交わりの中に私たちを引き戻さずにはおられなかったからです。
ここに、神の愛に満たされた私たちの命があります。その命が、永遠に朽ちることのない確かな実を結ぶために、キリストの初穂が、今日も私たちの命の根っこで豊かに実り続けるのです。
<祈り>
天の父よ。信仰を求め、確かな信仰に生きようと努めながらも、空しさや惨めさが私たちを襲います。しかし私たちの信仰の確かさは、私たちの熱心さにあるのではなく、既に罪と死に勝利して甦られた主イエス・キリストの命の中にあるのだという希望が示されました。ありがとうございます。私たちに、永遠の実りをもたらす初穂となってくださったキリストの命を、どうか私たちが生きる命として、道として、歩ませてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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