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「家族の平和を願う主」

2022年7月17日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第7日)
牧師 朴大信
旧約聖書 創世記17:1~8
新約聖書 コリントの信徒への手紙一7:8~16

            

今朝与えられましたパウロからの手紙。これをお読みになって、どんな印象を持たれるでしょうか。とても良く分かる、と頷くことができたでしょうか。あるいは、言っていることが少し複雑で、希望を語っているのか、戒めを語っているのか戸惑う。もしかしたらこの中には、パウロの厳しい言葉の方に心を重くする方もいらっしゃるかもしれません。

けれどもまた、パウロは大変自由な人だ。そんな風に受けとめることもできないでしょうか。彼のストレートなものの言い方、それ故私たちには痛く響いたり、時に首をかしげさせたりすることさえあるのは、実は、パウロの自由さから来るものではないだろうか。その自由さが、ある意味で私たちに挑戦を持ちかけて来る。そんな風にも思えてきます。

パウロの自由。それは、好き勝手に振舞うことができる、という意味での自由ではありません。それはどこまでも、キリスト者の自由です。キリストのものとされた故に与えられる、恵みとしての自由です。キリストにとことん信頼して、従うからこそいただける、賜物としての自由です。その自由において、私たちもまた、例えば目の前にある状況を忍耐できる。それを避けるのではなく、受け入れることもできる。受け入れながら、何かを明るく決断して、前進することができる。そこで主の御心を信じることができるからです。主の御業を望み通しながら、歩めるようになるからです。


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さて、それにしても随分様々なことが書かれていました。今日は、前回読み始めました第7章の続きです。前回も申し上げたように、パウロはこの手紙を書く前に、既にコリントの教会から手紙を受け取っていました。しかしそれは、穏やかなお手紙と言うには程遠い、ほとんど訴えに近い内容の手紙でありました。コリントの教会で起きていた様々な問題がそこで暴露されながら、この問題、あの問題ついて、パウロ先生はどのようにお考えですか、と質問をぶつける。そんな差し迫った手紙でした。

それに答えるようにして筆を執ったのが、この手紙であります。パウロは彼らの訴えに対して、実に一つ一つ丁寧に応じながら書き送りました。特にこの第7章は、他と比べて長い章の一つに数えられる所ですけれども、しかしここでは、ある一つの事柄について、かなり分量を割いて書かれています。まだ今日も終わらないのです。この章の終わりまで、一貫して一つの事が続けて語られる。それは何かと言えば、「結婚」についてです。

前回の1~7節では、結婚についてのパウロの基本的な考え方が述べられました。そして本日の8節以下で、今度は結婚をめぐる、現実の様々な状況が具体的に取り上げられながら、パウロの教えが展開されます。順を追ってみれば、最初に未婚者と寡の場合が挙げられ、次いで既婚者の場合、そして最後は、既婚者の中でも、どちらか片方だけが信者である場合、という風に分けて語られています。


まず未婚者と寡、つまり独り身で生きている人々の場合ですが、パウロはそのような人たちに8節でこう言います。「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」。これは前回も聞いた言葉です。直前の7節でした。「皆がわたしのように独りでいてほしい」。パウロの詳しい結婚事情については、十分分かっていない所があります。しかし少なくともこの時点で、彼は独り身でした。その自分と同じように、今独身である者は皆、独りでいるのが良い。そう繰り返し勧めるのです。

ところが続く9節には、「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」と言われます。これも、実は前回の2節で同じ様なことが言われていました。「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」。

まるで結婚が、人の情欲を淫らな形で噴出させないようにするためのましな手段、あるいは、やむを得ない必要悪に過ぎないものであるかのような書き方は、少々理解に苦しむところでありましょう。しかしパウロの意図が、結婚を否定するものでも、また独身を絶対化するものでも無いということは、前回申した通りです。

むしろ彼は、夫婦間の健やかな肉体的な結びつきさえ求めながら、互いに自分を相手のために差し出すことさえできる、そんな自由で祝福された結婚を勧めたのです。しかし、そこには綺麗事では済まない困難があることも知っていた。だからこそ、その時は互いに納得の上で別れて、祈りに徹することを求めました。祈りを通じて、神の賜物と栄光を最もよく映し出すことのできる、そんな人間としての姿に真摯に生きることを、何より重んじたのでした。


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そのようにして、パウロは確かに、自分と同じように独身であることを皆に勧めながら、しかし結婚も、同じように重んじました。その点で彼は自由でした。人それぞれ、神から賜物を頂いて生きるその姿は違うのだと。縛られる必要はない、自由に生きて良いのだ。しかしだからこそ、パウロはまた、その自由につきまとう責任や、厳しさについても語ります。否、言い方を変えれば、その自由が、生みの苦しみを伴ってでも、私たちにもたらす真実なる望みこそを、ここでじわじわと語り出してゆくのです。

それが、この後10節以下で語られる教えです。ここでパウロは、今度は既に結婚している者に対して、教えを積み重ねてゆきます。そして10節と11節が教えていることは、明らかです。「妻は夫と別れてはいけない」。また同様に、「夫は妻を離縁してはいけない」。

これは、結婚している人は独身に戻ろうとするな、という教えでもあります。ここには、パウロが結婚を必要悪と考え、独身の方が信仰的に正しいと主張するような妙な臭いはしません。もしパウロが独り身を無条件に絶対化する立場だったなら、ここではとっくに、独身に戻りなさい、離婚しなさい、と勧めればよかったはずです。しかし、そうは教えない。別れてはならない。離縁してはならない。そう釘を刺します。しかも、「こう命じるのは、わたしではなく、主です」とあるように、離婚の禁止は、他でもない主イエスご自身の命令なのだと畳みかけるのです。


確かに福音書を見ますと、マルコによる福音書第10章をはじめ、幾つかの所で、主イエスは「神が結び合わせてくださったものを、人が離してはならない」と戒められました。この戒めは、特に結婚に対する考え方が多様化し、またそれ故に揺らいだり、苦しんだりすることの多い今の時代にあっては、改めて誠実に受けとめられるべき教えであることは、言うまでもありません。

しかし今日、一つ目に留まるのは、ここでパウロが単に主イエスの戒めを繰り返している訳ではない、ということです。この戒めに忠実であることをなお求めながら、しかし但し書きをここで入れるのです。それが、11節の二つのハイフンの間に挟まれた言葉です。「既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい」。つまり実際には、夫婦が別れてしまう現実があるということを、パウロも重々承知しているということです。

そしてだからこそ、彼は続く12節でさらにこう大胆に語ります。「その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが」。つまりこれから述べることは、主イエスが直接お語りになったわけではなく、あくまでもパウロ自身の考えであると、わざわざ断りを入れているのです。

このように述べるのは、そうせざるを得ない事情があったからに他なりません。パウロは12節以降の教えを、どんな人々に届けたのか。それは既に結婚している人の中で、今度は具体的にどちらか一方が信者で、他方が信者でない場合の夫婦に対してでありました。

これは、現代の私たちの教会においても、大いに共有できる事情だと言えるでしょう。これを祈りの課題とされている方々のことを、私たちは知っています。しかし、まさにこのようなケースが、既にパウロの時代から切実な課題となっていたのです。そしてこのことは逆に、主イエスの時代にはほとんど問題にならなかったことでもありました。なぜなら、先ほどの離婚を戒める主イエスの教えは、実は既に夫婦が共にユダヤ教の信者であって、互いに神の契約の民であることが前提で語られていたからです。ところがパウロの異邦人伝道においては、この主イエスの教えには想定されていない現実の問題と対決しなくてはならなかった。そんな事情がありました。


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こうして、パウロは新しい問題に立ち向かいます。ではその姿を支えた力とは何でしょうか。教会指導者としての責任感でしょうか。あるいは、主イエスの権威を笠に着ることでしょうか。しかしまた、キリスト者としての自由でしょうか。

パウロのここでの教えは、またしても明白です。夫婦のどちらか一方が信者で、他方が信者でない場合、たとえ信仰を共にすることができなくても、信者でない相手が共に生きることを望んでいるならば、離縁してはならない。そう教えます。やはりここでも、まずは主イエスに教えにならって、別れることをはっきり戒めるのです。けれども、パウロは15節ではこうも言うのです。「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません」。

私はあらためて、まさにこういう所に、パウロの自由さが感じられてなりません。「離縁してはならない」と一方では戒めつつ、しかし他方では、「相手が離れていくなら、去るに任せなさい」とも言う。要するに、結婚に縛られてはいないのです。そこにはやはり自由がある。けれども今日のパウロの教えは、その自由を、結婚するも自由、離婚するも自由、という個人の選択の自由という意味だけには留めていない所に、私たちは注目させられるのです。

むしろパウロは、その自由を、特にキリスト者として与えられている自由という観点に立って、実は逆接的な教えを語っていたのではないか。つまりあなたたちには、キリスト者の自由という賜物がある。しかしまさにその自由故に、もしも信者でない相手があなたと共に生きることを望んでいるならば、何となしにではなく、ただ我慢するのでもなく、積極的に離縁しない道を歩んでいけるはずだ。そんな教えの方に強調点が置かれているように見えるのです。


なぜそう言えるのでしょう。14節の言葉が大事です。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」。

心に留めておきたいのは、「聖なる者」という言葉の意味です。もしこれを、己の信仰による「清さ、正しさ」という意味にとってしまえば、信者は清く正しい者だが、信者でない者はそうではない、ということになります。しかしそれは信仰者の傲りでありましょう。信仰者が、そうでない人と比べてより清く、正しい等ということはないからです。誤解を恐れずに申せば、信仰を持たない世間の人々の中には、教会の信者よりよほど立派で、清く正しい人はたくさんいるものです。

聖書が語る「聖なる者」とは、信仰によって、自分が清く正しくなるということではありません。ただこの自分が神のものとされている、この一点に根拠を持ちます。信仰者は、自らの清さによってではなく、神のものとされたことによって「聖なる者」なのです。信者ではない夫や妻が、信者である妻や夫の故に聖なる者とされる、というのも、そういう意味で理解されなければなりません。

信仰者自身の清さが、相手にも伝播するというのではないのです。どこまでも私たちをご自分のものとし、御手の内に留めてくださる神の力こそが、実は私たちを通して、さらに信者でない妻や夫にも及ぶということに他なりません。そのような見えざる神のお働きが、あなたを用いて今も行われているのだから、与えられている結婚生活を大事にして、信者でない夫や妻と共に生きる歩みを、いま一度大切にしなさい。そう教えられているのです。


この神の御業の広がりを強調するために、パウロは14節の後半でさらに、子どもたちのことにも言及します。「そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」。

この「汚れている」という言葉も、注意が必要です。これは特別何か悪いことをなして汚れてしまった子どもの姿を指すのではなく、「聖なる者」でない姿、つまり神のものとされていない姿のことが、このように言い表されているのです。そうすると、片親だけが信者であるにすぎない両親の子どもは、汚れた者ということなのか。聖なる者とは言えないのだろうか。そうではない。既に彼らも聖なる者。パウロはそう語ります。それ故この事実は、信者でないあなたの夫や妻が聖なる者とされることへの、約束の橋渡しともなるのだ。

実はここには、ユダヤ教の信仰理解が背景にあります。ユダヤ教においては、片親だけがユダヤ教徒つまりユダヤ人である子どもも、ユダヤ人と同様にみなされました。ユダヤ人であるということは、イスラエルの民。すなわち、神の民、神のものとされた聖なる者であるということです。したがって、親の一方が聖なる者であれば、その子どもも聖なる者であるという約束がここにある。それと同じように、たとえ片親だけがキリスト信者であっても、その子どもはもう、神の御手の内に置かれているのだ。これを土台とすれば、信者でない夫や妻の祝福も、より一層信じることができるではないか。


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以上をもって、パウロが私たちに伝えているものは何でしょうか。15節後半に、こう記されています。「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」。祝福の言葉です。それは離縁をしない家族にも、また離縁をした家族にも与えられる、平和な生活の約束です。そのように、神が全ての者を召し出してくださっていることの約束です。

しかし私たちが今日、ぜひ心に納めておきたい望みは、家族の中にたった一人の信仰者が存在することの、計り知れない尊さです。なぜなら神は、その一人と出会ってくださる時、実はその一人を通して、愛する家族の者たちにも出会おうとされるお方だからです。そのように家庭全体を、限りない御手の祝福の内に置いていてくださるお方がおられる。だから私たちもその神の御業を信じながら、ここに与えられた家族の一人一人を、一層の慈しみをもって大切にしたいのです。そして今、この自分が信仰を与えられて生きていることの意味、尊さを、神の眼差しの中で受け取り直したいのです。

本日、創世記のアブラハム物語の一部をお読みしました。この17章には、信仰の父と言われたアブラハムに、神の祝福が約束される場面が描かれます。その祝福は、しかしアブラハムだけに約束されたのではありません。彼の子孫に対しても、祝福が祝福へと連なる恵みの中で、与えられ続けるのです。私たちの救いの約束も、そのように家族の平和を願われる主の計り知れない御心の中で与えられ、そして用いられるのです。

今日の結びの16節で、パウロは次のような厳しい言葉を残しました。「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」。しかし私たちは今、パウロの祝福の言葉に支えられながら、そしてキリスト者として与えられる自由に立って、次のように新しく受け取り直すことが許されるでしょう。「妻よ、あなたは夫を救えないとどうしてわかるのか。夫よ、あなたは妻を救えないとどうして分かるのか」。主なる神からの祝福が、代々限りなく満ち溢れますように!

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