2023年6月25日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第5主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 エゼキエル書13:1~7
新約聖書 コリントの信徒への手紙一14:26~40
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今朝与えられましたパウロの手紙の中で、おそらくどの方の目にも留まり、また心に引っかかっていらっしゃるかもしれない箇所を一つ挙げるとすれば、34節の言葉だったのではないかと思います。「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」。
教会の中で、女性たちが語るのを戒める教えです。厳しいと思われるかもしれません。しかし実際、これまでの教会の歴史ではこの言葉が大きな影響力をもつことによって、例えば、女性の聖職者を認めない教会が今日でも存在しています。あるいは、教会の役員・長老の職にも女性が就けないような教会もあると聞きます。
しかし言うまでもなく、そうではない教会が数多くあることも、私たちは知っています。私たちの教会の歩みを振り返りましても、今年99周年を迎える歴史の中には女性牧師も確かにいましたし、その牧師に導かれて洗礼を受けた方も今ここにいらっしゃいます。歴代の長老の顔ぶれを見ましても、今も昔も女性は何名もおられ、こどもの教会の教師たち等も含めて、教会のために献身的に尽くしてくださる女性たちのお姿は、誠に目覚ましいものがあり、感謝にたえません。もっとこれからも増えて良いはずでありましょう。
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それならばパウロはここで、時代錯誤や見当違いのことを言っているだけなのでしょうか。しかし私たちはこの手紙を続けて読んで参りまして、例えば既に第11章において、パウロがこのように述べていたことを知っています。「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら……」(5節)。
これは、礼拝における頭の被り物に関してパウロが言及している所ですけれども、しかしその前提として、女性たちが教会の中で「祈ったり、預言したりする」という場合が挙げられているわけですから、決してその行い自体が否定されているのではないのです。では肯定なのか否定なのか、矛盾していると思われるかもしれませんが、しかしパウロはここで、少なくとも、教会で行われる礼拝や集会についての事細かな規則やルールを定めようとしていた訳ではありません。
逆に言えば、時代や場所が変わっても、いつでもどこでも通じるような教会の規則やルールを作ろうとしたのではないということ。そうではなく、あくまでもこのコリントの教会の中で、どうしても厳しく戒めなければならないような事が起きている現実に対して、パウロがある確信に立って、こうした言葉を発したということです。
同じことは、今日の他の教えについても言えます。例えば27節。「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい」。異言とは、この第14章ではお馴染みですが、霊的な興奮状態に陥って周りが見えなくなり、したがって人への心遣いもできなくなって、ただ舌が動くままに発する言葉のことです。それは要するに、聞いている人にとってはまるで外国語のように意味不明な言葉。そういう異言をもし語る者がいたならば、教会ではせいぜい二、三人に制限して、しかもその言葉を解釈して通訳する者を一人必ず立てなさい、と言われる。今日でも異言を語る教会はあるようですけれども、しかし、今日のパウロの言う通りのことが本当に守られているかどうかは、定かでありません。
あるいは、さらに29節にはこう記されます。「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」。預言。これも第14章では、先ほどの異言と対になる言葉ですけれども、神様から預かった言葉。つまり私たちに届けられるべき言葉として、神がある人を語り部に立てながら語ってくださる言葉。分かる言葉で語られ、私たちを生かす命の言葉です。今日で言えば、牧師による説教のことです。しかし今日、一つの礼拝の中で牧師が二人も三人も説教をするでしょうか。あるいは、その言葉を聴く者たちは、後でこれを共に検討したり吟味したりすることがあるでしょうか。
こうしてみますと、女性に関する戒めにしても、あるいは異言や預言に関する教えにしても、パウロはここで絶対的な規則を確立させようとしたというよりも、むしろこのような厳しい言葉を重ねながら、本当は何を求め、伝えようとしたのか。そのことを私たちも汲み取ってゆきたいと思うのです。そしてその思い・真意は、実は最初の26節に記されていました。「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」。
「すべてはあなたがたを造り上げるために」。教会で様々に語られ、なされることの全ては結局のところ、私たち自身を造り上げるものとならなければならない。そうでなければ、全ては空しいからです。全ては私たちが造り上げられるため。私たちがキリストの愛を注がれ、その愛によって満たされ、愛の人となるように練り上げられてゆくこと。そこにこそ、パウロは真の教会の姿を、真にキリストの体としての教会が建て上げられてゆく姿を、見ていたのです。
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ところで、この「すべてはあなたがたを造り上げるために」という目的。そしてそのために、「婦人たちは、教会では黙っていなさい」という今日の教えが言われているということに関連して、一つ思い起こすことがあります。ちょうど先週の日曜日、息を引き取られて天に召されたM.N姉のことです。
Mさんはある意味で、私たちを造り上げるために語られる教会の預言の言葉に対しては、常々黙っておられるというより、静かに黙しておられる方だったと言えるかもしれません。と申しますのも、ご葬儀の中で一つ紹介をさせて頂いたのですけれども、かつてMさんが「おとずれ」に寄せてくださった文章から、そう思わされるところがあったからです。
Mさんは1992年に、それまで所属されていた大阪の教会から、松本東教会に転入会をされて来られました。以来、こちらでは30年余りの教会生活を過ごされたことになります。ところが、今回のご葬儀を準備する中であらためて分かりましたことは、Mさんのご家族が松本に越して来られたのは、実は1980年代初頭だったということです。つまり松本に生活の拠点を移され、引き続き安定した教会生活を送るまでに、言ってみれば10年以上の歳月を要した、ということです。
いったい、この10年は何を意味していたのだろうか。もちろん、そこには様々な事情があったはずですから、一概には言えません。しかしまさにこの点について、Mさんご本人が静かに告白をしてくださっていたのです。それが、「おとずれ」に掲載された文章です。1992年に転入会された当時、自己紹介も兼ねて、これまでのご自身の歩みについて振り返りながら綴ってくださった証しです。
長い話を要約すると、こういうことです。松本に転居してから、すぐに教会探しを始めた。幾つか回る中で、この教会にも足を運ぶことになった。ところが続かず、次第に足が遠のいていった。当時、教会生活はおろか、ご自身がおっしゃるには「急速に信仰を失っていた」とさえ言います。
他方、籍をそのまま残していた大阪の教会からは、毎月、週報等の郵送物が届いていたようです。しかし実際に通える教会ではないし、そうかといって、松本での教会生活もなかなか覚束ない状況が続いていたことから、だんだんとその郵送物を受け取るのが苦痛になっていった。一度はお断りの連絡を入れたけれども、どうも教会には聞き入れて頂けなかった。
すると、ある時からその郵送物の担当者が代わったそうで、その新しい方は、かつて大阪時代、Mさんが教会の婦人会で親しくしておられた方だと言います。毎回の郵送物には必ず一筆、挨拶や教会の様子などが添えられている。最初の内は、それがありがたいと思ったけれども、しかしこれもだんだん苦痛になっていった。封を切らないでそのまま放置する時間も積み重なった。「逃げても逃げても追いかけて来る」感覚だったと言います。
ところがある時になって、Mさんはふと気づいたと言います。この郵送物は、人からのプレッシャーではなく、イエス様からの招きではないかと。自分の魂の最も深い所、そこを見つめてくださっている方がいる。自分をそこから導き出して迎え入れてくださる方がいる。そのように気づかれて、何か吹っ切れた思いで、ようやく松本東教会に再び足を向けることができたのだと。そしてそこには、実はそれまで時折「おとずれ」等をMさんに送ってくださっていたS.K姉のお働きもありました。
以上の証しをご葬儀で紹介しました時に、後でご遺族のある方が感慨深そうに、こう仰いました。「昔から教えをしっかり受けていた人は(信仰をもって生きる人は)、たとえ途中で離れることがあっても、”気づき”というものが与えられるのですね。帰って来れる場所があるのですね。そのことを強く思いました」。
私も同じように思いました。そしてここに、一匹の迷える小羊の聖書の譬え話が重なってきました。失われた小羊を、最後まで諦めずに探し出し、群れの中に連れ戻してくださる主イエスの姿を思わずにはおられなかったのです。しかもこの主イエスの約束の真実を、Mさんは、言ってみれば口を開いて語ってくださったというより、むしろ黙しながら、まさにご自身の生き様を通して私たちに示し、豊かに証しをしてくださったのではないでしょうか。
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パウロの今日の手紙の言葉に、あらためて注意深く耳を傾けてみますと、この、口を閉ざして黙することの大切さが、繰り返し訴えられているように思います。「黙りなさい、黙っていなさい」という言葉が何度も出てくる。中でも特に注目したいのは、29~30節です。「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」。
この言葉からイメージできる光景は、このような感じでしょうか。ある人が礼拝の集会で預言の言葉を語っている。すると、それまで座って聴いていた人の誰かに「啓示」が与えられる。その人は手を挙げて立ち上がるのでしょうか。「今、神様からのお示しがあった」と言いながら、今度はその人が預言の言葉を語り出す。そうなったら、「先に語りだしていた者は黙りなさい」とここで言われるのです。
つまり、先に語っていた人は、次に啓示を受けた人が現れたら、そこでバトンを譲るということです。ここで大切なのは、人間の思いが優先するのではなく、神の霊が支配しているということです。神の霊の働きがそこに流れ、その流れを重んじながら委ねるということです。
そもそも、ここに出てくる「啓示」とは何でしょうか。ならすと、「ひらき、しめす」と読みます。誰が何を啓き示すのかと言うと、神の霊が、御心を啓いて、人に示してくださる、ということです。主導権は神の側にある。私たちが開き示すのではないのです。
実は26節をもう一度読みますと、そこに「あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈する」とあります。日本語の訳としてはこれで良いのですけれども、しかし元のギリシア語では、ここは「持つ」という言葉がことごとく使われています。詩編の歌を持つ。教えを持つ。啓示を持つ。異言を持つ。解釈を持つ。言ってみれば、これらは皆、自分の手の内に持つことができる程に、神様からの霊の賜物として、その人に深く深く注がれているということです。
しかしそこで勘違いしてはいけない。神から与えられている賜物を自分の所有物と錯覚してはならない。自分の手に握りしめながら、それをあたかも自分の手柄のように誇り、人々に開き示し、自己陶酔に陥ってしまうようなことがあってはならない。黙ることをせず、愛を欠く言葉を一方的に並べ立てて人を惑わすことは、教会の姿を崩すことだ。それがパウロの心ではなかったでしょうか。
要するに、いつでも自分は黙って、啓示を与えられて語る人の言葉に潔く聴くことができるかということです。そうした姿勢を失い、自分が語ることにしか思いが至らなくなってしまう時、実は預言も、異言となってしまうのです。相手を惑わせ、届かない言葉、つまり、愛をもって、相手を豊かに造り上げることができない言葉となってしまうのです。
人の言葉に耳を傾けることがなぜそこまで大切なのか。それは、それによって私たちが、神様の御言葉を聴くことができるからではないでしょうか。私たちが黙るのは、人の言い分を公平に聴くためということもありますが、それ以上に、そこで本当に神の語りかけを聴くことができるようになるためです。自分がついつい固執している様々な思いが振るいにかけられながら、そこで澄んだ神の声にこそ耳を立ててゆくためなのです。
だからパウロは呼びかけます。「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」(31節)。そして続けてこう言うのです。「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」(32~33節)。
今ここで、皆が励まされるようにしながら一人、また一人と預言を語る者が現れる。自分を黙らせ、あの人をも黙らせてでも、今、この一人の人に語らせる権利を与える程に、神の霊が上から注がれている。そのように神の霊の息吹が循環している。その霊こそが、その場を支配し、集まる人々もその霊の働きに身を委ねるのです。
するとそこには、自ずと語る者が立てられ、聴く者が起こされ、黙る者もいる。神の権威を中心として、互いを重んじ合う交わりができてくる。そしてそこにこそ、実は教会の秩序が生まれて来る。礼拝の秩序が形造られる。「神の平和」が満ちてゆくのです。パウロがこの第14章で様々に求めていた教会の秩序とは、決して律法主義的に人を縛り付けるようなものではなかったはずです。むしろ、神の霊の権威こそが生み出す秩序です。しかもその秩序は、「平和の神」が約束してくださる、まさに平和そのものなのです。
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その神によって与えられる平和とは、どのようなものでしょうか。最後に一つの例を紹介して、私たちもこの神の平和、神の平安に満たされたいと願います。
ある小学生のAちゃんが、教会の礼拝が終わってから牧師先生にこう聞いたそうです。「先生、私の取柄って何?」。「Aちゃん、何でそんなことを聞くの?」と牧師。するとAちゃんはこう説明します。「だってクラスの友だち、みんなスゴいんだよ。○○は頭いいし、△△はピアノが上手で足も速いし、□□は美人だし…。でも私には何の魅力もないの。先生、私の取柄って何?」。
その牧師は少し困ったように、こう答えたそうです。「うーん、Aちゃんの取柄は、Aちゃんが、いつもAちゃんのままでいる、ってことかなぁ」。これを聞いたAちゃんは、首をかしげながら、「先生の言っていること、全然分かんなーい」。そう言い残して、教会を後にしました。
しばらくして、再びAちゃんが教会にやって来ました。「昨日、お母さんに聞いたの。私って、取柄がないけれど、Aのこと好き?って。そうしたらお母さん、『Aの取柄は、AがAだってことだから、それだけでお母さんはAがかわいくて、しょうがないよ』だって。何かまだ良く分かんないけど、嬉しい!」。そう伝えて、Aちゃんは元気に走りながら友達の輪の中に入って行きました。
私が私のままであることが、愛する(愛される)に値する決定的な理由であるということ。他に何の条件も、特別な取柄や繕いも必要とされない安心感。ここに、他の何にも代え難い神の平安が満ちています。私たちの社会ではしばしば、何ができるか、何を持っているか、ということだけがその人を測る価値の基準となり、比較され、評価されます。そして必要とされれば喜んで使われるけれども、不要となればたちまち使い捨てにされる。
自分にはいったい何の取柄があるのか。この世の物差しで測る時、自分には価値がないように思えて来る。あるいは、他と比較しない場合であっても、やがて老い、病を得て、朽ち果ててゆくこの自分の体、人様に世話になりっ放しのこの自分の命に、耐え難い辛さを感じ始める。そんな崖っぷちに追い込まれると、本当に身も心も荒んで、とても平安ではいられなくなるのではないでしょうか。
そのような私たちに向かって、しかし神は「あなたの存在こそが喜びだ!」と呼びかけてくださる。神を見失って的外れに生きてしまっている私たちの惨めな姿に、しかし神は慈しみの眼差しを注いで、「我が子よ!」と呼び求め、探し出してくださる。決して諦めることのない神ご自身のご決意が、あの十字架上で磔にされた、御子イエス・キリストの姿に外なりませんでした。我が子を犠牲にしてでも、私たちをご自身の許に取り戻す神の愛、神の平安が、私たちを立ち上がらせ続けるのです。
<祈り>
天の父よ。あなたが与えてくださる秩序の中で、この礼拝が守られている恵みを感謝いたします。どうかここに、あなたの真の平和を成し遂げてください。聖なるあなたの息吹の道筋に従って命の言葉が語られ、それを黙して聴き取り、分かち合い、そしてまた伝えてゆく喜びに私たちを生かしてください。ここに「平和なるあなたがいらっしゃる!そのあなたの御前にこそ、畏れと讃美をもって立とう!」という思いが、一人一人の心の内に溢れますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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