2022年12月25日 主日礼拝説教(降誕節第1主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 創世記18:13~15
新約聖書 ルカによる福音書1:26~38
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昨日のキャンドル礼拝では、聖書に記された様々なクリスマス物語から、幾つかを読み繋いでいきました。本日お読みしたルカによる福音書の箇所は、言うまでもなく、乙女マリアにスポットライトが当たっていますが、昨日は、夫となるヨセフに焦点が当てられたマタイによる福音書第1章18節以下もお読みました。
そこに、このような一節があります。「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」(20~21節)。
イエス様がお生まれになるのには目的がある。それは、ご自分の民を「罪」から救うためだと言われるのです。いったい、罪とは何でしょうか。聖書が伝える最大の罪とは何でしょうか。それは何よりもまず、人に対する罪ではなく、神に対する罪です。神に対する不従順と言っても良いでしょう。創世記のアダムとエバに始まる、あの神に対する不従順こそが罪の始まりの姿であった。
この不従順さは、神に直接歯向かってゆく方向だけに現れるとは限りません。むしろ神に背を向けて離れてしまう。否、離れるだけでなく、どんどん的外れの方向へと反れていってしまう。そうしながら、やがて神の思いではなく、自分の思いだけで生きてゆこうとする。その極みは、自らを神として生きる姿に他なりません。
主イエス・キリストの誕生は、まさにこの罪から、私たち人間を救い出すことを目指します。しかしこのことは、私たちがもう罪を犯さなくなって、突然、聖人にように清くなることではありません。そうではなく、神から離れ、的外れに生きていた者が、再び神の恵みの許へと連れ戻されるということに他なりません。そしてそこに、神と共に歩む信仰が与えられるということです。
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今朝与えられましたルカ福音書の御言葉に、神と共に歩んだ一人の女性の姿が描かれていました。神に対して、従順に生きたマリアです。
今日の物語は、いわゆる「受胎告知」と呼ばれる場面です。天使ガブリエルが、ある時マリアの所に現れて、神の子を産むと告げる。これに対して、マリアは従順に受けとめてゆく。そして最後にこう言うのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。そう言って、マリアはこの後、親類のエリサベトを訪ねてさらに祝福を受け、喜びの讃美を歌い上げます(「マリアの讃歌」)。
けれども、私たちが今日一つ注目したいのは、マリアは最初からこのように喜びに満たされ、神に従順であったわけではないという点です。むしろ、このような姿に変えられていった。もっと言えば、このように変えられてゆく所にこそ、実はクリスマスがクリスマスであり続ける真実がある。そこに着目したいのです。
このあたりの消息については、既にこどもの教会におきましても、奉仕する教師たちによって語られたことがあります。その中で以前、こんな大変印象的な絵が紹介されました(シモーネ・マルティーニ(Simone Martini)『受胎告知』、1333年)。受胎告知を描いたこの絵の特徴は、やはり何と言っても、マリアの姿です。どうでしょうか。明らかに、従順な姿ではありません。それどころか、とても迷惑そうな顔、嫌そうな表情が、極端な程までに強調されています。
確かに聖書は、天使から御告げを受けた時の最初のマリアの姿を、こう記していました。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)。マリアは従順どころか、明らかに初めは戸惑ったのです。考え込んでしまったのです。「あぁ、どうしよう」と頭を抱えながら、困り果てていたかもしれません。そして聖書は、そういう私たち人間の率直な姿を、決して隠すことなく記すのです。
とんでもないことが今、身に起きようとしている。困ったなぁ。嫌だなぁ。そんなマリアの心の声が、漏れて聞こえて来そうです。事実、彼女は天使にこうぶつけていました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)。
既にこの時、マリアはヨセフのいいなづけではありましたが、正式な夫婦としては結ばれていませんでした。したがって、「男の人を知らない」。つまり、まだ子どもが生まれるような状況には至っていなかったということです。にもかかわらず、思いがけず身籠ってしまった。もしこのまま本当にお腹が膨めば、周囲に何と説明すればよいだろうか。否、律法の教えに照らせば、淫らな女と指さされて、石打の刑にあってしまう。そんな不安や恐れさえも募らせていたに違いないでしょう。何が恵みだ。ありがた迷惑、とんだ迷惑だ!
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昨日のキャンドル礼拝では、同じくこのマリアにスポットライトを当てながら、クリスマスの意味を考え直す機会が与えられました。そこで鍵となったマリアの姿は、「沈黙」です。
今日の場面の少し先になりますが、ルカの第2章に羊飼いたちが登場します。彼らの所にも同じく天使が現れ、救い主の誕生が告げられました。驚きながらも、しかし急いでベツレヘムに向かいます。そしてついに、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。宝を探し当てたような喜びが溢れました。だからその出来事を、彼らは興奮しながら周りの人々に伝えました。
ところがその喜びの陰で、母となったマリアは一人静かに、口を閉ざすのです。「すべて心に納めて、思い巡らしていた」(19節)。彼女は、自分の身に起きてしまった信じられない不可解な出来事を、しかしじっと心に納めてゆく。思いを巡らせ続けてゆく。そして実はこれこそが、その後のマリアの生涯を貫く大切な姿となってゆきました。彼女はこの後も、幾度も幾度も、不思議で不可解な出来事を経験することになります。しかしそこで、同時に神の言葉も聴き取ってゆくのです。聴きながら、目の前の現実と擦り合わせてゆく。噛み合わせるように反芻してゆく。
これは、私たちの信仰生活のあり方について教えてくれる姿です。そしておそらく、今日の受胎告知の場面でも、マリアのそうした姿があった違いありません。否、そうであったからこそ、変えられていった。一つの境地に辿り着いた。従順になることができた。
このマリアの姿は、一見、人間の側の自力の営みのようにも映ります。いったいどんな風にすべてを心に納め、思い巡らせば、彼女のように従順になれるのか。知ることができるのなら、ぜひ学ばせて頂きたいものです。けれども聖書には、そうしたノウハウ、あるいはマリアの心の変化を心理学的に分析した記述は一切ありません。むしろ、人間の関心を越えたところに目を向けさせるのです。
それは、この出来事が、どこまでも神の祝福に挟まれて起きているということに他なりません。神から遣わされた天使ガブリエルが、マリアに告げた最初の言葉はこうでした。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。しかしマリアは、これに戸惑いました。ところが、そのマリアの姿を包み込むようにして、天使はさらに続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(30節)。
ここに恵みが畳みかける。押し寄せている。でもいったい恵みとは何でしょうか。それは私たちにとって、当然良いものであるはずです。けれども、それはどこまでも、神ご自身が私たちに贈り届けてくださる良いものです。神が既に先を見通して、最も良いものを、最も良い時に与えてくださるもの。ですから、逆に言えば、神ではない私たちには、それが恵みかどうかは最初からは良く分からない、ということでもあります。私たちの期待や基準ですべて納得できる仕方で訪れるものではないのかもしれません。マリアのように、かえって困ってしまうようなものにさえ映ることもあるのです。
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この恵みが、しかし今、マリアの所に訪れている。マリアの思いをはるかに超えて降って来ている。迫って来ている。マリアだけでなく、すべての民が罪から救われる良い出来事が、今ここに起こされようとしているのです。そしてこの「恵み」は、この後「聖霊」という言葉と繋がって、さらにマリアに近づきます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。
ここで、もう一つの絵をご覧に入れたいと思います(サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli)『チェステッロの受胎告知』、1489年)。
これも同じく受胎告知の絵です。そしてこの絵の特徴も、やはりマリアです。しかしこの画家の解釈によって描き出されたマリアの姿は、何と言っても、その腕が注目されることでしょう。マリアは天使の御告げに対して明らかに身を引きながら、同時に右腕を差し出している。もしここに彼女の声を聴きとることが許されるなら、私には「ちょっと待って」という風に聞こえてきます。
ちょっと待って。いったい何ですか、突然。なぜ私なのですか。なぜ、今この時なのですか。そんなそんな、困ります。ちょっと待ってください。やめてください。もうこれ以上、入り込まないでください。お願いです…。そんな、マリアの悲痛にも似た声が聞こえて来そうです。そして彼女のありったけの思いが、今、この一つの腕に込められているように見えます。
ところが、この絵のもう一つの特徴は、そのマリアに向かい合う天使の姿です。マリアよりも低い位置に置いて、屈みこむような姿を描いてみせているのです。これは、天使が神から遣わされて、降って来た事を意味しています。しかし地上に降って来て、マリアの上に留まったのではありません。マリアよりもさらに低い所にまで降りて来た。そしてマリアに神の恵みを告げて、聖霊の降りを宣言しました。その低きに降る、神の祝福の深さが伝わってきます。
そしてさらに、この天使は、「ちょっと待った」と差し出すマリアの掌を、正面から見つめます。そしてその困惑した手を、まさに下から受けとめるようにして、握りしめようとしています。否、包み込もうとしているようみも見える。この絵は、実はその瞬間を描いたものにさえ見えてくるのです。聖書が告げている通りのことが、ここで起きているからです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)。
マリアの戸惑いや不安、恐れ、疑い、それらすべてが詰まった手を、天使がじっと見つめている。否、神の恵みそのものが、聖霊と共に、今その下から支えるようにして、マリアの手をギュッと握りしめようとする。まるごと包み込んで、祝福で満たそうとしている。
いったい何がここで起きたのでしょうか。しかしマリアはこの後、確かに変えられていきました。戸惑うばかりでしかなかった天使の御告げを、ついに受け入れたのです。神の御心に従順となり、神と共に歩む人として立ち上がらされていったのでした。
それは決して、マリアが今ここで、すべてのことが分かったからではありません。すべて納得できる仕方でこれからのことが明るく見通せたからではないのです。むしろ不安や疑いは、今なお完全には拭い去られていなかったのかもしれません。けれども私たちの希望は、その不確かな姿を完全に圧倒する神の確かな祝福に包まれる時、和らげられ、平安に満たされるということです。そして私たちは変えられてゆくのです。どんな時にも、神と共に生き、神の救いの業の中に入れられて歩む者へと。
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いったい、クリスマスとは何でしょうか。私たちは確かに今日、所定のアドヴェントの期間を経て、クリスマス礼拝を迎えることができました。そういう意味では、まったくの予定通りです。しかし、今日私たちに与えられた福音書の言葉が告げるクリスマスの姿は、むしろマリアの「ちょっと待って」に対する、神の「待ったなし」の出来事だったとは言えないでしょうか。私たち予定や計画を乗り越えて、一方的に迫って来る、神の待ったなしの訪れです。
あるいは、こう言い換えても良いでしょう。私たちのあらゆる「否」に対する、神の「然り」こそが貫かれた出来事。それがクリスマスの真実ではないでしょうか。私たちの身に起こることは、すべて良い事ばかりではありません。むしろ受け入れ難い事。信じ難い事。やり直したい事。そのようなことに溢れている現実です。今日この日も、穏やかにクリスマスをお祝いする余裕や心持ちになれない人がいらっしゃるかもしれません。
そのような所に、しかしクリスマスは既にやって来ているのです。神の恵みがもう訪れているのです。私たちのあらゆる不安、あらゆる疑い、あらゆる嘆き、あらゆる悲鳴、空しさ、そして一切の絶望の壁を打ち破って、この私たちの所に、神の「然り」が届いている。すなわち、私たち一人一人を良しとする神の限りない祝福、この祝福こそが届けられているのです。そのように私たちを通して、神の救いの業はもう始まっているのです。
今日のマリアのように、それはすぐに分かるものではないのかもしれません。救いどころか、呪いとしか思えない時間が長く続くこともあるかもかもしれません。マリアが救い主イエス・キリストを胎に宿している間も、まさに文字通り、その救いは見えませんでした。否、生まれてからも、すぐには分かりませんでした。けれども、神の救いは隠された形で、私たちの現実の中に宿されているのです。否、もう訪れて動き始めているのです。そして今起きている現実の意味を、神の祝福の中で受けとめ、神と共に喜ぶことができるようになるのです。
私たちは今日、この喜びの知らせを神の言葉から聴き取りました。しかし聴くだけではありません。この救いを、自らの歩みの中で、そしてこの主にある交わりの中でこそ、確かに見ることができる者にされているのです。キリストはそのために来られました。どうか「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包」みますように!
<祈り>
天の父よ。クリスマスの恵みを感謝します。キリストの訪れを感謝します。「神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」。どうか、この御言葉こそが成りますように。私たちのあらゆる思いと現実を打ち破って、ただあなたの救いの御業が成し遂げられますように。そしてマリアの従順を通してキリストが誕生し、救いの御業が始まったように、どうか私たちにも聖霊が深く注がれ、あなたの御前で従順な者へと変えられてゆく真実の中で、あなたの救いを見させてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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