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「御心を待つ祈り」

2022年3月6日 主日礼拝説教(受難節第1主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 創世記45:1~8
新約聖書 マタイによる福音書6:9~10

              

月に一度の「主の祈り」についての説教を始めて、早くも半年目を迎えました。主の祈り。主イエスご自身が、祈る時にはこう祈りなさいと、実際に弟子たちの前で祈ってくださった祈りです。

ところで、そもそもなぜ、主イエスは祈るということを大切にし、そしてその大切さを、私たちにも教えてくださったのでしょうか。それは私たちが「気を落とさないため」です。今日の箇所から少し離れますが、ルカによる福音書第18章1節にこう記されています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」。

この譬え話の詳細については、今日立ち入ることはできませんが、しかし主イエスはここで確かに、「昼も夜も叫び求めている」者たちのことを、神が「いつまでもほうっておかれることがあろうか」と反問されます。そう問いながら、どんな祈りをも聞き入れてくださる父なる神の懐の奥深さを強調すると共に、だからこそ私たちも、気を落とすことなく、この神に祈り求め続けることの必要を説かれるのでありました。

私たちは時に、否しばしば、気を落とすことがあります。物事がうまくいかずに元気をなくす。望まない現実を突きつけられて落胆する。失望する。そしてそのような時、私たちはまた実にしばしば、祈りの言葉を失います。祈ることすら忘れことだってあるかもしれませんが、しかし多くの場合、祈ろうとしても、何をどう祈ったらよいものかと、つい溜息をつくのです。

祈りの言葉を失う。気を落としてしまう。運命にのみ込まれ、立ち上がることを忘れ、諦めの内に沈み込んでしまう。けれどもまさにそのような時、私たちには主の祈りが与えられています。神の姿が見えなくなり、神の声が聞こえなくなり、そして神の御心も分からなくなってしまうそんな地上の歩みにあっても、主の祈りを祈ることで、私たちは主イエスと共に、神を呼び続けることができます。

そして呼び続けながら、実は私たちの方が神に呼び出されている真実に気づかされてゆくのです。この祈りの言葉を通して、神ご自身が、その大いなる御心の内に私たちを召し出してくださり、御心がこの地上で実現するために私たちを立ち上がらせて、連れ出してくださっているのを見るのです。


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「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。

今朝もご一緒に祈りました主の祈りの中で、今回は特にこの言葉に目を留めたいと思います。今日のマタイによる福音書の言葉によりますと、ここは「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈られていました。いずれにしましても、神の御心を求める祈り。その御心こそが、天においてだけでなく、この地においても同じように行われますように。実現しますように。そう願う祈りです。この世界の現実、私たちの日常の生活、そしてまた、私たちの心の現実のただ中にも、神の御心が形となって見えてきますように。そのことを求める祈りです。

この祈りは、他でもない主イエスご自身にとって、本当に切実な祈りとなりました。そしてこの切実さは、主の祈りを最初に教わった弟子たちの中で、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人にとっても、生涯忘れることのできない記憶と共に、心に刻み付けられたことでしょう。なぜなら彼らは、主イエスが御心を神に祈り求めながら、必死に戦っておられる姿を目のあたりにしたからです。

先週から始まった受難節に相応しく、マタイによる福音書第26章36節以下をお読みします。

「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』……更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』……三度目も同じ言葉で祈られた」。

十字架を目前にして、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と心を打ち明けた時、主イエスのお顔はどのようであったでしょう。三度も「御心が行われますように」と祈られた時、主のお声はどんな様子だったでしょう。もはや、単に気を落とす等という程度ではすまなかったはずです。主は「悲しみもだえ」ておられました。苦しさのあまり、恐れのあまり、そしてまた言いようもない虚しさのあまり、血の汗を流された。体中から力が奪われていった。だからご自分の足で立つことすらできず、文字通りうつ伏せになりながら、必死に神の御前に進み出て、身を振り絞るようにして祈られたのです。


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「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。…「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。御心のままに。御心が行われますように。ゲツセマネの祈りと主の祈りが響き合います。けれども、「杯」はとうとう取り去られませんでした。主イエスはその夜、安らかに眠ることも許されないまま、身柄を捕らえられ、裁判にかけられ、次の日には鞭打たれ、ついに死刑の判決を受けて、十字架で殺されました。その時、弟子たちは主を見捨てて逃げ去りました。

でも私たちはまた知っています。その無残な死から甦られた主が、弟子たちを訪ねてくださったことを。そして彼らはその時ようやく目覚めます。あの十字架において、確かに御心が行われたのだと。否、あの十字架において露わになった人々の利己心、悪意、妬み、そして弟子であった自分たちの弱さや身勝手さ、主に従うと誓ったのに貫けなかった自己矛盾、そうした人間のあらゆる止めどもない闇の現実の真っただ中で、神の御心こそが決定的に貫かれたのだと。


今朝は、旧約聖書の創世記からも御言葉が与えられました。長い創世記の終わりの方に記されている、いわゆる「ヨセフ物語」です。正確にはヨセフとその兄弟たちの物語。それはまた言い換えれば、ある家族の物語、それ故、どの家庭にも起こりそうな互いの誤解や妬み、あるいは暴力について語る物語でもあります。

少々小生意気な年下の弟ヨセフは、父ヤコブのお気に入りだったということで兄たちの反感を買っていました。父親はあからさまな仕方でヨセフを偏愛したのです。そうした日常のある日、ヨセフはあの夢を見ます。兄たちにこう言います。「聞いてください。私はこんな夢を見ました。畑で私たちが束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、私の束にひれ伏しました」(37:7~8)。

この夢を聞かされた兄たちは、ますますヨセフを憎むようになりました。そして陰謀を企ててヨセフを殺そうとします。けれども、事の成り行きで、弟ヨセフは奴隷としてエジプトに売り渡されてゆきます。そこで兄たちは弟の着物を雄山羊の血に浸して父のもとに持って行き、ヨセフが野獣に食われて噛み裂かれてしまったように見せかけて、弟の存在を家族の中から消し去ろうとしたのです。

今日お読みした第45章は、その後の展開のクライマックスです。紆余曲折を経て、ヨセフは夢解きの聡明な知恵が認められ、エジプトのファラオ王のお抱えの人物にまで上り詰めました。他方、この地方一帯に大飢饉が起こったため、穀物を求めてはるばるエジプトまでやって来た一団がいました。ヨセフの兄たちです。しかし彼らは自分たちが穀物を求めているその相手が、長く見捨てていた弟ヨセフであることに気が付きません。そしてついに、いたたまれなくなったヨセフから自分の身を明かされると、兄たちは驚きのあまり絶句しました。震えあがったことでしょう。かつて、自分たちが弟に対してしたことを思えば、当然であります。

けれどもそこでヨセフは言うのです。「どうか、もっと近寄ってください」。……「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。……神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」(4~8節より一部)。

ここで驚かされるのは、ヨセフが兄たちのことを恨んだり、責めたりしていないことです。過去の悲惨な出来事から打って変わって、今では宮廷で優雅な暮らしができているからでしょうか。そうではありません。実は最も驚かされるのは、ここでヨセフが、神の存在を大胆に述べていたことです。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは……あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」。

つまりあの出来事は、神の御心だったのだ。否、もっと遡れば、この一連の物語は、初めは言ってみれば単純な、家族の内輪もめであり、問題を抱えた家族内の妬みや争いを示す典型のような物語でしかなかった。にもかかわらず、実はそれがこの世界に対する神の御心が実現するための大いなる物語の一部であったことが、ヨセフの証言によって明らかにされるのです。人間の妬みや恨み、暴力が引き起こした不条理な出来事、そしてだれも望まない絶望的な闇の状況のただ中で、しかし神はご自分の民を守られる。救い出される。そして愛と赦しによる交わりの回復という、和解の御心を、まさに行っておられたのです。

兄たちは、物事を支配しているのは自分たちだと思い込んでいたに違いありません。けれども、その事実の中に真実が隠されていた。彼らの身勝手な罪と悪の行いよりも、もっと大きな手が働いていた。そこにおられたのは、舞台俳優よりもずっと大きな働きをなす劇作家のような神ご自身に他ならなかったのです。


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このような神について、かつて宗教改革者のルターは、こう巧みに表現しました。「神には、歪んだ弓を用いて的を射ることも、足の不自由な馬を乗りこなすこともできる」。

歪んだ弓。足の不自由な馬。これは罪に染まった私たち自身の姿の比喩です。あるいは、この罪によって引き起こされる様々な悲惨な現実です。今世界で起きている争いや戦争もそうでありましょう。あるいはまた、実は私たちの意志や悪意等をはるかに超えて、全く不可解な形で起きているとしか思えないような、不条理な出来事の数々。私たちの身に起こる病や不慮の事故、死別、自然災害、疫病…。そういうものも含まれるでありましょう。

しかし神は、それら全ての歪んだ弓を用いながら、御心という的を射ることができるお方だ。気落ちして真っすぐに走ることのできない馬、あるいは神を試みては暴れまくる、一見自由であるようで実は本当の自由を求めている不自由な馬にしっかり乗ってくださる。乗りこなしてご支配くださる。御心の実現というゴールに向かって、一緒に走ってくださる。そのような神なのであります。


ただし、ここで誤解してはならないのは、この世界で起こる全てのことは神が予め定めたものであって、したがって、全ては計画通り、御心通りと、単純に受けとめてしまうことです。しかし全てのことは、神がそれら全てを望んでおられるから起きている、とは限らないのです。そうではなく、むしろ神は、驚くべき力をもって、ご自分の御心の実現のために、この世のありとあらゆる事柄、関係、出来事を、ご自身の愛の内に回復されるということです。つまり、この世に対する神の御心は、私たちの思いや計画、この世の事柄によっては一切妨げられることはない。神の御心は、既に天で行われているように、この地においても行われるのです。

私たちも、自らの様々な紆余曲折の人生を振り返る時、そこに神の御手が働いていたこと、自分の思いを超えた神の御心が既に始められていたことを、思い起こすことができるのではないでしょうか。それはまるで刺繍布のようです。刺繍布の裏側は様々な色の糸が絡みあって、まるでカオスのよう。裏地だけを見る限り、希望はない。けれども、その糸が布に縫われているその同じ時間、同じ場所で、布の表側では、神の御心が豊かな調和をもってデザインされているのです。


「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。


私たちがこれを祈る時、御心が成るその期日まで定めることは、しません。祈りながら待ちます。しかし問題は、まさにこの「待つ」ということそのものにあります。私たちはすぐに与えられることを望みます。解決されることを願います。御心がどこに、どのように示されているのかを早く知りたがります。私たちは待てないのです。特にこのスピード社会にあっては、自分の並んだ買い物のレジで、隣りの列よりも数十秒長く待たされるだけでも苛立ってしまう…。

けれども、聖書は教えます。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Ⅱペトロ3:8)。私たちは丹念に祈ることで、神の時を待ち、神の時の中を生きるのです。そこには当然、「忍耐」を必要とします。しかし、キリストと共に生きる者が抱く希望が、もしも忍耐から生み出される希望でないとしたら、その希望自体が怪しいものとなります。私たちを安価な恵みに留まらせてしまうことでしょう。

忍耐がすっ飛んでしまう時、私たちは辺り構わず当たっては喚き散らし、敵や不都合な相手をことごとく叩きのめしたくなるような誘惑に引きずられます。それは誰にでも起こることです。特に愛に生きようとする時、信仰に生きようとする時、まさにそんな麗しい姿に生きたいと努めるところで、忍耐が切れる。罪が頭をもたげる。自分の弱さが溢れ出す。しかしまさにその綻びに、キリストは立っていてくださいます。私たちを忍耐してくださっています。否、もう十字架上で忍耐し尽くされて、愛の勝利を掴み取ってくださった。この世界を支配するのは権力や暴力ではなく、愛であることを世界に告げ知らせてくださった。だから私たちも愛に生きることができるのです。愛に生きながら、キリストを証しするのです。


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私たちは今日も主に招かれてこの礼拝に結ばれ、そして主の祈りを祈りました。しかし祈ることは、ただ現実から逃がれ、立ち向かうべき課題に背を向けて、絵空事を眺めていることではありません。むしろこの祈りを噛みしめながら、今自分の身に起こっていること、今この日本で、世界で起こっていることに、よりよく気が付くことができるようになるのです。

そしてこの祈りが本当に祈られるべき現実が、ますますはっきり見え始める時、そこに忍耐と愛をもって祈り、関わってゆくための姿が形造られてゆきます。生活が整えられてゆきます。私たちの人生の旅路そのものが、神の御国への通路となってゆく。

キリストは、今日もこの主の祈りをご一緒に祈ってくださいます。どこまでもキリストに召し出され、また押し出されることを通して、私たちは今この地上で、キリストと共に、キリストの中で、御心を待ち続けながらキリストの真の体なる教会を建て上げてゆくのです。

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