「恐れるな、わたしは生きている」

2022年4月17日 イースター礼拝説教(復活節第1主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書50:10
新約聖書 ヨハネの黙示録1:17~19

                

ある有名な日本の作家が、かつてこんな文章を随筆に書いていたのを読んだことがあります。「アサガオの蕾は朝の光によって開くのではないらしい…。逆に、それに先立つ夜の時間の冷たさと、闇の深さが不可欠である…」。

朝顔は、朝に咲くのではなく、夜明け前に咲く。朝の明るい光を浴びる前の、夜の冷たさと闇の深さの中で花開く。朝顔にとって、実はこの闇こそ、花を咲かせるためには不可欠だ、と言うのです。「そうだったのか」と不思議に思いながら試しに調べてみますと、時期によって多少の違いはありますが、確かにその通りでした。昔、小学生の頃に育てた記憶のある朝顔は、確かに朝起きて見に行った時には、もう既に咲いていたのを思い起こします。

イースターの出来事も、これとよく似ています。今朝、私たちは主イエスのご復活の喜びとその意味を、ヨハネの黙示録から新しく聴き取ろうとしています。しかしそこに入る前に、既に私たちは、主イエスが蘇られたその日の朝の出来事について、福音書から幾つか知ることができます。

例えば、今朝のこどもの教会の礼拝では、ルカによる福音書の24章をお読みしました。女性たちが週の初めの日、すなわち日曜日の「明け方早く」(1節)に、香料を携えて主イエスの眠っておられるお墓へ向かった時の場面です。着くと、大きな石が墓の脇に転がしてありました。墓の中を見ても主のご遺体は見当たりませんでした。そこへ、輝く衣を着た二人の人が現われてこう言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中から捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5~6節)。

ここを丁寧に読みますと、確かに主イエスが蘇られたのは、ご自身が生前仰っていたように、十字架につけられてから三日目のことでした。けれども、その三日目の朝の「明け方早く」、女性たちが急ぎ足にお墓に着いた頃には、もう主は蘇っておられた。朝日が昇る前に、既に主は死人にうちより蘇られた。辺りはまだ闇に包まれていた中で、花開いておられた。復活の光を放っておられたのです。


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ところで、この場面でもう一つだけ注目したいのは、このお墓に駆けつけた女性たちは、この日、主イエスが予言通り、本当に復活される等ということは少しも期待していなかった、ということです。輝く衣を着た二人から復活の事実を告げられて初めて、主「イエスの言葉を思い出した」(8節)と記されている通りです。どんなに主イエスを愛し、聞き従っていたとしても、いざ主が死んでしまうと、主の大切なお言葉を忘れてしまっていた。復活の予告など記憶から吹っ飛んでいた。死んだ者が生き返るなんてありえない。死んだらお終いだ。さようなら。そう信じて疑わなかったのです。

その証拠に、この日の朝、彼女たちが手にしてお墓に持って行った物は「香料」でした。これを主イエスのご遺体に塗って差し上げるつもりでした。主イエスを慕っていた彼女たちにとって、それがせめてもの心尽くしでした。死別の悲しみに暮れる中で、ご遺体に誠意の限りを尽くすことは、彼女たち自身にとっての慰めとさえ、なるはずだったのかもしれません。いずれにしても、死の壁の向こう側を望み見ることはありませんでした。やはり死は、厳然たる壁であり続けたのです。

特にこの女性の内の一人は、他の福音書によれば、マグダラのマリアだと記されています。彼女はかつて七つの悪霊に取りつかれて大変苦しんでいました。おそらく今日で申すならば、自分でもどうしようもない心の病に襲われて、激しい力に取り抑えられていた人です。生きた心地のしない不安や恐れ、空しさに沈め込められてしまったような人です。

その彼女が、主イエスに出会って解放された。人生のやり直しができた。それ以来、主イエスにお仕えする女性の一人となりました。けれどもその主が死んでしまった時、彼女は確かに心を尽してお墓を訪ねましたけれども、しかしそれ以上の何かを望んでいた訳ではありませんでした。やはり、彼女を捕えていたのは死の力でした。そしてこの死の力に抑えつけられてしまっている姿は、今の私たちにおいても変わらない現実ではないでしょうか。

ある人が、「復活節の疑い」という言葉を用いたことがあります。復活節の疑い。これを聞いて何を思われるでしょうか。主イエスの復活を疑う。いったい全体、聖書が語り、教会の人々が信じている蘇り等ということが本当にあるのだろうか。どうしても疑わざるを得ない。これが「復活節の疑い」であろうと考えるかもしれません。しかしこの言葉の意味は、実はそれとは全く正反対だというのです。

つまり復活節を疑うのではなく、復活節を通して、今まで一度も疑ったことのない事実を疑い始める。死の確かさを疑い始める。人は死んだらもうお終い、という厳然たる事実を疑い始めるのです。すると死が揺らぎ始める。人生の中で最も確実だと思われた死が、まさに不確かなものとなってゆく。墓に蓋をしていた大きな石が、揺り動かされて取り除かれたように、私たちの死の扉も揺らぐのであります。死の壁が開き始めるのです。


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はたして、主イエスのお蘇りは、あらためて私たちに何をもたらすのでしょうか。どんな確信を得させてくれるのでしょうか。あるいは、こう問うこともできます。あのマグダラのマリアたちの姿に見られたように、私たち人間の死に対する不安や恐れ、また諦め。そうした死の力に押し潰されそうな暗闇の真っただ中で、しかし主イエスがお蘇りになられたという出来事は、私たちにどんな希望を抱かせてくれるのでしょうか。暗闇の中で蕾を開かせる朝顔は、なぜ格別に美しいのでしょうか。

そこで、本日はヨハネの黙示録から御言葉が与えられました。「黙示」という言葉は、普段あまり聞き慣れませんが、これはもともと、「啓示」という意味です。啓き示す。つまり神がヨハネに啓き示してくださった現実のことです。神が啓き示してくださらなければ、決してヨハネだけで見ることのできない現実。この目で見えている以上の確かな現実。そのようにして、ヨハネが神と共に見て、聴くことのできた現実の数々がここに記されています。

第1章17~18節をもう一度お読みします。「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」。

「その方」とは、主イエスのことを指します。その主ご自身が、死んだように恐れおののくヨハネに向かってこう仰るのです。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である」。初めであり、終わりである。αであり、Ωである。また、世界の大地を貫き、時間を貫き、さらには天と地をも全て貫き通す所の者。今もなお、あなたの前で代々限りなく確かに生き続けている者。それが主ご自身だと宣言されます。


しかし、この生きておられる永遠の方が、「一度は死んだが」とこう仰る。この言葉に深く立ち止まりたいのです。「一度は死んだ」。これは、別の言い方をすれば、「死を経験したことがある」という意味です。単なる言葉の言い換えをしたいのではありません。「最初の者にして最後の者、また生きている者」と仰った、その永遠なるお方。したがって死ぬはずもないそのお方が、死を経験されたというのです。

永遠の命を生き続けるお方が、死を経験された。これはどういうことでしょうか。それは神が、死という人間の滅びの現実に対して深く関わってくださった、ということに他なりません。しかもここでいう人間の死とは、罪の結果による死です。単に偶然に生まれて、自然法則や生物学的なメカニズムに従ってやがて死んでゆく、そういう一般の死ではありません。そうではなく、神から与えて頂いた命を、人は自らの罪によって欺き、滅ぼしてしまう。神から離れ、神の愛に背いて生きてしまう。その結果、死を刈り込んでしまった。死すべき人となってしまった。その、まさに神との関わりにおける人間としての死であります。

先週の木曜日、受難週を覚えて持たれた洗足木曜日の祈祷会でも触れたことですが、私たちはいつでもサタンの誘惑に取りつかれて、罪を犯します。主イエスの愛を武具とすることができず、自らの怒りを武器として攻撃を加えてしまう。神の裁きに委ねるのではなく、自らの裁きで正義を貫こうとする。怒りの裏には悲しみや苦しみがあったはずなのに、それらが癒えることもないままに冷え固まると、自ら滅びの道を進んでゆく。肉体は生きているけれども、魂は萎え、冷え切り、死んだようになってしまう。ここに、私たちの信仰が無くならないようにと、主イエスに祈って頂かなければならなかった姿があります。ここに、私たちがサタンの誘惑にではなく、愛の喜びと奉仕に生き続けるために、主イエスに足を洗って頂かなければならなかった理由があります。


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そしてここにこそ、永遠なる主ご自身が、まさに死を経験されねばならない理由がありました。主イエスが、神の御子として、人となってこの世に来てくださったこと。それは神の御子が、この人間の場所に、この罪の中に、この死の中に、お出で下さるためでした。そして私たち人間の罪を自らのものとして引き受け、その死までをも、一切その身に負ってくださるためでした。主イエスは父なる神の前に、自らの御子としての身分を主張することなく、ただ遜り、従い、全てを献げ尽くされたのでした。

それが、あの十字架の死の出来事です。その十字架の死において、古い罪の人間、サタンに支配された人間の滅びの姿が、終わりを告げられたのです。そしてこの終わり方こそが、実に、神ご自身の裁き方に他なりませんでした。正義の貫き方に他なりませんでした。私たちの間に、真の愛と平和をもたらすための神の「愚かな知恵」、しかしその恵みの計り知れなさを知らされた者にとっては、これ以上にない最善の方法であり続けるのです。


この十字架の死は、全ての終わりであり、しかしまた、全ての始まりともなりました。なぜならば、主イエスの十字架の死において、私たちの古い人の姿が死に、そしてまた主イエスのご復活において、私たちの新しい人の姿が造り出されていったからです。古い着物を脱ぎ捨てて、そこで新しく着るべきキリストという衣が備えられたからです。

けれども、この復活の出来事も、いつでもサタンの誘惑によって、遠く霞んだものに映ってしまうかもしれません。しかし私たちは、私たちの目を通してではなく、神の目を通してこの出来事を見つめ、神の眼差しに捕えられている自らの姿に出会い続けたいと願います。

主イエスは確かに三日目に蘇られました。しかし今日初めに引用したルカ福音書の復活の記事。また他の福音書でも同じことが言えますが、お墓で神の使いたちが女性たちに主のご復活を告げる時、新共同訳では「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と訳されますが、この最後の所は、正確には「復活なさった」ではなく、「蘇らされた」と本来は言われている所です。つまり主イエスは自ら復活なさったのではなく、どこまでも父なる神によって蘇らされたということです。ここに、神の明確なご意志が貫かれます。


神は、十字架の死に至るまで従順であられた御子イエスを、滅びの彼方に葬り去ったままにはなさいませんでした。その理由については、今ここであれこれ分析する暇はありませんし、またその必要もありません。けれども、ただ一つ、私たちはこの復活の出来事に秘められた愛の真実を、共に受けとめたいと願うのです。

それはある時主イエスがお語りになった「放蕩息子の譬え」にも、既にヒントが示されているように思うのです。文字通り、父親から離れて放蕩の限りを尽くした息子が、やがて財産を使い果たし、飢饉にもあって苦しく惨めな生活に陥ってしまった。そのために父の許に帰って行くという話です。悔い改めながら帰って来ました。その時、息子は何と言ったか。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(ルカ15:18~19)。

これはいったい、誰が誰に譬えられている譬え話なのでしょうか。もちろんここには、放蕩の限りを尽くして身を滅ぼしてしまう息子の姿が、私たち自身の姿に重ね合わされていることでしょう。そして、その罪深い私たちを憐れみをもって赦してくださる父なる神と、赦される私たちのとの姿が描かれ、愛の交わりが映し出されます。けれども、実はもう一つ、この放蕩息子の姿は、私たちに先立つ主イエスご自身のお姿にも映って来ないでしょうか。

もちろん主イエスは、放蕩の限りを尽くす罪など犯されない方です。自らは犯してもいない罪です。しかし今、遜りをもって私たち人間の罪を我が罪としながら、もう自分は神の息子と呼ばれる資格などありません。どうかあなたに仕える僕としてください、と悔い改めてくださいました。しかしこの姿はちょうど、主があの十字架上で私たち人間に代わってその犠牲を払い、神に向かって叫んでくださったあの祈り、すなわち、自らを十字架につけた人々のために、「主よ、どうか彼らをお赦しください」と祈ったその姿と、重ならずにはいられないのです。私たちのために執成してくださった。そういう私たちのための身代わりの姿が、浮き上がってくるのです。


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父なる神は、この全き御子の従順なる姿を、決して見捨てることはなさいませんでした。そこに蘇りの朝がやって来たのです。神は、御子イエスを死の闇から蘇らせました。けれどもこの復活の出来事は、決して神と御子との愛の親子物語などではありません。そして何よりも、この復活は、御子イエスご自身の復活だけに留まるものでもありません。実に、私たちのためこその出来事だったからです。私たちもまた、この復活によって神の御前で神の子の命を持つ者として頂きました。主が蘇りの初穂となってくださった故に、私たちもキリストの復活の命に与る者とさせて頂いたのです。

そこで最後に申し上げたいことは、この十字架の死と、キリストの蘇りとは、切り離すことのできない救いの礎となったということではあるのですが、しかしこの両者の真実が、私たち自身の毎日の中で起こらなければならないということです。またそうなる力が、この真実にはあることを知り、そう信じ続けたいということです。なぜなら、私たちはキリストの死によって古い自分、深い暗闇に身を沈める古い自分自身に死に、そしてまたキリストの蘇りによって、新しい命と希望に生かされる恵みに立つ者となっているからです。そういう仕方で、永遠の命が、既に私たちのこの歩みの中から始まっていることを喜ぶのです。

教会は、このキリストの命に突き動かされて宣教の歩みを始めました。主の蘇りの命に支えられるのでなければ、立ちもしなかったでしょうし、続きもしなかったに違いありません。教会の命、教会が教会である真実の姿は、ここに見出すことができます。この松本東教会の歩みも同じです。信仰の先達が命懸けで守り、伝え続けた福音の根幹には、このキリストの命への感謝に溢れていました。私たちもこれに続く者です。私たちがここに結ばれている理由もここにあります。もはや死への恐れに支配されるのではなく、自らの小さな命を生かすキリストの永遠の命に握りしめられている恵みに、私たちは生きることができるのです。

そこに、主イエスが語りかけるこの言葉が聞こえてきます。「恐れるな、わたしは生きている」。