2023年4月23日 主日礼拝説教(復活節第3主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 箴言10:9~12
新約聖書 コリントの信徒への手紙一12:31b~13:7
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本日与えられましたコリントの信徒への手紙一の御言葉。ここに、「愛」という言葉が何度も出て参りました。私たちにとって馴染み深い言葉でありましょう。しかし「愛」という日本語が身近な言葉となったのは、明治以降のことだと言われます。
したがってそれよりも前の時代、例えば1500年代にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教(カトリック)が日本に伝来し、キリシタンの歴史が作られていったあの時代、聖書が語る「愛」をどのように訳すかを巡って大変苦労したそうです。それに対応する言葉がうまく見つからないからです。そこでどうしたか。「神の愛」は「神の御大切」という風に訳されました。
もちろん、これは言葉の問題であって、今日私たちが「愛」と呼んでいる所の現実や人間関係そのものがなかった訳ではありません。例えば親が子を愛する思いを、明治以前は「慈しむ」と表現したり、子が親を愛する気持ちの場合は「孝行を尽くす」等と言ったりしました。あるいは恋愛関係の場合は「惚れる」等の言葉がよく使われたようです。
しかし明治以降は、これらを総括するようにして、「愛する」という言葉が用いられるようになりました。背景には、その時期に日本に渡って、改めてキリスト教(プロテスタント)を教え広めた宣教師たちによる丹念な翻訳作業がありました。したがって、聖書的な意味での「愛」という言葉が、新鮮味をもって広く日本社会に浸透していったことは、一方では大変好ましかったと言えるでしょう。
けれども、他方から言えば混乱を生んだとも言えます。なぜなら、「愛」という言葉に対する理解や期待は、人によって随分異なるでしょうし、「愛している」という言葉を交わしたからといって、それで互いに何もかも了解し合ったとは言い難いからです。実は愛ならぬものを愛と誤解したまま、互いにすれ違いを重ねている現実があるのではないでしょうか。
いったい、真に愛と呼ばれるに値する愛とはどのようなものでしょうか。真実の愛とは何か。そのことを、絶えず私たちは問われ、そしてその愛に生きているかどうかを、吟味する眼差しが大切だと思うのです。
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本日の説教題に、「愛がなければ」という言葉を掲げました。言うまでもなく、本日お読みした聖書箇所に、三度も繰り返されていた言葉です(1~3節)。
ところで、この「愛がなければ」、あるいは「愛がないならば」、と言われる時の「愛がない」という言葉は、原文では「愛を持っていない」という言い回しになっています。普通、日本語ではこういう言い方はしないでしょう。あの人には愛があるとかないとか言うのが一般的です。しかし愛は自分で持てるもの、という理解がここにはあります。したがって、その私が手にしている愛が、本当の愛になり得ているかどうか、真実なる愛であり続けているかどうか、よくよく確かめることの大切さが、こうした表現からも身近に感じられます。
はたして、私たちは愛を求めながらも、しかし愛の迷路の中で、出口が見つからないまま迷子になってはいないでしょうか。否、およそ人間は、真の愛を欲しながらも、その愛を得ることのできない悲しみの中で、いつも飢え渇いているだけではないのか。自分が愛することによって得られるはずの充足が、なかなか満たされない。反対に、人から愛されたいと願いながら、しかしその愛にほとんど満足できない空しさに駆られる。
そのように、いよいよ本当の愛に飢え渇いてしまうと、もはや愛の迷路どころか、愛の砂漠を歩かされているような思いに陥ります。ここに私たちの惨めで哀れな姿があります。どうしてこうなるのか。
しかし聖書はまさにこれを、人間の罪の姿として捉えます。罪がもたらす悲しむべき現実です。なぜなら罪とは、ひとえに、神の愛に生きることができない私たちの貧しい姿のことを言うからです。神の愛から外れ、一人孤独にさ迷い続け、次第にあらぬ方向に暴走し、結局は人との愛の交わりにも破れる姿のことを指すからです。したがって私たちは、どこまでもこの罪から解き放たれ、愛の道に連れ戻され、そこで本物の愛をこの手で掴み直す以外、自らの生きる道は見出せないのです。
問題は、もはや他人がどうこうではなく、この自分がどうであるかということになる。その自分に、もし「愛がなければ」、すべては無に等しく、何の益もない。そう語るのが今日のパウロの言葉です。彼がここで繰り返す「愛がなければ」という言い方は、あくまでも、他でもないこの自分において、もしこの私が愛を持っていないのであれば、という風に、どこまでも自分自身をまず問う姿勢に貫かれていることに、注目したいと思うのです。
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ところで、今日お読みした箇所は、聖書の中でも特によく知られている言葉の一つではないかと思います。特に4節以下の「愛は忍耐強い。愛は情け深い…」と続く所は、結婚式でも良く読まれます。そして愛を歌い上げるこの美しい一連の言葉は、「愛の讃歌」とも呼ばれます。しかし心に留めたいのは、この部分だけを独立させて読まないことです。つまり前後関係を踏まえて読むということです。
一つ前の第12章から、パウロが丁寧に語って来ましたことは、キリストに招かれ、教会の命に結ばれて生きる者は、皆一人一人が神様から賜物(カリスマ)を頂いているのであって、その賜物を寄せ合うようにして献げることが、キリストの体としての教会を造り上げるということでした。
そのように述べながら、しかし第12章31節で次のように言いました。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」。つまり、それぞれに与えられた賜物を生かしてゆこうと語った所で、でもそこで満足せず、もっと大きな賜物を皆が受けることができるように努めようと、さらに呼びかけるのです。そしてそれに続く言葉が今日の箇所でした。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12:31b)。
最高の道。これまでの全てに勝る、神の賜物を受けて歩む最高の道。それをこれから教えようと言って、パウロはまるで堰を切ったように語り始めます。しかし注目したいのは、教えようと言いながら、パウロがここで展開する語り口は、決してお説教や教訓じみたものではないということです。コリントの教会の人々に向けて書かれているはずなのに、ここではなぜか、「あなたがたは~」という言い方は影を潜め、パウロ自身のことが前面に語られてゆくのです。
その証拠に、「たとえ」から始まる1~3節は、全てパウロ自身を主語にした言葉が軸になっています。たとえこの自分が、人々の異言や天使たちの異言を語ることができたとしても、もしそこに愛がなければ、誰が何と言おうと、この私は騒がしいどら、やかましいシンバルに過ぎない、といった具合に、パウロの独り言のような、あるいは本心からの独白と言ってもよい言葉が紡がれるのです。
特に2節の「愛がなければ、無に等しい」という言葉は顕著です。「無に等しい」の部分は、原文では「私は無」と記されています。つまり愛がない時、ただ漠然と「それは無に等しい」と言っているのではない。愛のない時、それは即ち、私自身が無であると言っているのです。愛がなければ、もはや私は存在しないのと同じだ。私が私でなくなってしまう。それ程までに、自分が愛に生きているかどうかは、まさに生き死にに直結する問題なのだというパウロの血の滲む生々しい告白が、ここに響きます。それだけに胸を打ちます。
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そこで改めて1~3節の言葉に耳を傾けてみます。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」(1節)。ここを読んで、元々どらとかシンバルというのは、騒がしい楽器ではないかという横槍が入るかもしれません。しかしこれらがもし、やかましく聞こえるとしたら、それは楽器のせいではなく、楽器の使い方や奏で方に問題があるからではないでしょうか。
例えばオーケストラの演奏を思い浮かべてみます。演奏を聞きながら、しばしば惹きつけられる場面があるとしたら、その一つは、舞台で素晴らしい打楽器の音が奏でられているのに気づいた時です。つまり最初の内は全く気づかないのです。しかしある時から、演奏の背後からさりげなく打楽器の音が聞こえ始めて来る。だんだんその存在感が増してくると、もはやそれ無しには、演奏自体が成り立たなくなるように感じられる。そしてそのように全体の中で確かな位置を持ち、しかも適切なタイミングや強度で打楽器のハーモニーが奏でられる時、そこに確かな美しさを感じずにはおられなくなるのです。
打楽器というのは、それだけをむやみやたらにドンドン叩いたり、ガンガン鳴らせたりすれば、どうしても騒がしく聞こえてしまうでしょう。愛無しに、協調性や思いやりを欠いてしまうと、暴走する。しかし演奏全体の中で、自分の位置や役割を弁えながらその音が発揮される時、むしろ全体を引き立て、支えるものとなります。
1節で問題とされたのは「異言」でした。信仰が高揚してくる時に口を突いて出てくる特別な言葉のことです。しかしこの異言は、舌が自然に動いて出てくるような音であるため、通常の人が分かる言葉ではありません。それだけに神秘的な言葉だと考えられました。そしてコリントの教会の中でも、この異言を語り、またそれを理解できる賜物を与えられた人たちがいたようです。
「天使たちの異言」とありますけれども、まるで天使が語るような崇高な異言もあったのでしょう。人々が憧れるような異言。それを語る者に至っては、つい得意げにもなったかもしれない。しかし残念ながら、それが人々の心を本当に喜ばせるハーモニーのような言葉にならないで、聞いている人々には、ただ騒がしいものにしか聞こえない、ということも現実には起こった。
「愛がなければ」。
パウロの全集中は、ひたすらここに向けられます。もしこの愛がないなら、この愛に生きることができないなら、全てがやかましいものになり、無に帰してしまうのだという真実を、続く2節でも3節でも繰り返すのです。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。
いったい、「山を動かすほどの完全な信仰」とはどんな信仰でしょうか。主イエスもかつて、こう仰ったことがあります。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(マタイ17:20)。信仰の持つ偉大な力を示す言葉です。
私たちは信仰に何を期待するでしょうか。信仰によって、世界が変わることでしょうか。否、少なくとも自分の置かれた状況や人間関係が良い方向に変わることでしょうか。あるいは、せめて自分自身が豊かに養われ、新しくされてゆくことでしょうか。しかし信仰が、本当にそのように何かを変えているのだろうか。ましてや、たった一粒のからし種に過ぎない信仰が、どうして山をも動かす力となり得るのだろうか。
山さえも動かす信仰の力は、いったいどこにあるのでしょうか。しかしそれは、全てに勝って、愛にこそあるのではないか。信仰は、私たちの力によるものではなく、ただただ神の愛から始まり、その愛の中でこそ力を発揮するからです。
それならば、この愛を、私たちはいかにして得ることができるのでしょうか。そして、そもそも私たちが手にすべき愛、神が私たちに手渡したいと願っておられる愛とはどのような愛なのでしょうか。3節は、この問いを、最も厳しく問い詰めているような気がします。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。
この言葉は、多くの人々を惑わせるかもしれません。財産の全てを人のために使い尽くすという行いは、愛そのものなのではないか。自分の体を死に引き渡す程にまで身を献げ尽くすことが、どうして愛にならないのだろうか。
しかし、人は誰でも、もし自分の心の内側を正直に覗くならば、ここに言われていることが、決して嘘でないことを認めるのではないでしょうか。確かに全財産を人のために施したり、自分の体を焼かれて死に引き渡したりするという行為は、決して誰もができることではありません。けれどもそんな大きなことではないにしても、もっと小さな日常の事において、私たちは、ともすればそこに愛もないのに、もっともらしいことをしかねないのです。自分の内に、本物の愛には届かない、見せかけに過ぎない愛しか持ち得ないことを、どこかで空しく認めざるを得ないのです。もちろん、愛を故意に偽ろうとしているわけではないでしょう。しかし愛に生きようとする時、そこに自己矛盾を抱える。この自分の力ではどうしようもない姿こそ、愛に生き切れない私たちの罪の姿に他なりません。
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ここに残されたただ一つの道は、まさに自分には愛がないことを認めることではないでしょうか。ただし、一人で開き直って認めるのではありません。その姿をありのままに受けとめてくださるただ一人のお方に向かって、正直に告白するのです。跪くのです。そしてこの方から赦しを受け、真実の愛を受け取るのです。否、愛そのものであるこの方に、まるごと支配して頂くのです。
愛を求めながらも、愛に躓く外ない私たちは、キリストによって救い出され、罪の縄目から解き放たれ、聖霊による賜物を頂くことでしか、もはや愛に生きる道はないのではないでしょうか。しかしこの愛の賜物こそ、全てに勝る、最高の賜物なのです。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(4~7節)。幾つもの愛の特質が並べられています。実に15もの愛の姿がここに挙げられている。しかしたくさんあるようで、私には、実はたった一つのことをパウロは心に留めているのではないかと思えてなりません。
「愛は忍耐強い」という言葉から始まる愛の諸相は、しかし再び、最後に「すべてに耐える」という言葉で結ばれます。確かにローマの信徒への手紙第5章でも、苦難の中で忍耐が生まれると言います。忍耐は、やはり一つの賜物である。ただ苦難が過ぎ去るのをじっと我慢することではない。忍耐をもって苦難を受けとめ、苦難に立ち向かい、苦難を生き抜く。苦難を突破して、新しいものを生み出す。その力が忍耐である。
パウロはここを書きながら、自分がそのように忍耐強いかどうかよりも、こんな自分が救われるために、キリストがどれだけの忍耐を重ねなければならなかったかについて、思いを募らせていたに違いありません。自分の愛を思う時、否、自分の愛のなさを思う時に、パウロは、十字架上で自分のために必死に耐えておられたキリストの忍耐を、思わずにはおられなかった。だからパウロは、愛を語るのに、キリストの忍耐から語り始めることしかできなかったのです。ここにこそ、愛が溢れているからです。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。……」。この「愛」の部分は、そのまま「キリスト」と読み替えてもよいはず。その方がグッと親しみやすくなるでしょう。なぜなら、キリストは愛そのものだからです。この忍耐強いキリストの愛のただ中で、私たちも愛の呼吸を取り戻し、愛に生きる者として教会の働きに連なりたいのです。
<祈り>
天の父、愛の神よ。あなたの愛そのものである御子イエス・キリストを与えてくださり、感謝いたします。どうか私たちが、自分の存在の最も深い所から湧いて来るような愛の喜びを、讃美と共に歌い続けることができますように。そしてこの最高の賜物を熱心に求め、この恵みに生かされて、キリストの体なる教会に業にますますお仕えすることができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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