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「愛すればこそ」

2023年5月14日 主日礼拝説教(復活節第6主日)         
牧師 朴大信
旧約聖書 エレミヤ書8:20~23
新約聖書 コリントの信徒への手紙一13:4~13

             

今日も講壇には青々としたお花が美しく飾られています。昨日、この会堂で教会員のHさんのお嬢様の結婚式が執り行われました。私は、新しく夫婦となられたお二人の司式をした者として、その後に行われた披露宴にも招かれる幸いに与りました。その宴の席で、最後の新郎新婦からの挨拶の場面で、一つ大変印象深く耳にした言葉がありました。

それは、新婦の次のような言葉です。参列者に対する感謝を述べられた後、このように結ばれたのです。「皆さま、どうか私たちを、死ぬまで…、いえ、死んでも、よろしくお願いします」。通常のありきたりな「これからもよろしく…」という言い方ではありません。これを強調して、「死ぬまでよろしく…」と初めは言いかけて、すぐに打ち消して、「死んでもよろしく…」と言い直されたのです。

どうでしょうか。「死ぬまで」は自分たちが生きている一生涯の間、という意味です。しかし「死んでも…」は、死んでからもなお、つまり死の一線をさらに超えて、永遠に、いつまでもとこしえに、という意味でありましょう。私はここに、多少のユーモアが込められていたにせよ、死を超える希望が語られたと思いました。結婚という、およそ死とはかけ離れた、命と命の強い結びつきを喜び合う、その祝いのただ中に死が意識され、しかもこの死を超える真実なる交わりの中に生きていきたい希望が示されたのです。それだけ、この特別な日が祝福に満たされ、死によっても朽ちない真実を確信させていたということでありましょう。


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いったい、死によっても決して朽ちることのない、死んでもなお残り続ける真実とは何でしょうか。本日与えられましたコリントの信徒への手紙一の聖書の言葉。そのお読みした最後は、次のように結ばれていました。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13節)。

これは、聖書の中でもよく知られている言葉の一つに数えられるでしょう。毎月お配りしている今月の教会の祈りの冒頭聖句にも掲げられた御言葉です。信仰と、希望と、愛、この三つがいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛だと言われる。愛こそが、全てを貫いて、いつまでもずっと残り続けるのだと言われる。

確かに文句のつけようのない真実に違いありません。そして愛は、教会の中でも外でも、世界中どこででも語られ、求められています。“愛は地球を救う”等というキャッチコピーがありますけれども、愛の確かさを信じ、それを求め続ける人々の心は真実でありましょう。しかしそれだけに、私たちの身近な所で溢れ、また私たち自身が造り出す愛が、どこか陳腐なものになってしまうことを恐れます。もしかしたら、私たちは、愛ならざるものを実は愛だと勘違いしているのではないか。そんなことも危惧いたします。

はたして、真実なる愛に生きるとは、どういうことでしょうか。今日お読みしました冒頭の4節は、私たちに次のように教えます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。

前回もここをお読みしました。愛の姿についてパウロが具体的に記しています。その一つ一つを詳しく見ることはできませんが、一つの特徴として、例えば「愛は~ない」という仕方で否定の形をとっている表現があります。愛は「ねたまない」と言われる。しかし妬まない愛などあるのだろうか。妬む心は、そこに愛があるからこそ生まれて来るものではないだろうか。自分はこんなに愛している。でも相手は期待通りに応えてくれない。こちらを向いてくれない。他の方ばかりを向いている。どうして妬まずにいられるだろうか。むしろ妬みは愛の裏返し、愛のしるしではないか。無関心であったら妬みすら抱かないのだから。

続く「愛は自慢せず」にも、同じ問いを抱くかもしれません。自分の愛する人が自分に何か良くしてくれた時、あるいは立派な事を成し遂げた時、その人のことを誇らしげに自慢したくなるのは当たり前ではないか。愛は「高ぶらない」とも言われるけれど、自分の愛するものが美しければ、そこに高ぶるほどの高揚感をもって生きることがどうしていけないのか。


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このようにして、さらに愛の打消し表現は続きます。愛は「礼を失せず」、「自分の利益を求めず」、「いらだたず」、「恨みを抱かない」。言葉を変えながらも、結局はどこか似たような言葉が繰り返し並べられているようにも見えます。その延長線で、ここにはない言葉で、さらに肩を並べるような言葉も幾つか思い浮かんでくるかもしれません。しかしどれをとっても、たちまち、愛ゆえの葛藤を私たちに抱かせるような、窮屈な教えにしか響かないかもしれません。

そう思いながら、最後の否定表現である、愛は「不義を喜ばず」という言葉に目が留まります。「不義」とは何でしょうか。その前に、「義」とはそもそも何でしょうか。義とは、「正義」という熟語があるように、「正しさ」のことです。しかしパウロが、あるいは聖書が「義」と言うとき、その正しさはいつも、関わりにおける正しさを意味します。

反対に申せば、関わりを持たない義、つまり人との関係を無視し、自分だけが正しく生きれていればそれでよい、というような独りよがりの義は、聖書において成り立たないということです。義は常に関わりを求め、その相手との関係の正しさを意味します。ですから、もし聖書的な意味で、自分は義に生きている、つまり罪人ではなく義人として生きていると言える時には、それは私自身の正しさではなく、まず根本において、私と神との関係こそが正しく結ばれていることが出発点になるのです。

神との正しい関わりに生きており、それ故、その神に捕えられ、見出されている自分自身に対しても正しい関わりを持つ。またそうであるが故に、今度は他者、共に生きてゆく隣人との間においても、神の御前に生きる者として正しく関わって生きてゆくことができる。神を真の神とする者だけが味わい知れる正しさというものがある。これが聖書の教える義、正しさです。相手抜きで、自分の中だけで成り立つようなものでは決してないのです。


先ほどから、愛はねたまない、自慢しない、高ぶらない…という風に、特に否定表現に注目して来ましたけれども、もし私たちが、自分の正しさだけを頼りに愛に生きてしまうなら、「妬んで何が悪い」、「自慢したり高ぶったりすることのどこが悪い」、それもこれも愛の内ではないか、というような言い訳を立てたくなるでしょう。特に愛することに真剣になるほど、私たちは自らの正しさに縛られて生きてしまうのではないでしょうか。

しかし、はたしてその正しさはどんな正しさなのか。独りよがりに陥っていないだろうか。独りぼっちで孤立してはいないだろうか。相手を生かし、神を喜ばせる正しい関わりの中から生み出された正しさだろうか。愛だろうか。もしそうでないならば、それは私自身の正しさではあっても、神や隣人との正しい交わりに生きる義とは言えないのではないか。正しさの陰に、不義が蔓延っている。この不義を、決して喜んではならないのです。不義に蝕まれた義に甘んじてはならないのです。

先ほど色々と並べ立ててみた言い訳は、実は私たちが神を本当の意味で知らないでいる時に愛だと思い込んでいた時の姿だと言えるでしょう。しかし、神をよく知るようになって初めて味わえる愛というものがある。その愛に支えられる自分という存在を新しく生きることができるようになる。もしこの愛に支えられていないなら、自分が自分でなくなってしまうとさえ言える。


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こうしてパウロは、今まさに自らが真の愛のただ中に生かされている真実を、全身全霊を込めて歌い上げます。一般に「愛の讃歌」として良く知られている4節以下の言葉は、決して愛の教科書ではありません。愛のチェックリストでもありません。愛の教えが説かれているというよりは、パウロ自身の内に造り出され、満ち溢れている愛の尊さ、素晴らしさが、大胆に告白されているのです。

真の愛を欠く自分はもはや自分ではありえない。そしてこの愛に生かされているからこそ、そこに生きる喜びと希望を証しせずにはおられない。そんなパウロの、愛に堅く貫かれた息遣いが生き生きと伝わってきます。なぜなら真の愛は、不義を喜ばないからです。そしてどこまでも正しい交わりを求め、その交わりを新しく造り出し続けるものだからです。

もしこの愛に立つならば、その愛は妬まないだけではありません。消極的な否定表現に留まりません。愛はもっと積極的な姿として、私たちを力づけるはずです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。……真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。私たちは今日、愛に関する否定表現だけでなく、ここにあるような肯定的な姿もしっかりと受けとめることが大切です。しかし、ここに数え上げられた全てをあれもこれも、というのでは、たちまち路頭に迷ってしまいそうです。


いったい、真の愛とは何か。正しい関係に支えられ、その交わりをさらに豊かに造り上げてもゆく愛とは、いかなる愛なのでしょう。

「愛は忍耐強い」。この言葉から始まったパウロの愛の讃歌は、よく見ると、7節の最後でも、ほとんど同じ言葉で結ばれています。愛は「すべてを忍び、……すべてに耐える」。「忍」ぶという字と、「耐」えるという字を組み合わせれば「忍耐」となる。パウロが讃える愛は、決して華やかでロマンティックなものではありません。忍耐に始まり、忍耐に終わる。忍耐こそが、愛を愛たらしめる最も重要な特質であると言ってよい。

なぜそう言えるのでしょうか。その理由ははっきりとは示されません。しかし愛は忍耐強く、すべてを忍んですべてに耐える、という言葉を受けとめるようにして、続く8節で「愛は決して滅びない」と断言しました。すべてに耐え抜く愛。滅びの力にさえも耐え切ることのできる愛ということでしょう。

この愛こそを見つめよう。求めよう。そしてこの愛にこそ、共に生きよう。なぜなら、「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れ」るからです(8節)。教会に賜物として与えられる預言や異言、そしてこれに関する様々な知識。これらは大切であるけれど、しかしこれらでさえ、やがて廃れる時が来る。絶対でなくなる時が必ずやって来る。全てを尽くすものにはなり得ず、部分的なものでしかない。

「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」(9~10節)。パウロはこう語って、愛の完全性、永遠性を訴えるのです。もしもこの愛がなければすべては「無に等しい」(2節)。「わたしに何の益もない」(3節)。自分が自分でなくなる。そして教会も、もし愛がなければ、真のキリストの体としてこの世に光を放つことなど、できない。


そして続く11節で、パウロは興味深いことを言います。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた」。どうしてこのようなことを言い出したのでしょうか。幼子を捨てた。ここでは幼子であることが決して前向きには捉えられていません。しかし主イエスはかつて、幼子こそが天の国を受け継ぐ者であると仰いました。

ここは幼子か成人か、という二者択一で理解する必要はないように思います。確かに私たちは、幼子のように無垢で、柔らかい心で主イエスに従う姿を求められています。あるいは、大人だと思っているところで、実は自分の責任や能力によっては乗り越えられない人生の決定的課題を背負っている事実に気づかされ、そこでこそ、真の主である神に助けられるべき存在であることを認める謙虚さが求められます。

そのような中で私たちは主イエスに出会って頂き、救われる幸いを与えられています。大切なのは、その恵みの中で、私たちも成長することです。それは子どもから大人へ、という社会的成長というよりも、まさに「成人」となる。もはやそこには、幼子か大人かの区別はなく、ただ神の御前で真の人と成る、という真実以外、何もないのです。それは立派な人間になることではありません。罪人にして義人とされる恵みです。罪に生まれ、罪に躓き、罪に溺れ死んでゆく悲惨な闇から救い出され、神の深い憐れみと赦しの中で神との正しい関係が回復され、真の愛に生きる人と成る、成らせて頂く、ということに外ならないのです。


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そこで、本当の意味で、その成人した者の目に刻印される真実がある。それが12節の言葉です。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。

私たちの目に日々映る現実は、どれだけ明らかでしょうか。しかしその現実を直視しながら、さらにその奥深くを見通してゆかなければ見えて来ない真実は、どれだけ明らかでしょうか。その意味で、私たちの目に見えているのは、「鏡におぼろに映ったもの」でしかないのかもしれません。

将来に対する不安や恐れ。今起きている理不尽な現実への憤りや悲しみ。あるいは、過去に犯した過ちや受けた傷による痛みや悔い。そうした重荷を私たちは背負いながら、今この時をどうにか生きています。楽に生きられる人生など決してない。忍耐なしには生きてゆかれない。否、その忍耐さえもう限界に来ている。否、もう超えた。しかしまさにそこで、私たちは今日の御言葉を聴くのです。神が語りかけるのです。そしてこの言葉を私たちの唇にも乗せてくださるのです。「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。

最後の「はっきり知られている」という受け身の言葉は、私たちがいつも誰かに良く知られているということです。誰に知られているかと言えば、言うまでもなく、神に知られているということです。そしてこの場合、知られるとは、まさに愛されるということです。私たちは、その初めから神に深く愛されているからこそよく知られ、今目の前で起きている現実が意味することや、この現実が向かう先のことも、すべて見通して頂いている。

その既に今知られている確かな明るさと全く同じように、私たちも「そのときには」、まさに主なる神が今もなお、あらゆる恵みをもってご支配くださるその時の中でこそ、すべてがはっきりと分かるようになる。見えるようになる。だから、そこに向かって耐えてゆこう。耐えなければならないのは、起きている事柄や相手に対してだけでなく、自分自身の愛の貧しさに対してであるかもしれません。しかし必ずや、来たるべき光を見出してゆくための賜物として、今、忍耐という愛があなたを生かし、あなたの隣人をも支えているのだという真実を、どうかもう一度受けとめ直してゆこう。


「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13節)。ここに、愛と並んで語られる信仰と希望。しかし突然出て来たのではありません。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(7節)。忍耐に始まり、忍耐によって実を結んでゆく愛の中に包まれるようにして、「すべてを信じ、すべてを望」んでゆく姿が貫かれているのです。

ここに、私たちの生きてゆく姿が映し出されます。ここから、私たちの道が新しく切り開かれます。希望の道です。真理の道です。命の道です。そしてここに、その全ての根拠となってくださるキリストが立っておられます。このキリストこそが、私たちに先立って、しかも私たちの身代わりとなって、私たちの全ての重荷をご自身の重荷として負い続けてくださるのです。あの十字架上で耐え抜いてくださったキリストの尊い忍耐が、私たちと共に永遠にあり続ける命懸けの愛を約束しています。


<祈り>

天の父よ。いつまでも残る永遠の愛を、この小さな私たち一人一人の命に日々注ぎ込んでくださるあなたの慈しみを覚えて感謝いたします。そのために、あなたが決死の覚悟をもって私たちとの絆を回復してくださり、御子イエス・キリストの命懸けの姿を通して、私たちに愛の道を歩ませてくださいました。どうかこの大きな愛の中で、どんな困難にも、どんな死の恐れにも耐え抜いてゆくことができますように。キリストが共に、私たちの望みと愛を新しくしてくださいますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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