2022年4月10日 主日礼拝説教(受難節第6主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編69:17~22
新約聖書 ヨハネによる福音書19:28~30
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本日の礼拝も、多くの方々にとっては会堂にお集まり頂くことのできない形で行われています。ここにいますのは、私と、奉仕される数名の長老たちと、そして僅かばかりの教会員の方々のみです。今週から受難週に入り、そして来週はいよいよイースターを迎える時だというのに、教会にとって最も大切なこの時にさえ、残念ながら一堂に会することは叶わなくなりました。
こうした状況が、もう2年余りにわたって繰り返し続いています。そしてちょうど2年前のこの頃の事を、昨日のように思い返します。信じられない程の閑散とした礼拝堂の様子が、今も目に焼き付いています。私だけではなく、この教会にとって、そしてまた皆さんにとっても、初めて経験することでした。イエス様に呼び集められた群れの姿こそが教会の本来の姿であるはずなのに、集まれない。
この事態は、あとあとご自分の教会生活を振り返ってみます時に、決して忘れることのできない光景となるに違いありません。否、決して忘れてはならない光景であって欲しいとさえ願います。そう願うのは、既に私たちは、この状況にどこかもう慣れてしまっているからかもしれません。何を今さらと思われるかもしれません。しかしそれだけに、この事態に痛みを覚え、悲しみを抱かざるを得ない出来事として、しっかり心に留めて置きたいと思うのです。
そして、実はこのことよりももっと忘れられない出来事となってほしいと心から願っていますことは、こうした状況の中にあって、今日ここで、十字架の主イエスのお言葉を共に聴くということです。会堂にいらっしゃる皆さんと一緒に、ライブで繋がっておられる皆さんと共に、暗い死が待ち受ける十字架へと向かわれる主イエスの歩みを思い浮かべながら、その最後の十字架上で声をあげられた主ご自身の命の言葉に、耳を傾けたいのです。
不穏な時代を迎えている今この時、今日この日に、この言葉を聴くことがどんなに必要で、またどんなに幸いなことであるかを信じるからです。
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「成し遂げられた」。
今日から受難週を覚えて歩み始めようとする私たちに、この言葉が与えられました。これは、ヨハネによる福音書が記す、主イエスの十字架上の最後の言葉です。
もうご存知の方も多いかもしれませんが、主イエスが十字架につけられた時、その十字架の上で語られた言葉を四つの福音書から抜き出してみますと、全部で七つ数え上げることができます。教会は、これらを伝統的に「十字架上の七つの言葉」と呼んで、大切にして来ました。
今日ご一緒にお聴きしましたヨハネによる福音書には、その内の二つの言葉が記されていました。一つは「渇く」(28節)という言葉。そして二つ目が「成し遂げられた」という言葉です(30節)。どちらも、とても短い言葉です。しかしどれも、主イエスの命懸けの言葉です。そして一言一言に、主の深い愛が注ぎこまれています。
「成し遂げられた」!
主は、今この十字架上で起きている事を通して、全てが成し遂げられたと宣言なさいました。既に28節には「すべてのことが今や成し遂げられた」と記されていますが、まさにその通りの意味です。もう何も付け足す必要はない。主イエスがこの世に来てくださり、神の子としてなさった全ての救いの業が、これで完成された。そのことを、主ご自身が悟り、確信して、今ここに言葉としてはっきり語られたのでした。
実はこの箇所を巡っては、同じキリスト者でありながらも、主イエスのこの言葉を逆の意味で捉えようとした人々もいます。つまりここは「成し遂げられた」ではなく、「まだ成し遂げられていない」、「まだ完成していない」と読み換えた人たちがいるということです。決して彼らのへそが曲がっているからではありません。むしろ現実を真正面から捉えるからこその、率直な思いでありましょう。
主イエスは確かに、神の国の到来を告げ知らせ、救いの御業を始められました。けれどもそれは未完成だ。成し遂げられていない。それはこの現実を直視すれば明らかではないか。今だって、戦争はなくなるどころか現に起こっている。平和は遠のくばかり。差別や排除も横行している。救いは遠のくばかり。自分の人生を振り返ってみても、やはり辛いことだらけ。苦しいことばかり。思ってもみなかった試練に直面している。何で自分はこうも不幸なんだろうか。
私たちは、いつでもそんな嘆きに捕われて生きざるを得ない存在です。主イエスの言葉を逆さに理解しようとした人々も、根っこは同じです。だからこう決心するのです。主が始めてくださった御業を完成するのは、この自分たちなのだと。ヘタに主イエスがあの時「成し遂げられた」等と仰ったがために、かえってキリスト者たちは、そこに安住して座り込んでしまっているのではないか。でも、神の国の到来、神の正義の闘いはまだ終わっていないのだ。だから座り込むのではなく、むしろ立ち上がるために、もうしばらくは、完成したと言う代わりに、「まだ本当には完成していない」という現実をここに読み取るべきだと主張するのです。確かに、一つの鋭い問いかけです。
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「成し遂げられた」。主ははっきりそう仰いました。
彼らほど強い主張ではないとしても、しかし私たちは心の中で、秘かにこう問いたくなるかもしれません。主よ、いったいあなたは十字架上で、何を成し遂げられたのですか?
この「成し遂げられた」という言葉は、一つ前の口語訳聖書ではこう訳されていました。「すべてが終った」。これは、絶望の叫びではありません。死ぬ間際までもがいたけれども、万事休す。万策尽きて、もはや打つ手もない。もうこれで終わりだ。そういう諦めの言葉ではありません。そうではなく、主イエスはここで、ご自分の最後の姿がこの十字架上にはりつけにされている現実を、しっかり受けとめておられます。ご自分の死に確信をもっておられる。だからもう、これで良い。すべてがこれで終わったのだ。
私たちが今この時、重荷を背負い、悲しみを抱え、不安を覚え、叫びをあげている、そうした現実のど真ん中で、この言葉を放ってくださいます。もうすべては終わった。すべては成し遂げられた。何も心配はない。主イエスは、私たちにそう言ってくださるのです。
私たちにとって、では何がもう成し遂げられているのでしょうか。興味深いことに、ある説教者がこの言葉について、ルカによる福音書の次の譬え話を重ね合わせながら、その意味を味わい深く説いたことがあります。それは「大宴会のたとえ」(ルカ14:15~17)と呼ばれる、主イエスの語られた譬え話です。
食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。
「もう用意ができましたから、おいでください」。
食卓の主人が、すべてを備えてくれました。そして自分の所に人々を招きました。言うまでもなく、この主人とは主イエスを指します。招かれる客は、私たちのことです。それ故この言葉は、教会によっては聖餐式の時に読まれる所でもあります。特に文語訳の言葉で唱えられているかもしれません。「来たれ、既に備わりたり」。
主イエスはしばしば、神の国を食事に譬えてお語りになりました。これもその一つであり、「盛大な宴会」としてその姿が明かされます。食事の準備が整って、予め招いておいた人々のところに使いが送られて、主人からの言葉が伝えられるのです。「もう用意ができましたから、おいでください」。
さて、なぜその説教者はこの箇所と重ね合わせたのでしょうか。それは、主イエスが「成し遂げられた」と仰った時に、まさに主の食卓への招きの言葉として受けとったからだと言うのです。全てが何もかも絶望に終わったのではなく、むしろそこで私たちにとって新しい生活、新しい命が始まることを約束してくださる言葉だったというのです。主イエスのこの宣言によって、新たな歩みへの備えができた。
そのために、私たちはまず主の恵みの食卓に招かれているのです。主の恵みを味わい、神の正義が実現する場所がここにできたのです。この世界のどこにも神の祝福など見出すことができなかったとしても、私たちには今、その祝福の確信を得させて頂ける確かな場所が、ここに与えられている。そうした喜びに満ちた祝宴の場所が、ついにキリストの十字架上のあのお言葉によって、備えられたのです。「成し遂げられた」!
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残念なことに、今日はこの礼拝で聖餐を祝うことはありません。先週が第一主日でしたので、聖餐が予定されていたのですけれどもしかしできませんでした。そして来週のイースターも、残念ながら主の食卓に与ることはできません。その機会が失われ続けていることは大変残念です。けれども、もしも聖餐に対するある種の憧れ、あるいは渇望までもが、今私たちの中から失われつつあるとしたら、私たちは霊によって、これと闘わなければなりません。霊の恵みによって、奮い立たせて頂かなければなりません。
なぜなら、主イエス・キリストご自身が待っておられるからです。十字架上で「成し遂げられた」と仰ったキリストご自身が、食卓の主人として、私たちをこの恵みのテーブルに招き続けてくださっているからです。この主の招きの手と、声から、私たちが遠ざかってしまうことは、あまりにも失うものが多いのです。
はたして、主イエスが十字架上で無惨な死を遂げなければならなかった理由は何だったのでしょうか。そして、あのお苦しみの絶頂を味わい尽くされながらも、そこでなお、「成し遂げられた」と口にすることができた主イエスの使命、主イエスの見つめていたもの、あるいは、私たちへの贈り物とはいったい、何だったのでしょうか。
主イエスが、ご自身の命と引き換えに私たちに与えてくださった、唯一にして決定的な贈り物、それは新しい命です。この体の命を、根っこから支える霊の命です。つまりキリストと共にある復活の命、永遠の命です。私たちは、この永遠の命に生きる者とされています。聖餐を祝う度に、その確かさに何度でも生き直す者とされ続けているのです。
私たちはもう、この世の死で終わることのない命に生き始めています。生きている間は神はいるかもしれないけれど、死んでしまったら神も仏もない等というような、神に捨てられてしまう死からも解き放たれています。そんな空しい死など、とっくに終わりにして頂いている恵みに生かされているのです。もはや死が死でなくなり、死をのみ込んで滅ぼし尽くす神の主権の御手の中に、私たちは握りしめられているのです。主イエスはここに私たちを招くために、全てを「成し遂げ」てくださったのです。
けれども今日最後に、そしてこれからも繰り返し、私たちがよく心に留めておきたいことは、死が死でなくなるとか、復活の命や永遠の命が与えられているとか、そういうことは、決して死後だけの話ではないということです。死んで初めて、永遠の命が得られる話ではない。なぜなら、私たちの命から死が取り除かれるということは、そこで私たちの罪までもが取り除かれることになるからです。だから私たちは、罪赦された者として、その赦しの光の中で、今を生き始めることができるのです。何度でもその恵みに立ち返って、その恵みの中から生き直してゆけるのです。そして愛に生かされ、その愛に自らも生きてゆく者へと、絶えず造り変えられるのです。
その意味で、今日の福音書にヨハネが書き残した最後の言葉に、まさにこの愛の根拠となる真実が、既に秘められているように思えてなりません。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(30節)。
「息を引き取られた」。
ついに主イエスは、ここで息絶えられました。しかし昔からこの言葉は、単に「死んだ」という理解だけでなく、もう少し元の言葉の意味に即して、こう受けとめられて来ました。「息を引き取った」。それはつまり「霊を、誰かに引き渡した」ということです。主が、誰かにご自身の霊を与えた、と言っても良いでしょう。では、誰に与えたのか。一つには、もちろん父なる神に対してです。神の許に返ったのです。しかしもう一つの理解は、その時主イエスの十字架を取り囲んでいた人々に対してです。特に今日の直前の箇所を見ますと、そこには母マリアを含む女性たち、そして愛する弟子の一人がいました。
主イエスは確かに息を引き取られた。しかしその時、ご自分の霊を、そこに集まった愛する者たちにもお渡しになった。主の霊が、遺された者たちの中にも働き続けたのです。「成し遂げられた」と宣言された愛の約束が、彼らを生かし続けることにもなったのです。逆に言えば、彼らは主から愛の霊を受け取った。そうだとすれば、もはやそこで愛に駆り立てられずにはいられなくなる。座り込んで等いられなくなるはずです。私たちもそうではないでしょうか。
先ほど、主イエスの言葉を逆さに受けとめようとした人々の姿に触れました。まだ神の国は完成していない。神の愛は成し遂げられていない。その実現を待つ人々や場所がここにもあそこにもある。だから私たちは立ち上がらなければならない。確かに尊い志であり、尊い愛の働きです。けれどもあらためて、私たちの愛の原動力は、主が「成し遂げられた」ことが不足だからということの中にあるのでしょうか。もしそうなら、その不足を埋め合わせるための私たちの愛は、はたしてどこまで本物として耐えられるでしょうか。
しかし主は確かに仰いました。「成し遂げられた」と。私たちにとって本当に必要なものは、もう全て備えられているのです。その恵みは十分に与えられ、私たちを愛の業に駆り立てるには既に十分に満たされているのです。私たちは、この愛の根拠にこそ立たせて頂きたいと願うのです。
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今日、教会員の皆さまには定期教会総会の資料をお渡ししました。来る総会に備えて、前年度の記録や報告に祈りをもって目を通して頂きたいと思います。そしてそこに、今年度の活動計画という項目があります。しかしそう称しながら、いついつに何が行われるか、という具体的なことは何一つ記されていません。記すことができません。この状況で、明確な見通しが持てないもどかしさがあります。
けれども、そこで思うのです。私たちが計画を立ててなしてゆく一つ一つの活動は何のためのものであり、また、その働きの根拠はどこに置かれるものなのかと。そしてまた思うのです。今、私たちの目にはたとえはっきり見通せなくても、しかしこの時、神ご自身が既に見通しておられるヴィジョンがあるに違いない。そのヴィジョンこそ、共に見てゆくものでありたい。こうした思いは、コロナという困難な状況を迎えてみて、あらためて示される恵みとさえ、私は受けとめています。
神のヴィジョン。それは、主イエスが「成し遂げられた」と約束してくださった、神の国の姿です。愛に満たされ、愛に交わり、愛の実りに喜び合う神の家族としての姿です。神の国は、頭の中にあるのではありません。死後だけに約束されているのでもありません。実に、私たちの間にある。主の恵みに生かされる私たちの命と愛の働きを通して、夢見させて頂く。否、実際この目で垣間見させて頂くのです。
そうした希望の中で、今年度の歩みを共に始めてゆく道が開かれました。この受難週に与えられた恵みです。全ては成し遂げられ、終わっている。必要なものはすべて、既に備えられている。私たちの重荷はもう取り去られているのです。
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