2023年1月1日 主日(元日)礼拝説教(降誕節第2主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 詩編42:2~6
新約聖書 ルカによる福音書2:21~35
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新しい年の最初の朝を迎えました。つい一週間前まで、私たちは一連の教会行事を通して、クリスマスのお祝いをしたばかりです。しかしその祝祭も終わり、あっという間に新年を迎えました。そしてお正月の様々な装いをしながら、この元日を過ごしています。
しかし教会の暦では、年が変わっても、キリストがお生まれになったことを喜ぶお祝いの季節は続いています。キャンドルにもまだ火が灯され、何より本日の元旦礼拝は、降誕節から二番目の日曜日であることを覚えての礼拝であります(降誕節第2主日)。これは決して形だけのことを言うのではありません。いったいクリスマスを祝い続けるとは、どういうことなのでしょうか。
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2023年の最初の礼拝で、私たちに与えられました御言葉はルカによる福音書第2章21節以下であります。ここにシメオンという一人の年老いた男が登場します。その彼が、このように歌い出した言葉が29節に記されていました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」。
これは「賛歌」といって、神様を讃える歌でありますけれども、実は今日のこのルカ福音書には、クリスマスに関連する賛歌が四つ収められています。最初は、イエス様の母となるマリアが親類エリサベトの所に出かけて、「わたしの魂は主をあがめ」と歌い出した<マリアの賛歌>(通称マグニフィカート)。二つ目は、イエス様よりも先に生まれた洗礼者ヨハネの父となったザカリアによる賛歌(通称ベネディクトゥス)。三つ目は、羊飼いたちに対してキリストの誕生を告げた天使の大軍による賛歌。これは第2章14節に出てくる「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉ですが、むしろラテン語の「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」の方が、よく知られているかもしれません(通称グロリア)。
そして四つ目が、今日の<シメオンの賛歌>です(通称ヌンク・ディミトゥス)。しかし率直に申し上げて、これは私たちにとって最も馴染みが薄いかもしれません。一つの理由は、物語をお読みになるとお分かりのように、そもそもこの歌が、主イエスがお生まれになって少し時間が経って歌われたものだからでしょう。したがって、クリスマスの物語や聖誕劇にはほとんど出てきません。聖書も、第2章20節まではいつも良く読まれますが、その先はせいぜい21節まで読まれることはあっても、22節以下はほとんど飛ばされてしまいがちです。
けれどもこの歌は、教会の長い伝統の中では、大晦日によく歌われても来ました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」。この讃美の告白こそが、一年が終わろうとする時、過ぎ行く時の中で自らの姿を振り返る際に、相応しい言葉だと考えたのでしょう。
その大晦日も過ぎて、今日、2023年が始まるこの真新しい一日に、この御言葉が与えられました。将来の目標や希望を描いて、そこに向かって奮い立とうとするまさにこの時、しかしこの御言葉を、神はシメオンの姿を通して私たちに聴かせてくださいます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」。
つまりこれは、言ってみれば、「もう自分はいつ死んでもよい」、という意味です。これでやっと安らかに死ねる、という確信です。平安なる確信。私たちにそういう生き方ができるでしょうか。しかしだからこそ、このシメオンの歌う心を、私たちもこの一年の最初の心として受けとめながら、その平安なる確信の内に歩み出したいと願うのです。
余談になりますが、私はこの箇所を何度も読み返しながら、実はある一つの言葉が繰り返し、脳裏にこだましていました。毎年流行語大賞なるものが発表されますが、昨年の大賞に選ばれた流行語は、「村神様」でした(三冠王を獲得したプロ野球の村上選手の見事な活躍ぶりが、ほとんど神業であることになぞらえて造られた言葉)。その光の陰で、しかし私には全く別の言葉が昨年はヒットし続けていました。
「ボーっと生きてんじゃねーよ」(某テレビ番組の人気キャラクターの決め台詞で、嫌味を感じさせない叱責の言葉)。自戒を込めて、なかなか鋭い言葉だと思います。事ある毎に、私は神様から、「ボーっとしてちゃいけないよ。絶えず目を覚ましていなさい。信仰の目で物事を見つめなさい」と叱咤激励を受けることがしばしばです。そして今日のシメオンの物語においても、思いがけず、私にはこの言葉が重なって響いて来るのです。
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はたしてシメオンは、どんな姿でここに現れていたのでしょうか。しかし今日の物語は、あくまでもクリスマスの続きとして描かれた出来事です。したがって、やはり物語の中心は主イエス・キリストです。そのキリストが、お生まれになって「八日たって割礼の日を迎え」(21節)ることになりました。この割礼というのは、ユダヤ人の男子として生まれたならば当然守るべき宗教儀礼でありまして、今日まで続くユダヤ教の慣習です。
続く22節以下にも、同じく当時のユダヤ社会ではごく当たり前の宗教的慣習の様子が描かれています。ただし、これは割礼と同じ日のことではありません。「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」とあるように、これは律法の定めに従って、生後40日を過ぎてからのことだと考えられます。その時に何をしたかというと、「両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」(22節)というのです。
なぜそんなことをしたのか。「それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである」と23節で説明されます。つまり、当時ユダヤ人の家庭ではどこでも、長男は特別な存在であった。他のきょうだいたちとは区別されて、聖なる者として神様のものとされた。だから神のものは神に返す。そのようにして、長男は神に献げられるべき存在として信じられていたのです。
ただし神に献げるといっても、まるでお供え物のように、神殿の祭壇に置いてくるわけにはいきません。したがって実際には、神の宮である神殿にお仕えする者にする。つまり祭司職に就かせる、という形をとることになります。そのようにして長男を神に献げる。けれども皆が皆、本当にそうできるとは限りません。そんなことをしたら、家の後を継ぐ者がいなくなってしまって困る。
そこでその代わりに、ある別の献げものをすることで良しとする、そんな有難い律法の定めがまた細やかに作られていました。そして本来の規定では、小羊一匹がまるごと献げられなければならないのですが、それさえ難しい貧しい家庭もある。その場合には、鳩で勘弁してもらうことができました。そういう背景で書かれたのが、実は24節です。「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」。この短い一文から、大工の家の子として生まれた主イエスの家庭が、どんなに貧しかったかということも伺い知ることができます。
さて、ここまでのところで、私たちは何を知るべきでしょうか。もちろん、当時のユダヤ社会の実情の一端を知ることができました。なるほど、そういうことだったのかという関心を抱かせるところもあったかもしれません。しかし、それ以上のものでは無いのかもしれません。やはり私たちの文化や慣習からは、遠くかけ離れているからです。
けれども、主イエスが神の子としてお生まれになったということ。それは決して、この地上で根無し草のように無国籍で誕生したということではない、ということです。主イエスは確かにユダヤ人の子として生まれ、ユダヤ人の血を受け継いだ。しかも長男である故に、ユダヤの文化やしきたりにどっぷり浸かりながら歩まれた。しかし、まさにユダヤ人として生きられたからこそ、そのようにして私たちと同じ人間になられたのであります。目に見える救い主として、私たちの世界にやって来られたのです。
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しかし私たちが今日ご一緒に心に留めたいのは、やはりこの後に続く出来事です。考えてみますと、ヨセフとマリアのお宮参りを迎え入れ、その献げものを受け取ったのは、神殿に仕える祭司たちだったはずです。そしてこの祭司たちの多くは、本来なら一家の長男が祭司になるべきところ、その代わりとなって務めを果たしていた者たち(一般にレビ族と呼ばれる)であったと考えてよいでしょう。
それは特段、珍しい光景ではなかったはずです。ごくありふれた、当時の現実であったに違いありません。言ってみれば、彼らは雇われの祭司として、淡々と務めを果たしていた。ヨセフ一家の貧しい献げ物についても、律法で認められた範囲内のことではありましたから、この一家だけ何か特別目に留まるということもなかったことでしょう。ましてや、この両親の腕に抱きかかえられていた幼な子が誰であるかに至っては、知る由もなかったでしょう。誤解を恐れずに申せば、彼らは良くも悪くも、実に淡々と、あるいは何の感動や喜びもなく、毎日毎日お宮参りに来た人々の世話を続けていた。そんな光景が想像できます。
ところがここに、この貧しい一家を心から歓迎した人がいました。とりわけ、その中心に眠る幼な子の誕生を大いに喜ぶ、一人の年老いた男が現れたのです。それがシメオンです。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(25節)。
この人が誰なのか、その詳しい素性については何も分かりません。しかし明らかに祭司ではありません。そういう意味では、一般の庶民、市井の人であったと思われます。しかし今日の舞台である神殿に同じく居合わせたことからすれば、信仰をもった一信徒であったでしょう。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」とある通りです。
そのような、どこにでもいそうな信仰者の一人が、しかし誰よりも、神に献げられるために連れて来られた幼な子を喜んだのです。淡々とその日もお務めをこなしていたであろう祭司以上に、否、祭司に代わって、この幼な子イエスを受け取り、両腕に抱きかかえるのでした。そしてそこで神を讃えるあの歌を歌うのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。/わたしはこの目であなたの救いを見たからです。/これは万民のために整えてくださった救いで、/異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」(29~32節)。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」。私はこの最初の一言に、シメオンの万感の思いがぎゅっと込められているように聞こえます。「主よ、今こそ…」。今ようやく、これでやっと、この私は安らかに死ぬことができます。もう死んでも構わない。あとは主よ、どうぞあなたにお任せします。
しかし裏を返せば、シメオンは今日この日を迎えるまで、実は死んでも死にきれないほどの切なさや不安を抱いていたのではないでしょうか。26節にはこう記されていました。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。シメオンは確かに信仰にあつく生きていた。けれども反面、自分は本当に救われるのだろうか。死んでも、永遠の命を約束されるのだろうか。日々弱ってゆくこの体。一日毎に死が近づく現実。身も心もだんだんしぼんで朽ち果ててゆくように感じられる中で、救いの確信がなかなか得られない不安や空しさ、焦り。あるいは飢え渇き。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。/神に、命の神に、わたしの魂は渇く。/いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」(詩編42:2~3)。
そのような切実な戦いがきっとあったのだと思います。でもだからこそ、真の救い主メシアを待ち続ける真剣な眼差しも一層開かれていったに違いない。そしてついに、その目に救い主が現れたのです。救いの訪れに気づくことができたのです。
これが、聖書が伝えるもう一つのクリスマスの出来事です。もしかしたら私たちは、クリスマスというのは子どもや若者中心のお祭り行事だと思うところがあるかもしれません。そして大人や老人は、そんな若い世代が喜んでこの時を過ごせるように、あれやこれやと懸命に準備する。あるいはこの時ばかりは若者たちに合わせようと、多少背伸びをしながら過ごす。そのようにクリスマスは命に溢れ、エネルギーに満ちた光のお祭りであって、元気な若者たちが中心となって祝うものだという感覚がどこかにあるかもしれません。
しかし、聖書が伝える最初のクリスマスの様子は、決してそうではありません。むしろ救い主イエス・キリストの誕生を心から喜び、その平安と感謝を神に向かって心から歌い上げることができたのは、誰よりもこのシメオンでありました。そしてこの後に続けてもう一人登場する、アンナというこれまた老女であったことを、私たちはぜひ心に刻みたいと思うのです。
昨年の9月から、私たちの教会で始まりました「しらゆりの会」のことを重ねて思い起こします。この会は決して高齢者のためだけに限定したものではありませんが、この会を毎回楽しみにして足を運ばれる方の多くが、ご高齢の方々たちであることもまた事実です。既に4回行われました。回を重ねる毎に、参加者の心の内にある深い思いの一端が味わい深く分かち合われていることを、私は大変嬉しく思っています。
そうした中で、前回から、短い証しの時間を取り入れ始めました。できれば今後、毎回一人ずつに短い証しをして頂いて、互いに耳を傾け合おうという試みです。この会を準備するメンバーの間では、もちろん様々なことが検討され、配慮されます。そしてこの証しの試みが、決して敷居を高くするものではなく、むしろ誰にとっても楽しみで、恵みとなるようなものになるために、何が大切だろうかという点についても話し合われました。その時に、ある方がこのようなことを言われました。「大切なのは、自分がこれまで何をしてきたか、自分に今何ができるか、ではない。神の憐みの中で、自分がどこに立たされているか。そこです」。
私はその通りだと思いました。人前で語る時、はたして自分には何か誇れるものがあるだろうかとか、自分が立ちたいと思っている場所に実際立てているかどうか、という色眼鏡はかける必要がない。むしろどんな境遇や姿にあっても、ただ神様の憐みの中で、自分は今どこに立たせて頂いているのか。その真実にこそ気づかされて、そこで湧き起こる感謝を互いに証しできるような会になるならば、どんなに素晴らしいだろうか。そんな期待が高まります。
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シメオンが目にした救いの出来事も、まさに神の憐みによるものに他なりませんでした。彼が信仰熱心だったからではない。彼自身の力で引き寄せることのできた救いでは決してないのです。なぜなら「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)からです。「そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26節)からです。否、そもそもこの日、彼が神殿の境内に入って来たのは、ただただ「“霊”に導かれて」(27節)のことに他ならなかったからです。彼はどこまでも聖霊に包まれていた。神の憐みの眼差しに捕えられていたのです。
この聖霊に導かれたシメオンの実際の姿は、次のように記されていました。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み…」(25節)。何だか非の打ち所のない、私たちの手の届かない存在に映るでしょうか。しかし「正しい人」とは、いったいどういう意味でしょう。過ちを一切犯さず、やる事なす事全てが正しいということでしょうか。しかし聖書が教える本当の正しさとは、その人自身の正しさのことではなく、神との関係の正しさを言います。むしろその人だけを見れば、このシメオンにしても、全く正しいなんて言えない。信仰を持っていてもすぐに挫け、神の救いを疑ってしまう、欠けのある姿です。けれども、そこでなおシメオンが正しいと言われるのは、そんな自分の姿をいつも神の御前に差し出しながら、悔い改めと赦しの恵みに生きたからです。御許に立ち帰らされる中で救いを待ち、忍耐と共に歩んできたからです。
「信仰があつく」という意味も、誰かと比較して信仰が熱心で、立派だということではありません。むしろその姿は、「神様の事柄に注意深い」ということです。平凡な日常の現実を、目を覚ましながら見つめる。霊の眼差しで見つめる。祈りの目で見つめる。そうしながら、そこに神の指の働きを読み取るのです。
そしてもう一つ、「イスラエルの慰められるのを待ち望み」。これは不思議な言葉です。シメオンは、自分自身の不安で精一杯だったはずです。ところが彼は、自分が慰められることだけを願ったのではない。イスラエルの民全体が慰められるのを待ち望んだのです。それは、彼が広く優しい心を持っていたからでしょうか。しかし私は思うのです。彼は自分自身の老いてゆく惨めさ、あるいは、死を前にして不安を募らせる己の信仰の脆さ、またそれ故の辛さを、誰よりも深く思い知っていたのではないか。だからその辛さを抱えて生きている自分の周りの人の姿を見ることも、きっと耐えられなかったに違いない。悲しんでいたに違いない。民全体が救われなければ、自分も本当の意味では救われないし、死ぬわけにはいかない。
しかし今日、ついにシメオンは真の救いを見ることができました。救いの知らせをただ耳で聞いたのではない。確かにその目で見たのです。「わたしはこの目であなたの救いを見た」(30節)。それ程までに、救いが明らかとなった。この身に確かな救いが訪れたのです。これで自分はようやく安心して死ねる。これでイスラエルの民も、否、それどころか異邦人を含む万民も、皆救われる。
このシメオンの喜びの歌は、ヨセフとマリアを驚かせるものとなりました(33節)。我が子のことでありながら、二人は改めて驚くのです。この幼な子に秘められた神のご計画が何であるかを、シメオンよりも前に知らされていながら、しかしここで新しく驚いてしまうのです。それくらい、主イエスの誕生は、何度でも人々を驚かせつつ、救いの喜びへと招くのです。
クリスマスは、決して12月25日で終わるものではありません。むしろここから、救いの出来事が始まるのです。私たち一人一人の所に訪れるのです。シメオンにとって、おそらくこの時の喜びは、生涯で最初で最後だったかもしれません。しかし私たちは、救いを見続ける喜びに与っています。毎週のこの礼拝も、そのための聖なる神との交わりなのです。
<祈り>
天の父よ。新しい年の初めに、あなたの確かな御言葉を聞かせてくださり、ありがとうございます。キリストの誕生を祝うクリスマスの出来事は、私たちに訪れる救いの喜びであります。その喜びを、あなたは今もこの目に確かに見させ続けてくださいます。どうか私たちの信仰の目を開いてください。私たちの日常の歩みの中に、あなたの救いの御業を注意深く見させてください。そしてその喜びを、一人でも多くの友と分かち合う恵みへと、このひと年も、どうぞ導いてください。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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