2023年12月17日 主日礼拝説教(降誕前第2主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 マラキ書3:23~24
新約聖書 ルカによる福音書1:5~25
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その昔、互いに労わり合い、祈り合いながら、共に老いの坂道を上り行く老夫婦がおりました。夫の名はザカリア、妻の名はエリサベト。聖書によりますと、この二人はともに「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどこがなかった」(ルカ1:6)とあります。神さまの教えを一点一画も疎かにはしなかった。そのことがどれほど二人にとって誇らしく、また喜ばしい信仰の生活であったかを思います。
けれども、この老夫婦には晩年に至るまで子どもが授かりませんでした。そしてそのことだけが、二人の人生に影を落としていました。当時、神さまの祝福と言えば、それは一つには、子どもが与えられることだと信じられていました。ですから、もし自分たちに子がなかなか生まれないとなれば、神に見捨てられたのではないかと不安になるのです。ザカリアとエリサベトにとって、長い間子どもに恵まれないという事実はどれほど辛く、悲しく、また重荷だったことでしょうか。それはまた、世間に対しては「恥」(25節)を募らせるものともなっていました。
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さて、ある日ザカリアは、神殿で祭司としての務めを果たしていました。彼は香をたいて祈りを献げる役目です。辺りに良い香りが漂い始めた頃、立ち上る煙の傍らに突然天使が姿を現し、ザカリアにこう告げました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。……彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、……準備のできた民を主のために用意する」(13~17節)。
ここで天使は、今日併せてお読みしました旧約聖書の最後の言葉、預言者マラキの言葉が実現すると告げたのでした。イスラエルの民たちにとって待ちに待った救い主がとうとう来られる。そしてその真の主の到来に先立って、まずお迎えの準備をする者が、エリヤの霊と力を受けて、エリヤに連なる者として、やって来る、というのです。
何とも喜ばしい知らせのはずでしたが、しかしザカリアは、これを俄かに信じることはできませんでした。なぜなら、救い主をお迎えするヨハネという先駆者が、よりによって既に老年になっている妻エリサベトから生まれると言うからです。年齢的にも、体の健康や負担を考えてみても、疑ってしまうのは無理からぬことでした。そんなバカなことが起こるはずがない。何を根拠にそう言えるのだ。そこでザカリアは天使に言います。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。
天使がこれに対してとった態度は、実に厳しいものでした。不信を抱くザカリアの口を、利けなくなるようにしたのです。つまり、神さまからの良い知らせを拒もうとする口を閉ざすことによって、その口から出る言葉をことごとく奪い去ってしまったのです。なぜなら、「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから」です(20節)。
ここに、私たち人間の抱く絶望というものが、神さまの約束と希望を見えなくさせてしまうという皮肉が示されているのではないでしょうか。今、目の前で起きている現実が全てであって、その目に見える状況でしか物事を認識できなくなるあまり、望みを持ち続けることが苦しくなる。もう諦めてしまう。そんな私たち自身の弱く、貧しい姿が重なって映し出されているような気がしてなりません。神の恵みの祝福に与りながら、しかしいつしかその恵みの的から外れて、一人孤立したまま独りよがりに、あるいは独りぼっちに、絶望の困窮に陥っている、私たち人間の神に対する罪の姿であります。
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さて、その日を境に、ザカリアはたった一言も発することができない日々を、否応もなく強いられることになりました。しかしその傍らで、妻エリサベトのお腹は日毎に大きくなっていったでしょう。決して口答えできない状況に置かれたザカリアに対して、神の計画された出来事が、はっきり目の前で付きつけられていったのです。
彼はきっと、「これはもう、信じないわけにはいかない」。そんな思いに導かれていったことでしょう。しかしまた、天使の言葉を疑った自分の愚かしさが身に沁みて感じられたことでもあったに違いありません。そのように、強いられた沈黙の中で、ザカリアは次第に神の御前で深い悔い改めの心を募らせていったと思うのです。時が来れば本当に神の言葉は実現するんだという真実味を、そこではっきりと噛みしめることになったのです。
いったい、この強いられた沈黙は何だったのでしょうか。自分の不信仰によってまるで罰のように課せられてしまった、この言葉が話せないという不自由さは、単にザカリアに対するお仕置きだったのでしょうか。確かに神は、彼の不信仰を裁かれ、悔い改めへと導かれました。しかしこの悔い改めは、喜びへの入口に外なりません。時が来れば必ず実現する神の言葉を待ち続けることの尊さ、また、それが本当に実現することの喜びを、神は確かに味わわせてくださったのです。
やがて、天使を通して神がその誕生を約束してくださった男の子が生まれ、その生まれた子を「ヨハネ」と名付けることになった日、ザカリアの閉ざされた口は解かれ、舌もほどけて、失われていた言葉が戻って来ました。その時彼は、待望の子どもを授かった喜び以上に、神がこの自分を赦してくださったのだという感謝と讃美に心を震わせていたに違いありません。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(68~69節)。
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今、私たちは、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望むアドヴェントの季節を迎えています。このアドヴェントというラテン語は、日本語では「待降節」と訳され、「待」という字が入っています。けれども、このアドヴェントという言葉には、元々「待つ」という意味はなく、むしろ「来る」とか「到来する」という意味の言葉に由来しています。別の言い方をすれば、アドヴェントにおいて本当の主体であるのは、待つ側の私たちではなく、向こう側から来てくださるお方である、ということです。
このアドヴェントの時期、確かに私たちはクリスマスを待ちながら様々な準備をします。それはとても大切なことであり、準備なしには落ち着いてクリスマスを祝えません。けれども、世界で最初のクリスマスは、実は人間の側には何も準備ができていませんでした。突然、クリスマスの出来事が身に降りかかって来たからです。今日のザカリアのように。あるいは、母マリアや父ヨセフですらそうであったように。落ち着いて祝うなど、そんな余裕はありませんでした。
こうしてクリスマスは、まさに「やって来る」という出来事から始まりました。その時、人々は準備などできていなかったのです。それどころか、驚きのあまり、戸惑いのあまり、その出来事をすぐには受けとめることができず、疑いすら抱いてしまうほどでした。しかし、そのような人間の不十分な態度をものともせず貫きながら、神さまのご計画は実現してゆくのでした。そして人々の心もそれに従って、静かに整えられてゆきます。
改めて今日の17節で、こう言われていました。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。
いったい誰が、クリスマスに相応しい「準備のできた民」として、今ここに名乗りを上げることができるでしょうか。私たちの準備、私たちの待つ姿は、私たち自身の努力や意気込みだけで成り立つものではありません。私たちが本当に待てるのは、「時が来れば必ず実現する神の言葉」の真実にこそ支えられるからに外なりません。来るかどうかも分からないあやふやな訪れの約束を、私たちは待ち続けることはできません。しかし主は必ず来られ、神の御言葉は必ず時を得て、実現するのです。
その意味で、昨日この礼拝堂で一足先に行われたこどもクリスマス会は、大変心に残りました。確かに準備してこの日を迎えました。特に生誕劇は、実に4年ぶりにここで実演することができました。それはとても微笑ましく、また誇らしく、子どもたちも大人たちも懸命にやり切りました。各々の役柄を通して、主イエスのご降誕を指し示し、讃えることができました。それはまるで、この礼拝堂が天の国の広場のようになって、神さまに祝福されたひと時となりました。
その時、私はふとこう思ったのです。あぁ、ここにもイエスさまが来てくださっているんだ。祝福の光をもってこの場を、子どもたちを、輝くほどに照らしてくださっているんだ。そう思えた時、その主が来てくださったという恵みこそが、私自身を御前に導いて、新たに悔い改めさせてくれました。そして今日のザカリアのように、静かにクリスマスを信じながら、待つという心の準備が与えられたのでした。
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「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから」(20節)。
今日のこの厳しい天使の言葉に打ちのめされながらも、ザカリアは再び立ち上がることができました。御言葉の約束を信じることができました。
「信じる」ということは、私たちの今のありようの延長線上にはありません。つまり私が私のまま変わらないで、自分の考えや納得の延長線で信仰を得ようとしても、それは難しいのです。なぜなら神を信じる信仰とは、どこまでもその神自身からの恵みとして与えられるものだからです。この恵みによって、古い自分が壊されるのです。自分の基準や世の中の常識で物事を判断し、疑いや諦めを内に秘めている私たちの古い存在のありようそのものが、絶えず打ち砕かれ、新しい自分、神の恵みに委ねきった自分がそこで誕生するのでなければ、信じることができないのです。待つこともできないのです。
しかしキリストは、まさにそうした私たちの不信仰の闇にこそ、訪れて来てくださいました。神を見失い、自分が今どこにいるかも分からないでいる私たち、あるいは神を信じたくても信じることができない苦しみに喘ぐ私たちを憐れんでくださるためです。そして、そのように神の恵みの的からいつでも外れて生きてしまう人間の罪の姿を赦し、そこに新しい人間を建て上げて、父なる神の御許に立ち帰らせる喜びを、救いを、約束してくださったのです。
今、神の祝福の言葉が実現するその日をひたすら待ち焦がれつつ、忍耐と苦境の中に置かれている方々がいらっしゃることを思います。しかし私たちの目に映る現実が、たとえ今なお受け入れ難いものであっても、既にこの地上に信仰の灯を焚きつけるためにやって来られた主イエスの光は、時を経た今ここにも、確かに及んでいます。その確かな光は、いつでも準備が整わない私たちの命の根っこにまでもう届けられ、根差しているのです。
どうかこの祝福の中で、信仰の兄弟姉妹たちと共に、「時が来れば実現する」神の御言葉を、終りの日まで信じ、信じ抜くことができますように。
<祈り>
天の父よ。あなたは私たちの真の父であられます。あなたの子である一人一人を忘れず、見離さず、絶えず恵みと共に私たちの所に訪れて来てくださいます。その確かな約束を、幼子イエス・キリストの誕生を通して果たしてくださいました。どうかこのお方のご臨在の中で、私たちも余計なおしゃべりをやめ、心を開いて、あなたからの戒めと、その奥にある恵みを噛みしめることのできる沈黙を豊かに育んでください。あなたの約束の言葉を信じることができますように。慕い焦がれつつ待つことができますよう。救い主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
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