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「正しいことをすべて行うために」

2024年1月28日 主日礼拝説教(降誕節第5主日)       
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書11:1~5
新約聖書 マタイによる福音書3:13~17

                 

昨日は、こどもの教会の教師修養会が教会で行われました。予定の時間を少し超過するほど実り多いひと時となりましたが、掲げたテーマは「子どもと一緒の礼拝」というものでした。子どもたちを積極的に招いて礼拝を守るということの意義や方法、またその歴史について、大変豊かに学び合うことができました。しかし同時に、そこで実は、子どもを招こうとする私たち大人自身の礼拝に対する姿勢というものも大切な課題として示されました。

その中で、一つ鍵となる言葉が共有されました。「厳かな礼拝」。いったい「厳かな」礼拝とはどんな礼拝のことだろうか。私たちはどうすれば「厳かに」礼拝を献げることができるだろうか。「厳か」から連想する言葉は、例えば、「厳粛・静粛」というものでしょう。身なりを整え、姿勢を正し、心を清め、様々な所作も丁寧に行う。どれもとても大切な事柄です。

けれども、こうしたことを本当に可能にさせるのは、私たち自身の心構えや努力、あるいはそれらを促すルールといったものだけではないのではないか。むしろ、既に神ご自身が「厳かな」お方なのだから、その神ご自身の本当の厳かさが貫かれるところでこそ、私たち自身も、神に対する応答として厳かな態度をとらざるを得なくなる。ありのままで良いと思っていたのが、ありのままではいられなくなる。そこに、「厳かな礼拝」の真実が立ち現れるのではないだろうか。参加者一同、そうした恵みに気づかされたのでした。

では神の厳かさとは、どんな厳かさなのでしょうか。


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本日与えられましたマタイによる福音書第3章の言葉は、前回からの続きです。ところで、主イエスの地上でのご生涯を考えます時、「公生涯」という言葉がしばしば用いられます。公の生涯です。主イエス・キリストがお生まれになったクリスマスの出来事を経て、いよいよ公の舞台にその姿を現される。そしてご自分が何者としてこの世に来られたかを、主自らが公にされてゆくのです。

ではその公生涯はどのように始まったのか。それが、まさに本日お読みした、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる出来事だったのです。それまでナザレのイエスと呼ばれたお方が、ここからいよいよ神の使命を果たすために、人々の前に身をさらしてゆく。その出発点に、主イエスご自身の受洗という出来事があったのです。

「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)。前回述べましたように、洗礼者ヨハネは人々に天の国の到来を告げ、だからあなたがたも悔い改めるようにと、強く訴えかけました。その悔い改めの徴となったのが、ヨルダン川での洗礼です。

ここでいう悔い改めとは、過去のいけなかったことを反省したり、取り返しのつかないことを悔いたりすることだけではありません。そのように頭や心の問題だけに留まらず、その人自身の存在や生き方が根本から変えられることです。そこでは、自分だけではなく、神との関係が問題となります。つまり、自分の姿勢全体を神に向け直すということ。それまで神に背を向け、神から的外れに生きてしまっていた自分の生き方を、神に方向転換するということに他なりません。

ですから、ヨハネはこの点で中途半端な悔い改めを嫌いました。はるばる遠くから洗礼を受けにやってきた人々に、相当厳しいことを言う。これも前回見ましたように、特にファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(3:7)と激しく言い放った。そうした厳しさの中で、洗礼の列を成していたところに、主イエスがやって来られたのでした。

これはとても驚くべき出来事だったに違いありません。考えてみれば不思議なことです。神の子である主イエスが、どうして洗礼を受けなければならないのか。罪を犯すはずのないこのお方が、どうして悔い改める必要があるのか。そしてまた、どうしてこの受洗という出来事が、公生涯の初めに無くてはならなかったのだろうか。


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事実、ヨハネ自身がそう問いました。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」(14節)。

洗礼を受けようとして主イエスがヨハネの前に現れた時、ヨハネは自分が洗礼を授けることに躊躇した。これは、主イエスの受洗が決して当たり前のことではなかったことを私たちに示しています。つまりヨハネは、自分の方こそ主イエスから洗礼を受けるべきなのに、その主が、自分から洗礼を受けるとは、まるで逆ではないか。ところが主イエスは、あえてこのような逆の事を、自ら進んでなさったのです。

その理由を次の15節で仰います。「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」。

主イエスがここで洗礼をお受けになるということが、どうして「正しいこと」だったのでしょうか。遡ってみますと、主イエスはイザヤの預言通り、先駆者ヨハネの道備えによって今ここに登場されています。神のご計画通り事が進んでいるという意味では、主がヨハネの後を受け継ごうとされることは確かに正しいと言えます。けれども、主イエスはヨハネと並んで、全く同じだったでしょうか。

例えば、ヨハネのように、あるいはヨハネ以上に、さらに激しい説得力をもって人々の罪を責め立て、悔い改めを迫る洗礼を授けられたのではない。あるいはヨハネを退けて、「ヨハネの役目はこれで終わりだ。これからは私の出番だ。私は全ての人に洗礼を授ける。ヨハネに対してもだ」等と、高みに立ってご自身の権威を現そうとされたのでもない。そうではなく、ヨハネのもとで身を低めて洗礼を受けられた。自らも罪人の中に交じり、その一人として悔い改めの洗礼をお受けになったのです。

なぜでしょうか。罪人であるはずもない御子イエス・キリストが洗礼を受ける。それはやはりおかしなことです。矛盾することです。ヨハネが躊躇したのも当然です。でも主は、矛盾ではなく、どこまでも「正しいこと」としてこれを推し進められるのです。ある人はこれを、主イエスがそれ程にまで謙遜だったからだと考えます。本当は洗礼を受ける必要などないけれども、あえて同じ仲間になろう。主イエスの遜りの姿です。しかし、それだけでしょうか。


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そこで、やはりもう一度「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」だと仰った主イエスの御心を尋ねたいと思うのです。日本語に訳された聖書の中で、個人訳というものがあります。例えばその一つ、塚本訳ではこう訳されます。「さあ、そう言わずに!こうして、せねばならぬことを何でも為遂げることは、われわれ[二人]にふさわしいのだから」。また、柳生訳というのもありまして、それによれば、「正しいことをすべて行う」は、「神の求めたもうことをすべて行う」となっています。

「正しいこと」とはまず、「せねばならぬこと」である。では、誰にとってせねばならぬことなのか。それは、「神の求めたもうこと」として、父なる神ご自身が成し遂げねばならないとお思いになっておられることだということが明らかになります。事実、一昔前の共同訳聖書では、「正しいこと」は、「御心にかなうこと」と訳されています。

聖書を理解する一番良い手引きは、聖書そのものだとよく言われますけれども、様々な聖書の翻訳を読み比べるだけでも、その苦心の痕跡から、一つの訳だけでは表しきれない言葉の深みを私たちは知ることができます。主イエスがあえて、ヨハネを制止してまでも洗礼をお受けになろうとされたのは、それがどこまでも、神ご自身が求めて成し遂げなければならないことであり、神の御心にかなうことだったからに他なりません。


では、この神の御心が、「正しいこと」として今ここに成し遂げられようとする時、いったい何が起こるのでしょうか。ここでは今、言ってみれば「神の正しさ」というものが問題とされます。神の正義です(ロマ書では「神の義」とも言われます)。

この神の正義が主張される時、そもそも神の正義が貫かれなければならないのは、私たちの側にある神に対する不正や不義、つまり罪のためです。この罪は悔い改められなければならない。滅ぼされなければならない。それはまさにヨハネの言う通りです。それほど神の裁きは厳しいのです。

このことから言えば、主イエスも同じであったでしょう。ヨハネと同じく、罪の克服を目指す。人々に悔い改めを求め、不義との闘いに終わりをもたらす。成就させる。けれども、主イエスを通じて明らかにされる神の御心としての正義は、どうもヨハネの場合とは異なるのです。罪人をなおも激しく裁くというのではない。そうではなく、主自らが罪人としての洗礼を受けられる。父なる神が御子にそうさせる仕方で、ご自身の正義を貫こうとされるのです。


いったい、この不思議な神の正義とは何でしょうか。ここで私たちが心に留めておきたいのは、神の正しさとは、他でもない私たち人間との関係の正しさを意味するということです。逆に言えば、神の正しさが発揮される時、それは人間と一切関わらないところで、独りでに発揮される正しさのことではないということです。人間と関わる仕方で、しかも私たちのために、神がそこで成し遂げてくださる正しさです。神が私たち人間と関わろうとされる時、言わば、ご自身が最も神らしく振舞おうとされる時にこそ立ち現れて来る、神ご自身が求めておられる正しさのことなのです。

確かに洗礼者ヨハネも、救い主イエス・キリストも、人々に悔い改めを求めました。この点では両者同じです。神に対して正しく向き直ってほしい。正しい関係を結んでほしい。ですから、もし神との関係が歪んでいれば、「それでは駄目ではないか」と告げなければなりません。ヨハネはそれをした。けれども、はたして私たち人間がそういう仕方で𠮟られ、正されようとする時、素直に悔い改めて神に向き直るかということです。そうできれば話は簡単です。

しかし私たち自身のことを考えてみても、事はそう易しくない。かえって強情になり、心を閉ざしてしまうのではないでしょうか。なぜなら、「それでは駄目ではないか」と言われなくても、実は私たちは、自らの過ちに気づいている。自分の不誠実さは百も承知だ。神に対しても人に対しても正しくあろうとして、しかしいつも挫折してしまう自分がいる。そのことを指摘されればされるほど途方に暮れてしまう…。

その私たちの惨めさを、罪深さを、主イエスはよくご存知だったのではないでしょうか。否、父なる神ご自身こそ、よくよく知ってくださっていたのではないか。そこで、いったいどうしたら正しい関係を回復できるか。それは神ご自身が、人間に対して正しく振舞うる以外道はない。神がなさねばならないことを成し遂げる他ない。

その御心が貫かれる仕方で、今ここに姿を現しておられるのが、御子イエス・キリストに他なりません。その姿は、しかし私たちの向こう側に立って、「それでは駄目ではないか」と裁くものではなかった。私たちと同じ側に立たれたのです。否、私たちの頑なな罪の中に入り込んでくださった。そして、この罪をご自身の罪として引き受けてくださったのです。これ以外に、人間が本当に神の御前に悔い改め、正しく歩む道は切り開かれなかったからです。これこそ、主イエスが「正しいこと」と仰った真意であり、神にとってどうしても成し遂げねばならなかった御心だったのです。


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最後に、主イエスが私たちの罪を引き受けてくださったということの恵みを、次のような事から共に考え、受けとめたいと思います。

ある学校での出来事です。A君が取り返しのつかない過ちを犯してしまった。そのことでクラスの一人が傷つき、そして学校全体の名を汚すことにまでなってしまいました。他のクラスメイトたちは、その事を起こしたのがA君だとはまだ知らず、したがって、教室内では犯人探しが始まりました。「いったい誰がこんなひどい事をしてくれたんだ。仲間の一人が悲しんでいるじゃないか。そのせいで、自分たちの学校の評判もガタ落ちじゃないか。どう責任をとってくれるんだ。黙ってないで名乗り出て来なさい!」。

教室内は騒然とし続けます。そして当のA君は、とっくに自分の過ちに気づき、姿勢を正して謝りたいと思っている。しかし周りがあまりに責め立てるので、かえって委縮し、心を頑なにして、教室にとうとういられなくなってゆきました。そこに、クラス担任が登場します。ところがその先生は、犯人探しに躍起になるのではなく、誰かを責め立てるのでもなく、黙って教室を出ます。廊下を歩き、向かった先は校長室。そしてそこで校長先生の前で跪き、土下座をしながら「自分がやった」と謝るのでした。同じように、今度は被害にあった生徒のもとにもやって来て、申し訳なかったと心から詫びるのでした。

いったい、A君はこの先生の姿をどんな思いで見つめることになっただろうかと思います。自分が償うべき罪を、何の罪も犯してはいない先生が、自分の代わりに負ってくれた。代わりに罰を受けてくれた。とるに足らないこの自分のために…。しかしここに至って初めて、A君は自分がそれ程までに大切にされ、なお生きることが赦され、愛されていることを思い知ったのでした。その愛に打たれて、ようやく心の底から向き直ることができたのでした。

私たちも、神が造られたこの世界で、神に対して正しくあることができず、その結果、隣人に対して愛を欠く過ちを繰り返す愚かな存在です。隣人を悲しませ、神の名を汚す罪人です。正されるべき罪をなおも背負い続けています。しかし、まさにそこに神の正しさが貫かれるのです。自ら犯してもいない罪をすべて背負うために、それをご自身の重荷として引き受けるために、そしてそのことによって父なる神と私たちとの交わりが回復するために、神の独り子が、この地上に贈られたのです。

ここに神の正義と愛が集中して注がれます。それは決して、演技や余力によるものではありません。命懸けの覚悟によるものでした。だからこそ、十字架に至るこの命懸けの公生涯の始まりに、どうしても洗礼を受けなければならなかったのでした。私たち一人一人の洗礼の原点には、この主イエスの愛が刻まれています。神に正しく向き直り、愛の人として歩むための祝福が満ち溢れているのです。


<祈り>

天の父よ。私たちは、いつあなたに召される死を迎えるか分からない存在です。今日は喜んでも、明日、また失望を経験するかもしれません。そのように愚かにも一喜一憂しています。そしてあなたから離れ、背を向けながら、一人孤独に、また独りよがりに生きてしまう者です。しかしどうか、そこでも主が先立っていてくださる約束を確信することができますように。私たちと共にあり続けてくださる主イエス・キリストの愛を常に知り続け、このお方を愛することができますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。

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