2022年4月24日 主日礼拝説教(復活節第2主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 ホセア書11:8
新約聖書 ヨハネによる福音書11:17~37
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「どこに葬ったのか」(34節)。
主イエスの声が鳴り響きます。愛する兄弟ラザロを亡くし、深い悲しみに暮れている姉妹マルタとマリアに向かって放たれた言葉です。また、ラザロの死を悼んで弔問に来ていたユダヤ人たちに対しても、主がお訊ねになった言葉です。それも、激しい感情をこめて発せられた肉声です。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか』」。主イエスは今、死に目に間に合わなかったラザロの遺体が眠る墓場を探し求めて、そこに向かおうとされているのでした。
ラザロの死。しかしこの死は、もしかしたら救うことのできた命だったかもしれません。なぜなら、主イエスは実に、この兄弟姉妹たちを「愛しておられ」たからです。特にラザロは、主から「友」(11節)と親しく呼ばれ、その人格において対等な眼差しを注がれていました。ですから、主イエスが全能なる神の子として、もしもその力を余すところなく発揮していさえすれば、どうにか救えたかもしれなかったのです。しかし、そうはなさらなかった。いったい御心はどこにあったのでしょうか。
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本日与えられました聖書箇所は、ヨハネ福音書全体を一つの山に譬えるなら、そのちょうど真ん中にあたる第11章です。そしてこの1節から始まる、いわゆるラザロ物語の中間部分を読んでおります。少し状況の前後関係に触れたいと思います。
ラザロはある時から病にかかっていました。そこで彼の姉妹たちは、その家から徒歩で数日はかかる、ヨルダン川の向こう側に滞在されていた主イエスのもとに、人を遣わします。そしてラザロの危機迫った病状を伝えさせました。今日のように、電話やメールですぐに繋がる時代ではありませんから、危篤の知らせを主イエスの耳に入れるだけでも一苦労でした。そんな彼女たちが、主の癒しによって弟ラザロの回復を何としても切に願ったのは、当然のことでした。
ところがその知らせを聞いた主イエスは、4節でこう言われていました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。よく聴くと不思議な言葉です。それは今、遠く離れて病床に伏しているはずのラザロの危篤状態について、「この病気は」と、あたかも主の目の前で起きている現実として身近に引き寄せておられるからです。しかしまた、この病気は、「死で終わるものではない」とも仰います。少し楽観的というか、姉妹たちのような切迫感はあまり感じられません。むしろ、そうした死に終わることのない病は「神の栄光のため」に用いられ、またそれによって「神の子が栄光を受ける」ことになるのだと仰るのです。どういうことでしょうか。
にわかに捉え難い、こうした言葉のやり取りにみられますように、実はこのラザロ物語は、幾分「不可解」な印象を度々私たちに抱かせる、そんな主イエスの言動や対話場面を含みながら展開してゆきます。例えば、先程の会話の直後に続く6節で、主イエスは、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」とあります。なぜすぐに駆けつけなかったのでしょうか。あるいは、今度は弟子たちとの会話において、11節以降で、主イエスはようやく「眠っているラザロを起こしに行く」と決意されるわけですけれども、ただ今度は、この「ラザロが眠っている」という言葉の意味をめぐって、弟子たちとの間で認識のズレが生じます。弟子たちにとって、眠りとはただの眠り。しかし主イエスにおいては「死」を意味していました。ただしその死とは、命をのみこんで、私たちを最終的な絶望の淵に落とし入れる死ではなく、あくまでも眠りである。新たな命の目覚めに開かれてゆく眠りにすぎませんでした。こうして、主イエスの最も近くで過ごす弟子たちであっても、主の御心は彼らの手の内には収まりません。
いずれにしましても、結局、主イエスと弟子たちの一行がベタニアに到着した時、しかしラザロは、既に死んでいました。しかも墓に葬られて4日も経っていました。当時、死後3日間は、魂がまだ死体から抜けきらないとされていたようですから、4日という数字は、もはや十分な死を意味するものでした。
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「時、すでに遅し」。
あまりに遅い到着となった主イエスを二人の姉妹が出迎える時、彼女たちがどんな心持ちであったかは、容易に察することができるでしょう。マルタはイエスに対面するや、本日お読みしました21節で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と迫ります。続いて家の中にいた妹マリアも、お呼びがかかると「急に立ち上がって」主のもとに駆け寄り、その足元にひれ伏して、姉のマルタと全く同じ嘆きを発します。32節。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。
二人には共通点があります。それは、ここに描かれている深い嘆きや失望の姿が、決して主イエスへの信頼と切り離された形で差し出されている訳ではないということです。信頼があってこその悲嘆とでも言えましょう。しかし、問題はその信頼の中身です。彼女たちの主イエスに対する信仰とは、どのようなものだったのでしょうか。
場面が切り替わる28節は、「マルタは、こう言ってから」と、始まっていました。これは、その直前の「はい、主よ。あなたが世に来られるはずの神の子で、メシアであるとわたしは信じております」という、マルタの二度目の信仰告白を指しています。二度目と申したのは、実は既に一度目の告白が、ある決定的な修正を余儀なくされたからです。大変短い箇所なのですが、実はそのすぐ前で、マルタは復活信仰の最初の告白者として描かれています。24節で「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と告白するのです。
けれども、これはどこか距離を感じさせる言葉です。あるいは23節で「あなたの兄弟は復活する」と仰った主イエスの言葉を、ただオウム返しに繰り返すだけの、空しい知識にも聞こえます。ところが続く25節で、主イエスはご自身の存在を明らかにする宣言(εγω ειμιエゴー・エイミー)、すなわち、「わたしは復活であり、命である」との言葉によって、マルタになお迫ります。否、新しく出会われるのです。遠い未来に起こると信じられた復活を、今、目の前で確かに示す仕方で、ご自分の真の姿を現され、彼女を新たな交わりに招き入れたのでした。
では、マリアはどうだったでしょう。「主よ、もしここにいてくださいましたら」と嘆く彼女は、もう涙を流さずにはいられない姿でした。その涙は、彼女を慰めるべく後を追って来たユダヤ人たちの涙をも誘います。しかしさらに、この悲嘆の光景は、人の子主イエスの心の琴線に触れるように、主の激しい感情をも引き起こすことになります。主は泣き崩れる彼らの姿を見て、「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。」「どこに葬ったのか。」と問います。
そして、主は涙を流されました。主はこの事態をご自分の身に起きた事のように、深く悲しむ人々の心の襞(ひだ)に寄り添っているようです。ここには、これまで触れたような、噛み合わない対話の軋みや不協和音は聞こえてきません。
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しかし本当にそうでしょうか。主イエスが涙をもって寄り添ってくださった、その同情心や優しさこそが、愛する人を失った者が抱く悲しみへの、真の慰めとなるのでしょうか?確かにそうかもしれません。しかしそれでは、どうしても乗り越えられない死の壁を前にして、やはり主イエスといえども、彼らと同じように立ちすくんで、そこで互いに傷を慰め合っているだけにはならないでしょうか。
「どこに葬ったのか」――。
しばしの沈黙を破り、マリアに向かって最初に発した主のこの言葉は、はたして何を訊ね求める問いかけだったのでしょうか。墓に埋められてしまったラザロと対面するための、単なる場所を訊ねる質問だったのでしょうか。確かに原文をみますと、この言葉は「どこに彼を置いたのか」と記されていますので、墓穴の具体的なありかを尋ねていることになります。そして実際、人々が即座に、『主よ、来て、御覧ください』と言って、墓に案内しようとしたのは真っ当なことでした。
けれども、主がその直後に墓に向かわれたとは聖書に書かれていません。この問いかけの後、主イエスの姿として描かれるのは、「涙を流された」こと、そして続く38節の「再び心に憤りを覚え」られた姿です。実際、「墓に来られた」のはその後なのです。墓場にすぐさま足を運ぶことよりも、主イエスにとって何かとても耐え難い、この現実に対する激しい感情の方がここで強調されていることに、注目させられます。
主がラザロの眠る墓に向かうまでに二度、心に憤りを覚えられたこと。そしてその間に、涙を流されたことの意味は何でしょうか。激しい興奮と共にこぼれ落ちる涙は、もしあの最初の知らせを受けた時に急いで駆けつけていれば、救えたかもしれない、そんな「友」の死への嘆き、またご自身に対する後悔や無力感を示すのでしょうか。あるいは、嘆き悲しみに沈んでいる愛すべき姉妹たちへの、お悔やみなのでしょうか。一体、主はそこで何を見て、聴いて、憤慨して、あの言葉を発せられたのでしょうか。
ラザロに限らず、そもそも死者を葬るという営みは、古今東西、共通した弔いの慣習と言えるでしょう。しかしこの地上の命を一つ残らず覆い尽くす、死の圧倒的な力のただ中で主イエスが見ておられたのは、まさにそのように、愛する人々を、やがて死の支配に手渡し、墓穴という闇に葬り去らざるを得ない、このどうにもやるせない現実そのものではなかったでしょうか。事実36節でユダヤ人たちは、涙を流す主に対して、「どんなにラザロを愛しておられたことか」と、よく見るとその愛はもはや過去の形で語られています。そして続く37節で、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と皮肉を吐き捨てます。つまり、愛の交わりは死によって絶たれ、もはや過去のものになりさがっているのです。主イエスは人々のそんな、暗黙の内にはびこる絶望の声を聴きとっておられたのです。
しかし、それだけではありません。主はこの世の一切を虚無に陥れる死の現実のただ中で、実はもう一つの声をその腸(はらわた)に刻み込んでいました。それはまさに、死の恐怖と虚しさに対する、父なる神の断固たる「否(いな)!」の御声です。神ご自身が、死に対して正面対決を挑んだ決死の覚悟こそ、主イエスがそこで一貫して受け取っておられた神の御心だったのです。
33節の「心に憤りを覚え」という表現は、実は「霊において憤り」と訳す方が原文に即した形になります。つまりこの憤りは、単に人間の自然な感情表現に留まるのではなく、神の霊、神の御心が共に働いているという真実の現れです。過去の闇に封印されることなく、来たるべき死をものみこむ、永遠のいのちなる神の愛が、今ここに、御子イエスの「人の子」としての憤りという感情の内に、注ぎ込まれているのです。これは、本日併せてお読みしましたホセア書の次の言葉とも重なり合います。父なる神ご自身の言葉です。「わたしは激しく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」(11:8)。
主が涙と共に激しく憤られたのは、実に、死の象徴である墓の前でなす術をもたず、「復活であり命である」キリストをも素通りして、ただひたすら嘆き悲しんでいる人々の、言わば不信仰に対してでありました。いや、そのようにさせている、死の力に対してであったのです。
そうであってみるなら、主イエスは今や、死に対して無力であるはずがありません。人の命の最終目的地は、結局のところ墓場なのでしょうか。—―「どこに葬ったのか」。主がここで問い正したかったのは、墓穴のありかだけでなく、死に直面する私たちの信仰のありかのようにも聴こえ始めます。「愛する者を、神の御手に引き渡すことなく、いったいどこに葬ったのか」。「いや、あなた方は自らの魂を、そして私への信仰を、いったいどこに葬り去ってしまったのか」。「なぜ嘆き悲しんでばかりいるのか」…。「わたしは復活であり、命である。このことを信じるか」。
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このラザロ物語は、ヨハネによる福音書だけに記されるものですが、改めてこの場面の前後をよく見ますと、主イエスが厳しい迫害を受けながら、十字架に向かう歩みを始めておられたことが分かります。既に主は、救いの御子として、その苦難と死の道を覚悟して歩まれていたのであり、逆に言えば、そのことを正面に見据える中で、今日の、愛する友・ラザロの死の出来事にも直面していたのでした。
この主イエスの十字架を目指す確かな眼差しこそが、実は先ほどから「不可解」とか「不協和音」と表現していた、対話の不一致や、人々の期待に反して進展する状況のいびつさを引き起こしていました。そこで明らかにされていたことは何でしょうか。それは、たとえ私たちが主イエスというお方を知っていても、その愛の交わりから離れてしまうと、いつでも独りよがりの息苦しさに苦しみ、また独りぼっちに空しく、死にのみこまれてゆくという弱さです。そして、先ほどのラザロを取り囲む者たちに見られたような人間愛への執着、また命の自己保存欲求という、神の真の愛からかけ離れた人の罪の姿です。
しかしこの闇は、主イエスご自身の十字架の歩みによって突き破られてゆきました。死への恐れも、空しさも、また神の愛を知らない罪がもたらす命の苦しみも、すべて主イエスが十字架上で砕いてくださったのです。それは決して、神の王座にあぐらをかいて成し遂げた超能力による業ではありません。むしろその座から降りて、ご自身の尊い命をお献げくださる生身の姿によって、成し遂げられた奇跡です。
私たちは先週イースターをお祝いし、主の蘇りの命の中で今日も生かされています。「どこに葬ったのか」と、絶えず生きておられる主の御声に呼び覚まされて、新しく歩み始める者でありたいと願います。私たちの罪を滅ぼし、死さえものみ込んでくださった命の主と共に。
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