2023年4月9日 イースター礼拝説教(復活節第1主日・いっしょ礼拝)
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書25:6~10a
新約聖書 コリントの信徒への手紙一15:54~57
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今日は幾つもの嬉しさが重なる礼拝を、いっしょ礼拝として共に過ごしています(イースター・信仰告白式・洗礼式)。でもそれは、いったいどんな嬉しさなのでしょうか。私たちは今日、どんな喜びへと招かれているのでしょうか。
ところで、皆さんは今まで、棘が体のどこかに刺さって痛い思いをしたことのある人はいますか。経験のある人は、きっと自分の爪か、ピンセット等で抜き取ろうとしたはずです。刺さったままだと痛いからです。気になって、心も落ち着かなくなるからです。場合によっては、ずっとそのことが引っかかって、その一日が台無しにさえなってしまうかもしれません。
今日ご一緒にお読みした聖書の箇所にも、棘という言葉が出てきました。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリントの信徒への手紙一15:54~55)。でもこの棘は普通の棘ではなく、「死よ、お前のとげは~」と死に対して呼びかけながら使われていることから、ここでは「死の棘」、あるいは「死という棘」という意味のようです。だから次の56節で、「死のとげは~」と続きます。
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なぜここで、「死のとげ」と言われるのでしょうか。それは棘と同じように、刺さると痛いからです。死が私たちの人生にグサッと突き刺すように迫る時、私たちは死に対して恐れを抱き、嘆き悲しみ、苦しむからです。
今ここにいる全ての人は、自分の死をまだ誰も経験していません。けれども愛する家族の死や、近しい友人たちの死は幾つも経験してきたことでありましょう。昨年も、教会では3名の兄弟姉妹を天に送りました。どの死も、辛く悲しいものです。今まで顔を合わせてお話しできた人と、もう会えない。一人取り残されたような寂しさが込み上げてきます。死に直面することによって、心引き裂かれるような思いになる。それが死のもたらす現実です。まるで棘が刺さったように、私たちは痛みを経験する。そしてその痛みは決して、他の何をもってしても簡単に癒されるものではないはずです。
このような現実に対して、ある人は次のように言うかもしれません。何をメソメソしているんだ。人が死ぬのは当たり前ではないか。死は自然現象。季節に春夏秋冬があるように、動物や植物にも命の季節がある。人間も所詮は生き物。春の命の芽生えから人生を始め、夏の燃え盛るような時を経て、秋にはいよいよ円熟味を増したとしても、やがて人生の冬を迎える。つまり死んでしまう。でもそれは、どこまでも自然の摂理ではないか。だから、悲しんだり苦しんだりするのは愚かなこと。感情が揺さぶられることなく、プラスでもマイナスでもなく、淡々とこの事実を受け入れ、あるいは無関心を貫くことが、死に対する最も賢明な態度ではないか。
確かにこう考えることは、理性的であり、冷徹ですらあります。しかし私たちは、はたしてそんなに強くあることができるだろうか。
ある人はまた、こう考えるかもしれません。たとえ一人の命が死んでも、その命は、その人が属していた社会や組織といった、ある種の全体性の中で生き続ける、という風に考えることです。もう少し具体的に言えば、例えば人は、民族や国家の存続と繁栄のために生きている。一人一人はその全体に貢献するために生きている。だからそのために死んだなら、むしろ誇りを持って良い。素晴らしいことではないか。去る者も、遺された者も。
かつてこの日本でも、あの戦争の時代、お国のために命を捧げた人たちをそのように英雄視したことがあったことを、私たちは忘れることができません。けれども、はたして一人一人の命は、全体のための手段に過ぎないのだろうか。神様は、一人一人をかけがえのない命としてお造りになり、生かしてくださっていたのではないか。
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このように考えますと、やはり死というものは、私たちにとって平然とやり過ごせるものではないのではないでしょうか。死は痛い。辛い。恐い。どこまでも、死は棘であり続ける。もし私たちが、生きている間に、たとえほんの僅かな愛の欠片であっても、その愛を受けたり与えたりしながら歩むならば、その生きた交わりが死をもって断たれてしまう時、はたして呑気な心地でいられるだろうか。
突き詰めれば、愛という眼差しで私たちの命を見つめる時、自分が愛する人を先に亡くしてしまったら、その悲しみの大きさはいか程でしょうか。また、自分が測り知れない愛を受けてきたことを知る時、この自分を愛してくれた人を失う悲しみはもちろんのこと、自分がその人を遺して先に死んでしまう場合の無念さや恐れも、想像を絶するものでありましょう。
死はやはり、私たちにとっては恐ろしい棘であります。しかし、ここで一歩踏み込みたいのは、そもそもなぜ私たちにとって、死は棘のように痛く感じられるのでしょうか。単に私たちが弱い存在だからなのだろうか。
「死のとげは罪」(56節)。パウロははっきりこう言います。少し分かりにくいかもしれません。ここで死の問題が、罪の問題と結びついているからです。しかしパウロは、死と罪をコインの裏表の関係のように、明確に一つのこととして結び合わせるのです。つまり、私たちが死に対して恐ろしいとか、悲しい等と思うのは、私たちが罪を持っているからだと。それどころか、そもそも死そのものを、いくら遠ざけようとしても死と無縁に生きることなどできず、なお死の支配下に生きざるを得ないのは、実は私たち自身が罪人として生きてしまっているからに他ならないのだと。ここに、避け難くも、私たちの罪の問題がはっきり示されているのです。
今日私たちは、一人の信仰告白者と、一人の受洗者をお迎えしてこの礼拝を献げています。本当に喜ばしいことです。そして二人の姉妹とも、各々の式の中で誓約をしてくださいました。その中身は、使徒信条で告白されている内容を中心とするものです。したがって、今日この日を迎えるために数回持たれた準備会では、この使徒信条の大切さについて色々と学びました。
しかしこれと同じくらい、あるいはそれ以上に時間をかけて学びましたことは、まさに先ほどから問題となっている罪についてです。私たちがイエス・キリストを救い主と信じて告白する時、いったい私たちは、何から救われているのだろうか。そこが明確でないと、私たちは何を信じているのかが分からなくなってしまいます。それはまた主イエスを見失うことであり、主によって見出された自分の姿まで見失うことでもあるのです。
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では私たちは何から救われているのか。それは言うまでもなく、罪からの救いに他なりません。では罪とは何でしょうか?いったい自分はどんな悪いことをしたと言うのでしょうか。
しかし聖書が示す罪は、どこまでも、神との関係で露わになって来る私たちの姿のことを言います。私たちが自分自身を自己点検するようにぐるりと見回して、罪を犯したかどうか、という風に簡単に見出せるものではないのです。そうではなく、どこまでも神ご自身の眼差しの中で、あるいは神との関係で、私たちが的外れの所で孤立してしまっている時、まさにその姿を指して、聖書は罪と教えるのです。
それは、御心に背を向けながら遠く離れ、いつの間にか反れてしまっている私たちの姿です。故意でそうなることもあるでしょうが、知らず知らずの内にそうなってしまう私たちの弱き現実です。あるいは、罪という支配の手に捕えられ、神から引き離されてしまっている私たちの哀れな姿に他なりません。
この罪の虜となった私たちの行き着く先はどこでしょうか。神の御心、神の祝福、神の命から離れて自己路線を突っ走り、自分で自分を救うようにして幸せを掴もうとするその結末は、実は罪にさらなる罪を上塗りするようなものなのです。その果てに待っているのは、悲しいかな、自己の破滅です。つまり死でしかないのです。死が大きく口を開いて、罪に転げ落ちる私たちをのみ込もうと待っているのです。
この罪から、しかし私たちは救い出された。それが、復活の主、イエス・キリストが私たちにしてくださったことです。そして主が私たちをこの罪から導き出し、この罪を赦してくださったということは、とりもなおさず、再び私たちを、神の祝福と神の真の命、永遠の命の中に引き戻してくださったということに他ならないのです。
この罪から救い出されない限り、私たちは罪人として死を恐れ、永遠に死にのみ込まれる者でしかない。ではこの罪の力は、どこで頭をもたげてくるのだろうか。どのようにして罪が力あるものとして私たちを支配するのだろうか。そのことをパウロは、「律法」との関連で述べるのです。「罪の力は律法です」(56節)。
これもまた不思議な言葉です。どうして罪の力が発揮される出所に、律法が据えられているのでしょうか。むしろ律法は良いものではないでしょうか。神の教えそのものだと言っても良い。その律法が、しかしここでは罪の力と結びついている。逆に言えば、私たちを罪と死の奈落の底に陥れ、苦しめる力はどこにあるのか。それは律法だと言うのです。
実はこの律法についても、先の準備会では比較的重きを置いて学びました。律法とは何だろうか。それは神の教え、まさに神の御心を示す教えのことです。ですから、ここに定められた教えの一つ一つを忠実に守れば、神の御心から反れることはない。つまり罪を犯すことはない。よって、死を恐れることも、死にのみ込まれることもないのです。
ところが、どうでしょうか。例えば律法の中で代表的なものに、十戒の教えがあります。このどれか一つの戒めを選んで、私たちがそれを忠実に守ろうとした時、たった一つでも、生涯を通して全うできる人がいるでしょうか。むしろ、律法を前にした時に明らかにされるのは、私たちがその中のたった一つさえ守ることのできない、罪にまみれた姿でしかないのではないでしょうか。
その意味で、律法はまるで鏡のようです。私たちの罪人としての姿を、もはや言い逃れできない程に暴き出す鏡。もちろん律法は、私たちを神の御心へと導こうとするものではあるけれど、鏡以上にはなってくれないのです。救いそのものではない。言い換えれば、階段には決してなり得ない。私たちを罪から救い出し、天の父なる神の限りない祝福へと導き上げる階段にはなってくれないのです。
では、何が本当の階段となってくれるのか。それこそが、まさに主イエス・キリストに他なりません。このお方が、私たちを真実に天に導く道となり、階段となってくださった。救いそのものとなってくださった。しかしさらに大切なことは、この救いの階段が、実に私たちの人生のどん底で架けられるものだということです。私たちが罪の重さで転げ落ちてしまうまさにどん底で、キリストが受けとめてくださるのです。待っていてくださるのです。そして、そのどん底にこそ、あの十字架が立つのです。
この十字架上で、キリストは自らの命を全て献げ尽くしてくださいました。私たちのためです。この尊い犠牲の死をもって、私たちを苦しめて止まない罪と死と闘ってくださいました。そして、この死から甦らされた復活の光の中で、あらゆる闇は滅ぼされ、のみ込まれるものとなったのです。死はもはや、敗北者となった。
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「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。
死は実にしばしば、たとえ信仰を既に与えられた者に対しても、勝ち誇っているように思われます。私たちは自分の愛する者が死ぬと、敗北感や喪失感を覚える。死に負けたと思ってしまうのです。また、自らの死に対しても恐れを抱いてしまいます。徹底的に打ち負かされたような屈辱や無力を覚えます。とうとう死は勝ったか。
けれども、そのような思いを跳ね返すようにして、使徒パウロは、復活のキリストが共におられる揺るぎない確信に立って、「否、そうではない。死よ、お前は勝ってなどいない。死よ、お前のとげも、もはやどこにもない」と言って、勝利の歓喜を響かせるのです。
そして最後にこう結びます。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(57節)。
この勝利は、決して私たちが掴み取った勝利ではあり得ません。神が、キリストを死人の中から甦らせることによって私たちに与えてくださった勝利に他ならない。しかしだからこそ、私たちはそれをただ受け取ればよい。勝たせて頂ける喜びに浸ればよい。なぜなら神は、私たちをひたすら愛し、罪と死の淵から「生きよ!」と、はっきり呼び覚ませてくださるお方だからです。
イースターは、まさにこの神に対してありがとうと心から感謝し、この神の勝利を祝い、また同時に、私たち自身に約束された新しい命を喜び続ける日でもあるのです。
イースター、おめでとうございます。そしてみんな、おめでとう。
<祈り>
天の父よ。死の棘に苦しみ続け、罪の虜から解き放たれることのない絶望から私たちを救い出してくださり、心から感謝いたします。その決定的な命の出来事を、あなたは御子イエス・キリストを通してこの歴史にたった一度起こされ、それ故、今なお私たちの人生のただ中にも起こし続けてくださいます。どうか、罪と死の棘に刺し殺されることのない、甦りの祝福に生かし続けてくださいますように。毎年巡ってくるこのイースターの喜びを、いつでも新しく祝い、共に私たちの望みとすることができますように。私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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