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「永遠の光に照らされて」

2023年8月20日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第13主日)      
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書22:12~14
新約聖書 コリントの信徒への手紙一15:29~34   

          

私たちの教会では、毎月第一主日の礼拝で聖餐式を執り行います。またこれ以外に、クリスマスやイースター等のお祝いの時にも聖餐の恵みにあずかります。そのように私たちは、折ある毎に、何度も聖餐の食卓に着きます。これに対して、洗礼式はどうでしょうか。申すまでもなく、洗礼は人生でただ一度限りのものです。なぜでしょうか。

洗礼式において欠かすことができないのは、信仰告白です。長老会の試問会で洗礼志願者に対して最も大切にしていることも、この信仰告白です。その要になるのは、今日もご一緒に唱えました使徒信条です。代々の教会が共に告白し、受け継いできたこの使徒信条に謳われている信仰を、自らの信仰として受け入れて、告白する。これがキリスト者としての信仰告白であり、洗礼式ではまさにこのことを要として志願者に問い、誓って頂くのです。

けれども、どうでしょうか。もしも洗礼式の要が、私たちの信仰告白、言い換えれば、私たちの信仰の決意表明だけにかかっているとすれば、きっと私たちは、何度もやり直しをしなければならないでしょう。一度告白したらそれで終わり、という訳にはいかないに違いありません。なぜなら、時に信仰が揺らぐことがあるからです。いかなる時も神を真の神として、キリストを私たちの救い主として仰ぎ続けるということの困難を、私たちは往々にして経験するからです。

しかしそれでも洗礼は、人生でたった一度限りなのです。何度もやり直す必要はありません。また逆に、取り消すこともできません。なぜなら、洗礼の恵みの根拠は、私たちの側にないからです。もし私たちの側にあるならば、なんと頼りないことでしょうか。しかし洗礼が恵みであり続けることの決定的な根拠は、どこまでも神の側にあります。神の選びの中にあります。神が私たちを選び取られ、永遠の約束を私たち命の源に刻んでくださった。この、一度にして永遠なる神の選びの真実に、洗礼の恵みは支えられています。

したがって、私たちはこの神こそを、知らなければなりません。決して侮ってはなりません。だから生涯この神を我が神として信じ抜く者でありたいと願うのです。洗礼を受けるとは、私たちの信仰告白に先立つ、神の完全なる選びと祝福に対する、感謝の応答です。そして神の祝福は、他でもない主イエス・キリストを通して与えられます。キリストの十字架の死によって、私たちは古い自分に死に、しかしまたこのお方のお甦りによって、私たちもこの真の初穂に連なる実りを与えられて、新しい復活の命を得させていただくのです。


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本日与えられましたパウロの手紙の言葉。私はここに、私たちが真の畏れをもって知るべき神の姿が示されているように思えてなりません。今日は、コリントの信徒への手紙一第15章の29節以下をお読みしましたが、その最後は次のように結ばれます。「わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです」(34節)。

なんと大胆な言葉でしょうか。パウロは、自分がここまでに書き記してきたことは、実に、「あなたがたを恥じ入らせるため」だったとはっきり述べるのです。しかしここに込められたパウロの思いは、単なる冷徹さだけだったでしょうか。コリントの教会の人たちよ、私にここまで言われて恥ずかしくないのか。否、むしろちゃんと、恥ずかしいと思ってほしい。そして、その恥から抜け出してほしい。そんな畳みかける思いが伝わってきます。

しかしさらに踏み込むなら、むしろパウロの本音にあったのは、「恥を知れ」というよりも、「罪を知れ」という思いではなかったでしょうか。事実、パウロは言うのです。「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない」(34節)。恥が、世間や人の目に対する恥であるなら、罪は、他ならぬ神に対する罪です。その罪を犯してはならない。「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば」(31節)、今、あなたたちが神の御前でどんな罪を犯しているか、知っているだろうか。ぜひともよく知って、悔い改めてほしい。

では、パウロの目が捕える彼らの罪とは、いったい何でしょうか。それは実にシンプルです。34節の最後にこう続きます。「神について何も知らない人がいる」。なるほど罪とは、まさに神の御前で、真の神を本当には知り得ていない姿のことを指すということです。神がどんなお方であり、どんなご計画をお持ちであり、そのためにどんな思いをもって私たちに臨んでくださるお方であるかを、私たちは何と愚かにも見失っていることでしょうか。神を信じながら、神の御心に留まることができずに離れてしまう。的外れに生きてしまう。


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今日の手紙は、後から少しずつ遡るように見ていますけれども、32節に一つの引用句がありました。「食べたり飲んだりしようではないか。/どうせ明日は死ぬ身ではないか」。

これは、本日併せてお読みしたイザヤ書第22章からの引用です。「その日には、万軍の主なる神が布告された。/嘆くこと、泣くこと/髪をそり、粗布をまとうことを。しかし、見よ、彼らは喜び祝い/牛を殺し、羊を屠り/肉を食らい、酒を飲んで言った。『食らえ、飲め、明日は死ぬのだから』と」(12~13節)。

「明日は死ぬのだから」というのは、「万軍の主なる神」による裁きがいよいよ迫っていることを意味します。神に滅ぼされて死ぬのです。そうした絶望を前にして、しかし神がそこで本当に求めておられるのは、イスラエルの民たちが真剣になって「嘆くこと」ではないか。「泣くこと」ではないか、というのです。「髭をそり、粗布をまとう」というのも、自らの罪を悔い改めるということ。そのようにして、必死に神の御前で自分の罪を認め、ひたすら神を叫び求めることこそ神が望んでおられる姿である。その意味では、神はご自分の民が再び御許に立ち返る機会を与えて待っておられる、と受けとめることができるのです。

ところが、それにもかかわらず民たちは、「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と、したい放題している。「明日はどうせ死ぬのだから、それなら今やりたいことをやろう。食べたい物を食べ、飲みたい物を飲みながら、好き放題楽しみ、踊り狂おうではないか」と言わんばかりに、一種の開き直りに走るのです。諦めややけっぱちにも似た気分でありましょう。

ここで明らかにされていることは、神の裁きの言葉を聞きながら、その言葉に真剣に向き合うことなく軽んじてしまう民たちの姿です。神がその裁きを通して何をお示しになろうとされているのか、その御心を知ろうとしない不信仰の罪です。ならば明日裁きを受けて死ぬという、あなたが見ているその滅びがどんなに恐ろしいものか、本当に知っているだろうか。しかしそれ以上に、その滅びを突き抜けて、どんなに祝福された甦りの道を神が拓いてくださっているか、ぜひ知ってほしい。神を知らぬ罪からどうか抜け出してほしい。


パウロのこうした真剣さがさらによく伝わって来るのが、30節以下の言葉ではないでしょうか。「また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう」(30~32節)。

ここにエフェソという地名が出てきます。今の小アジア(トルコ)に位置する町で、パウロはかつてこの地で、異邦人伝道をしました。その時に経験した困難な働きを、彼は「野獣と闘う」と表現します。これはもちろん比喩ですが、厳しい闘いだったことが分かります。相手は野獣のようだったというのですから、獣に食われてしまうような身の危険、あるいはそこで自分の無力さを突き付けられるような挫折を経験した、ということなのでしょう。それは例えば、異邦の地でのパウロの宣教活動に対する迫害であったり、その迫害故に、この世に屈して妥協したりするといった状況が考えられます。

まさに「いつも危険を冒し」(30節)、命の危険に晒される。文字通り命懸けの日々でありました。「単に人間的な動機から」(32節)闘ったのでは、到底勝つこともできなかったし、何の得にもならなかったのです。しかしそれでも、勝利に向かってパウロを突き動かす力が働きました。命懸けでありながら、死なずに済んだのです。否、むしろ事は真に逆説的で、「日々死んで」(31節)いたからこそ、パウロは諦めずに済んだのです。死なずに済んだのです。


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「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます」(31節)。

「わたしは日々死んでい」る。不思議な言葉です。しかしこの言葉が訴えかける真実は何でしょうか。考えてみれば、私たち人間はこの世に生を授かった瞬間から、死に向かって日々歩んでいる存在です。出会いがあれば別れがあるように、命ある処には、必ず死もある。私たちは皆、日々老い、時に病を得ながらやがて衰えつつ、いつかは死んでいく者です。

ですからそのような自然的な意味で、私たちは「日々死んでいる」ということは言えそうです。極端に言ってしまえば、死が執行されるまでの猶予期間を生きているとさえ言える。しかしここでパウロが言おうとしていることは、はたしてそういう意味なのでしょうか。そうであれば、それは真に希望のない道ではないでしょうか。生のただ中で、死を見つめることしかできない絶望の道だからです。

けれどもパウロが見つめていたものは、それと真逆ではなかったでしょうか。生のただ中で、ただ恐れや虚しさに支配されて死を見つめるのではなく、死にゆく絶望の闇の真っただ中で、永遠の命を見つめていたのです。否、むしろ永遠の命の希望の方からパウロを捕らえて離さない真実の中を生きていた。甦りのキリストの命に連なる新しい我が命を、望みをもって生き始めていたのです。

それは、罪によってただ滅び死んでしまう古き自分に徹底的に死にながら、しかしなお、そこでキリストによって新しく生かされる命に他なりません。私たちは、日々神の御前で死ぬことなしには、本当の命には生きられないのです。キリストのものとされてこそ、そこに見出された新しい自分の命を生きることができるのです。


しかし問題は、パウロがここまで徹底して日々死につつ、今コリントの人々に訴えかけ、この教会を建て上げることに命を懸けていたのは、はたして何のためだったのかということです。パウロは、決して福音に関する持論を徒に展開しようとしていたのではなかったはずです。ある極めて具体的な問題状況の中で、ここまでのことを言わずにはおられなかったのです。

そこでようやく、本日の冒頭の言葉に目を留めます。「そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」(29節)。

「死者のために洗礼を受ける」という表現が繰り返し出てきます。これがいったい何を意味するのか。ある人によれば、この解釈を巡っては二百通りにも分かれると言われます。死者とは、明らかに既に死んだ人たちのことです。今は亡きその死者たちのために、地上に遺された者が洗礼を受ける。これはつまり、本人が洗礼を受けずして死んだ場合に、故人を慕う家族や友人が本人のため、あるいは本人に代わって洗礼を受けるということです。

死後の救いを求め、切なる思いをもって身代わりの洗礼を受ける。これは私たちの人情に照らせば、よく分かることです。自分は洗礼を受けて、キリストの復活の恵みにあずかることができるけれども、愛する親や友たちは信仰を持つことなく死んでしまった。いったいその救いはどうなるのか。そうした今の私たちにも通ずる切実な悩みを持つ人々が、当時のコリントの教会の人々の中にもあったようなのです。

けれども、このような死者のための洗礼というのは、その後の教会の歴史の中ではやがて途絶えることになりました。なぜでしょうか。誤解を恐れずに申せば、ここに真実はないと教会自身が悟ったからです。しかしこのことは、決して死者たちの救いがどうなってもよいということを意味するものではありません。パウロもここで、死者のための洗礼を頭ごなしには否定していないのです。けれども、積極的に容認して勧めているわけでもない。

むしろパウロは、コリントの教会の人々が既に死者のための洗礼を受けていたその事実を手掛かりとしながら、あえて挑戦的に彼らに問うのです。あなたたちはなぜ、そのようなことをしているのか。愛する死者たちの救いのためであるに違いない。しかし死者たちの救いとは何だろうか。それは死んだ者も甦るということではないか。あなたたちが考える以上に、単に、人は死んでも霊魂だけは不滅だというような、精神世界の中だけで永らえる永遠の命よりもはるかに確かな甦り。肉も魂も、終わりの日に死の闇から甦らされるという神の約束こそ、真実なる希望であり、救いであるはずではないか。それにもかかわらず、あなたたちはそのような死者の甦りを否定する。否定しておきながら、死者の救いは望む。「死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」(29節)。


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私たちは生涯でただ一度限りの洗礼において、どんな約束の恵みを頂いているでしょうか。人生の歩みの中で負うことになった様々な悲しみや不安、虚しさ。悔やんでも悔やみきれない自責の念…。そこで、まさにすがるような思いで祈りを募らせ、神の御前で誓いを立てることがあるでしょう。しかしそうした私たちの必死の思いや行為が、自分の救いや他者の救いを決定づけるのではありません。どこまでも、それに先立つ神の選びと、私たちの思いをはるかに超える神の祝福と御業こそが貫かれ、私たちを救いに導くのです。

だからこそ、私たちは神の御前で、神を真実に知る者としての歩みを誠実に積み重ねたいと願います。時に厳しい試練や裁きをもってでも私たちをご自身の御許に立ち返らせ、平安なる祝福の道を歩ませたいと願っておられる御心を、軽んじることがないようにしたいのです。そのために、生ける御子イエス・キリストが、私たちのために、そして死者たちの復活のために、死に対する勝利の戦いを終わりの日まで全うしてくださる恵みを、私たちの希望の灯として歩んでまいりましょう。

目を覚まし、「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない」。


<祈り>

天の父よ。どんな時もあなたをこそ畏れ、あなたの深い御心を知る者として歩ませてください。すぐに戸惑い、的外れに生きてしまう私たちの罪深さを知っていてくださるあなたの憐れみの中を、どうか生きる者とならしめてください。そのために、御子の甦りが、どんなに激しい闘いを貫いてのものだったか、そして今なお、終わりの日まで、その勝利の戦いに連なって私たちが生かされ続けているということを、分からせてください。一度限りの洗礼に湛えられたあなたの永遠の恵みを、心から感謝します。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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