2022年11月6日 主日礼拝説教(降誕前第7主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 出エジプト記20:4~6
新約聖書 使徒言行録17:22~29
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「月に行くのと、アメリカに行くのと、どちらが近いと思う?」。こんな質問に対して、ある幼い子がこう答えました。「もちろん月に決まってるさ!」。「どうしてそう思うの?」。「だって、月は見えるから」。
なるほどと思います。確かに夜になれば月は見える。見えるから近くにあると思う。でもアメリカは見えない。だから遠くに感じる。実に素朴な感覚です。これを答えた子どもに、「実はね、地球から月までの距離は38万キロもあって、本当はアメリカの方がずっと近いんだよ」等と科学的に正しく教えることが、本当にいつも正しいかどうかは、躊躇いさえ覚えます。
私たちが信じる神様も、目には見えません。誰も自分の目で神様を確かめた人はいません。だから遠くに感じる。本当にいるのかどうか疑わしくなる時がある。見えないアメリカの方が本当は月より近いのと同じように、実は神様も私たちが思っている以上に近いんだよと言われても、すぐには信じられないことがあります。
かつてある神学者がこう言いました。「神が目に見えさえすれば、伝道者はこんなに苦労しないで済むのに」。私も心からそう思います。百聞は一見に如かず。目に見える神様がここにいらっしゃるならば、どんなに楽か。ほら、ここに神様がいらっしゃるでしょう、と指さしできるお姿を誰もが目にすることができたら、どんなに私たちの確信も強められることでしょうか。
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しかし神様は、ご自身の姿を見える形ではお示しになりません。そして私たちに、いくら神の姿が見えないからと言って、見える形の像を造ってはならないと強く戒められます。立派な偶像を造って、それを拝んだり祀り上げたりしてしまうことがあってはならない、と禁じられるのです。それが、本日共に学びます十戒の第二の戒めです。
「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト記20:4~5)。
「いかなる像も造ってはならない」。これは、例えば子どもが、粘土やブロックで何かを造っている場面で、「そんなもの造ってはだめだ」と𠮟りつけるような言葉でしょうか。あるいはまた、「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と言われて、「地の下の水の中にあるもの」ということで、例えば魚の絵を画用紙に描いた人は、その「罪を子孫に三代、四代まで」(5節)問われるくらい、神の怒りを買うことになるのでしょうか。もちろん、そういうことでもありません。
「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(5節)と戒められているように、あくまで今ここで問題とされている「像」とは、拝む対象となるような像のことです。そうすると今度は、お寺の仏像や神社に祀られたご神体などを想像するかもしれません。私たちの教会から歩いてすぐ近くにも、お寺や神社があります。ですから、要するにこの第二戒で言われていることは、今日のこの礼拝が終った後、そのような所にお参りしてはいけない、他の宗教の神様を拝んではいけないというような意味に理解できます。
けれども、わざわざそんなこと言われなくても、私たちには良く分かっていると思います。偶像崇拝がいけないことくらい、とっくに知っている。だからこそまた、例えば十字架のネックレスを身に付けたり、所謂「御守り」となるような品を持ち歩くようなことがあっても、そこには一つの線がちゃんと引かれています。信仰とは別物という自覚がある。それを本当の神様と信じているわけではない。そしてクリスチャンであっても、場合によっては仏壇や神棚がお家に置かれている方もいらっしゃることでしょう。その場合も、それを心から崇拝の対象としている訳ではないとうことを、弁えておられるに違いありません。
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ではいったい、この第二の戒めは、私たちの生活や実際の生き方とどう結びついて、なお語りかけてくるのでしょうか。そこで今回も、私たちの教会で親しく学んできておりますハイデルベルク信仰問答から、その糸口を掴んでみたいと思います。その問96でこう問いかけます。
問 第二戒において、神は、何を望んでおられるでしょうか。
答 第二戒において、神が望んでおられることは、わたしたちが、いかなる仕方にせよ、決して、神の像を造ってはならないこと、
わたしたちが、神が御言葉において、お命じになられた以外の仕方で、神を礼拝してはならないこと、であります。
耳でお聞きになっただけで、すぐお分かりになったでしょうか。つまりここでは、仏壇や神棚のような類は出て来ません。否、実は最初から問題にすらされていないのです。つまり、私たちが他の神を拝んだり、他の何かで神の像を造ったりすることが、ここで戒められているわけではない。そうではなく、むしろ私たちが特にこの礼拝において、神を真の神として讃えて拝もうとする、まさにその所で、反れてしまう。的外れになってしまう。「神が御言葉において、お命じになられた以外の仕方で、神を礼拝して」しまう姿について、鋭い光を当てているのです。
では、「神が御言葉においてお命じになられた」通りの礼拝とは、どのような礼拝でしょうか。
本日お配りした週報の<お知らせ>欄を礼拝前にご覧になった方は、少し気になっておられるかもしれません。その最初の項目にこう記されています。「本日の礼拝後、I.K姉を覚えての讃美動画収録(273B、405)にご協力頂ける方は、礼拝堂にお残りください」。
やや唐突で、どういう事だろうかと思われる方も多いでしょう。ご高齢故に、もう何年も前から教会に足を運ぶことが難しくなっておられるIさん。しかしそれでも、昨年のクリスマス礼拝には久々にいらっしゃいました。そして礼拝後の祝会では、あの力強いI節を遺憾なく発揮してくださり、一同とても励まされたことは記憶に新しいことと思います。
そのIさんが、最近入院されました。そこにコロナ禍の不幸が重なります。私はおろか、ご家族さえもご本人に会えない状況です。ならば電話はどうか。しかし耳が遠くなられてそれも期待できない。手紙も、目や手が不自由で難しい。つまりどうにもやり取りができないのです。そして今、病院では最善の処置を受けておられますが、実はあまり明るい期待は持てないことも分かっています。少なくとも、お家にはもう戻れないと言われているようです。
今、病院のベッドの上でどんな思いでいらっしゃることだろうか。一人取り残されたような孤独感。このまま最後の日を迎えるのではないかという恐れや空しさ。様々なことを思い巡らせます。もちろん、神様がその姿を見放されるわけはありません。生きる時も死ぬ時も、私たちは神の命のご支配の中にある。けれども、その確証は、見える形では示されないのです。
いったい、どうしたらその確証を掴むことができるでしょうか。もちろん、そのような確かな信仰によって、Iさんが今この時も生きていらっしゃることを願うばかりです。けれども、もしかしたら今、お一人でその信仰を貫く力は十分ないかもしれない。神を讃美し、神の御言葉を聴く気力さえも、衰えつつあるかもしれない。心の中で叫びながら助けを必要としているかもしれない。
ではその時、何が助けとなるでしょうか。見えない神を、見える形にしようと、偶像を造ることでしょうか。あるいは御守りを枕元に置くことでしょうか。しかし私はこう信じるのです。どこまでも、見えない神こそを真の神として礼拝すること。そのために、私たちが今、Iさんのこともご一緒に覚えて心を込めて礼拝すること。そしてその礼拝する姿をどうにかしてお伝えしながら、Iさんをこの交わりの中に招き、共にただお一人の真の神に結ばれ、この神の力によって生かされていることを確信させて頂くこと。ここに、真実なる助けがあると信じるのです。
あまり先延ばしできない事情もあり、大袈裟なことはできません。否、大袈裟にする必要もないのです。どんなに小さくても、私たちは今、あらためて真心を込めて神の御前に姿勢を正し、助けを求め、そしてIさんのこともこの礼拝の仲間の一人に覚えながら、礼拝するのです。
そのような思いを持ち続けながら、この礼拝が終った後、残れる皆さんと一緒にIさんの愛唱讃美歌を二曲歌いたいと思います。そしてそこに、次の御言葉を添えたいと思っています。これも、ご本人の愛唱聖句です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマの信徒への手紙12:1)。
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私はハッとしました。思いがけずこの御言葉が、今日の十戒の第二の戒めの学びに与えられたからです。いったい、「神が御言葉において、お命じになられた」通りに私たちが礼拝するとは、どういうことだったのか。それがここで、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と教えられるのです。
自分の体をいけにえとして献げる。しかも「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」であります。もうこれ以上ないくらい、自分の全てを神様にお献げする。しかし私たちは、実はこのことが良く分かっていないまま、何となく礼拝しているところがあるかもしれません。自分のこの体、その全身全霊を注ぎ込んででも拝むべき神が、今ここにおられる。自分自身を聖なるいけにえとしてお献げするに値する、否、お献げせずにはおられない程のお方が、今ここに、私たちを礼拝する者として立たせておられる。いったいそれはどんな神なのか?
私たちが礼拝する神は、絵に描いたり彫刻にしてみたりすることで露わになる神ではありません。むしろ今日の第二の戒めは、そうしてはならないと教えるのです。またハイデルベルク信仰問答97も、神の像を造ることは最初から不可能だと言います。そもそも模写などできない神を自分の思うがままに模写するところには、真の神は見出せないのです。
ところが、続く問98で、次のような興味深い問答が記されます。
問 しかし、画像は、教会において、いわゆる「信徒のための書物」として、許容されてもよいでしょうか。
偶像ならぬ画像。これは、このハイデルベルク信仰問答が書かれたドイツで、かつて1500年代に宗教改革が起こされなければならなかったカトリック教会の事情が背景にあります。当時の教会には、画像、すなわち、イエス様をはじめとする聖書の様々な登場人物の絵が礼拝堂に飾られていました。識字率が今ほど高くなかった時代、教会の中には、聖書の文字が読めない人々が多くいた事情とも関係します。字が読めないなら、絵で聖書の内容を伝えることができる。そういう理屈でカトリック教会が自己弁明的に用いた言葉が「信徒のための書物(聖書)」です。画像とはこのことを指します。そしてこれなら、偶像とは区別されるものとして許されるのではないか。これが問いの主旨です。しかし、その答えは明確です。
答 いいえ、いけません。
わたしたちは、神より賢いと思ってはなりません。
神は、神御自身の民、キリスト教会を、愚かな偶像によってではなく、活ける御言葉の説教によって、教えようと望んでおられるからです。
ここで注目したいのは、「愚かな偶像」という言葉です。ここは元のドイツ語では、「物言わぬ偶像」という意味の言葉が当てられているからです。つまり、喋らない偶像ということです。画像はやはりよろしくない。なぜならそれ自身、言葉を発することができず、依然として愚かな偶像だからだ。ここでの答えは、そのように理解するのです。
しかし神は、そのような「愚かな偶像」ではなく、「活ける御言葉の説教」によって、ご自分の民たちに教えようと望んでおられる。そう教えられます。つまり神は、教会で語られる説教の言葉の中にこそ働いて、それをご自身の言葉として語られる。そのようにして、神はご自身の姿を活き活きと私たちに現わされる。だから私たちも、偶像ではなく、神の御言葉を通して御声を聴き、そして神の姿をもそこで見るのです。
こうして、私たちが知る神は、物言わぬ神ではなく、語る神です。この違いは何でしょうか。偶像は確かに何も語りません。黙ります。仏像が突然口を開くはずがありません。否、たとえイエス様の像をいくら親しみを込めて造っても、それ自体が私たちに語りかけてくることはあり得ません。偶像は物が言えないのです。どんな時も、黙る。否、黙り続けてくれるのです。
実は、もしも偶像というものがありがたく感じられるとしたら、それはまさに、偶像は、物を言わずにいてくれる代物だからなのかもしれません。あれをしなさい、これをしてはいけない、などと言ってくることはありません。私たちに、罪の悔い改めを迫って来ることもありません。
受験の神様、家内安全の神様、健康の神様など、この日本には八百万の神と呼ばれる神々がいます。まさに人が求める利益の数だけ神様が造られ、拝まれる時、しかしその神々が突然喋り出したらどうでしょう。お前のその願いは間違っているなどと言って来たら、私たちはたちまち引いて、二度とその神を拝むことはないでしょう。黙って自分の願いを聞き入れてくれる方が、実はありがたいのです。
しかしその時、自分とその神との関係はどんな結びつきでしょう。その神は、自分にとって都合の良い神でいてくれる限りにおいて、信じられる神となる。そのようにして、自分の物差しで神を測り、結果として私たちに仕えさせているのではないでしょうか。神を立派に拝んでいるようで、しかし実はその神を自分の奴隷としている。召使としている。自分が神に仕えるよりも、神が自分に仕えてくれることの方が大切になっている。そう言えないでしょうか。
けれども、私たちが知らされている真の神は、人の願いや都合に合わせてくれる召使いではありません。物言わぬ神ではなく、真実の言葉によって自らを現わされる神です。決して私たちの言いなりにはならない自由なお方。その自由故に、時に私たちにとって耳の痛い言葉も放って来られる。
しかし、そこで私たちがなお知るべきことがあります。その神が、まさにご自身の自由において、私たちに仕えてくださったのです。私たちが全く予想もできなければ、望むこともできなかった仕方で、最も善いものを与えることによって、私たちを真に生かしてくださいました。その贈り物こそ、御子イエス・キリストに他なりません。この愛する独り子イエスを、十字架につけられたのです。どこまでも私たちを愛するために。そしてどこまでも、私たちを神ご自身の愛の内に生かすためです。
そのために、神は天高くに留まることなく、人となって低い地に降りて来られました。私たちを探しにやって来られたのです。他の神々や、神ならぬ神に心奪われている私たちに「妬み」を抱かれるほど、私たちを求めて出会ってくださった。この神こそ「熱情の神」です。「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出エジプト記20:5)。
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私たちが全身全霊で、自らの体をいけにえとしてお献げすべきお方とは、まさに私たちに先立って、御自身を私たちにためにお献げくださったお方に他なりません。今、この礼拝堂にいる者たちにも、また礼拝堂の外で様々に思い悩み、痛み苦しんでいる者たちにも、決して一人にはさせない神のご意志が貫かれて、その溢れる愛が及んでいるのです。
かつてアレオパゴスの地で、パウロが「知られざる神」(使徒言行録17:23)について説き明かしをしました。私たちの認識を超え、私たちの理解を超える神が、しかしいったいどんな神なのか。その福音の言葉を最後に聴き取りたいと思います。
「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」(27~29節)。
(祈り)
天の父よ。いかなる像も造ってはならない、と戒められたあなたの御言葉を感謝します。あなたを真の神として拝むことができる所に、私たちの真の喜びがあることをあなたはご存知であります。それ故、あなたは熱情の神として、私たちにキリストを与えてくださいました。そのようにして私たちにご自身を献げてくださいました。どうか、物言わぬ偶像に頼らずに済む自由に、ますます私たちを生かし続けてください。そして真のあなたに結ばれて生きる代え難き恵みの中に、誰一人欠けることなく招き続けてくださいますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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