2023年1月8日 主日礼拝説教(降誕節第3主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 出エジプト記20:8~11
新約聖書 ルカによる福音書13:10~17
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以前にこんな話を聞いたことがあります。ある有名企業で働く、クリスチャン男性のお話です。ある日、自分の子どもの描いた絵が、布団にくるまって寝ているお父さんの姿であったことに愕然としてしまった。それは否定しようもない事実であった。そこでこの父親は一大決心し、たとえ給料が下がっても転職することを選び、家族と過ごす時間や教会生活を大切にした、という話です。極端な話に聞こえるかもしれません。しかし少なからず、ここから教えられることもあると思います。私たちはどうして、こうも働き過ぎるのか。もしかしたら、休むことがあまり上手ではないのかもしれません。
そもそもこの日本には、特に江戸時代以前は、「休日」という概念自体が存在しなかったと言われます。休みと言えば盆や正月、あるいは祝祭といった、特別の日だけしかなかった。そういう意味では、日本はまだまだ休みを日常的に取るという文化や歴史が比較的浅いと言えます。事実、日本人の働き世代の有給休暇の取得率は、ある統計によれば50%を切っていると言います。つまり、今なお半数以上の人が休む権利を行使できずにいる、あるいは放棄してしまっている現実があります。ちなみに、有給休暇の平均取得日数が一位と言われるフランスでは、年間の有給取得が30日を優に超えるそうです。これに対して、日本は10日にも満たない。
なぜこんなにも休めないのか。あるいは働き続けるのか。これもある意識調査によれば、次のような理由が挙がっています。「有給を取ると周りに迷惑がかかるので休めない」「有給を100%消化していると昇給や昇進に響きそうなので休めない」「仕事の成果が上がっていないので有休を取りにくい」「自分がいなくても滞りなく仕事が回ってしまうと、自分の存在価値がなくなりそうで休めない」。
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今朝、私たちに与えられました十戒の第4の戒めは、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト20:8)であります。
安息日をちゃんと守りなさいと言われる。なぜか。その理由が11節で言われます。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。つまり天地創造の時、まず神が七日目に休まれてこの日を安息日と定められた。だから私たちも、同じように仕事を休まなければならないというのです。10節にはこう記されます。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」。
この教えを踏まえますと、最初にお話した父親の例は、言ってみればこの第4の戒めに立ち戻った話としても理解できます。しかしよく注意して見ますと、この第4の戒めは、確かに「休むこと」を求めながらも、まず「働くこと」を大切にしていることにも気づかされます。なぜなら、これもまず神が、休まれる前に働かれる神であられるからです。神が七日目に休まれたのは、六日の間働かれたからに他ならない。だから私たちも同じように、まず休む前に働くことが求められる。9節の言葉を見逃すことはできません。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし」。
聖書が教える「仕事」、あるいは私たちの信仰にとって「働く」ということは、決して世俗の事柄ではありません。働くことと生きることは、密接に繋がっています。数週間前の礼拝でお読みした所ですけれども、創世記第2章15節に、次のような言葉があります。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。神に造られた人間がまだ罪を犯す前、エデンの園と言われるあの楽園生活にも、既に労働はあったのです。祝福された労働です。
エデンの園が楽園である本当の理由は、見るからに美しい景色に囲まれ、実り豊かな作物が至る所に成っていたからというだけではありません。まさにそこにおいて汗水を流しながら働くということが、神との生きた交わりをもたらしたからです。働くことは、そのまま神のご計画に思いを巡らすこと。一つ耕したら、「神さま、次はどこを耕しましょうか」と問いかけ、神との対話を積み重ねること。そのように私たちの暮らすこの地上が日々耕され、豊かに広げられてゆく。そしてその恵みの土地に集まって来る人々も、やがて同じ神を信じる仲間同士となり、互いに助け合って生きる。そのようにして、この地に神の家族、神の国が造り上げられてゆくのです。
私たちはこうして、働きながら祈ることの大切さを覚えます。この地上でそれぞれの役目を与えられ、形は何であれ、様々な仕事を引き受けながら、絶えず神と交わるのです。そして神と共に、また身の回りの家族や仲間たちと共に、自分の働きの場で神の国の建設のために、究極の使命を与えられて遣わされてゆくのです。
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けれども、あの創世記の物語の続きが明らかにしているように、アダムとエバは楽園から追放されました。堕落の故、罪の故です。そして私たち人間の罪の歴史が、ここから始まるのです。否、罪による苦しみの姿が始まってゆくのです。遠く聞こえるでしょうか。しかし罪の苦しみが始まるということは、実は本当の働き方や働く意味を失ってしまうということです。神との交わりを失うからです。祝福の徴だったはずの労働は、皮肉にも苦痛をもたらすものとなり、労働は際限なく続き、私たちは奴隷のように働き、働かされる内に、次第に喜びが失われてゆくのです。
しかしだからこそ、まさにここに、今日の第4の神の戒めの言葉が響いてくるのではないでしょうか。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。そしてもう一度、11節の言葉に耳を傾けてみましょう。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。
先ほども申したように、神は六日間働き続けて天地万物をお造りになった。けれども、そこで終わりではありませんでした。神は七日目に仕事から離れ、休まれた。ただし、何もしないでただ休んでおられたのではない。ご自分の造られた世界をご覧になって「良し」と言われ、「素晴らしいものができた」と喜ばれたのです。自画自賛ではありません。この世界を、そして他でもない私たちを、祝福してくださったのです。この祝福がなかったら、否、もしこの神の祝福を忘れてしまうならば、私たちは本当の意味で生きてゆくことも、働くこともできないはずです。
「労働は自由への道」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。元の言葉はドイツ語(ARBEIT MACHT FREI)ですので、色々な訳し方ができます。文字通り「労働は自由を造り出す」とか、「労働は自由をもたらす」。あるいは「働けば自由になれる」とか、そのような意味の言葉です。
かつて第二次世界大戦中、あのナチス・ドイツのもとでユダヤ人絶滅という、おぞましい計画が企てられました。その中で最も悪行極まりない大虐殺の舞台として知られるのが、アウシュヴィッツ強制収容所です。このアウシュヴィッツだけで、四百万人ものユダヤ人が殺されたと言われます。その生々しい実態については、例えば、以前この説教でもご紹介したV.フランクルの『夜と霧』という本の中にも、写真付きで描かれています。
実はこのアウシュヴィッツ強制収容所の正門に掲げられていた標語が、かの悪名高い「労働は自由への道」でありました。ある人がこの標語を糸口にしながら、今日の第4の戒めについて次のように説いていました。「ここで労働とは、数え切れぬほどの人間がひとりひとり『資源』としてしっかりと数えられ、徹底的に働かされ、全てのものを奪われ、殺され、その死体からもあらゆるものを絞り取られたことを言うのである。『労働』の末に与えられる休みとは、抹殺されることにほかならない」。
標語として掲げられた「労働は自由への道」。これは幻想にすぎません。全くの嘘でした。労働の対価として与えられたのは、自由ではない。休息ですらない。抹殺という、真におぞましい死の現実でした。そして続けて言うのです。「現代の日本人も、この標語を掲げて働いているのではないか。いかにも、もっともらしいこの言葉の虚しさに、もう随分前から気づいていながら、それを言い出すこともできず、信じて働き続けるしかない。それが今の日本の姿ではないだろうか」と。
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これも大袈裟に聞こえてしまうでしょうか。あるいは、もしかしたら次のような反発を引き起こしてしまうかもしれません。そうは言ったって、休みたくても休めないのが現実なんですと。日曜日も仕事は入るし、たとえ日曜日に休みが取れても、それまでの仕事があまりに過密で、とても教会まで足を運ぶ力がないんです…。
私たちは、この切実な声を決して無視してはならないと思います。心の中で上げている静かな悲鳴に、真摯に耳を傾けなければならないと思います。いったいいつから、日本はこんなに忙しくなったのだろうか。事実、私たちの教会の中でも、似たような状況を抱えている方々の声をしばしば耳にします。コロナが逼迫している状況で、職場の穴を埋め続けなければならない現実。家族の介護でどうしても家を空けることができないもどかしさ。あるいは、いわゆるブラック企業と呼ばれる職場で働かされ、こちらは賃金も低い中でひたすら疲弊する一方で、いわゆる「勝ち組」と呼ばれる富裕層はさらに富んでゆくような社会構造。それ故の悔しさや空しさ。
しかしそれだけに、なおさら十戒の今日の言葉が、神の言葉が、この国にも必要なのではないか。私たちも今一度、この言葉の前に立ち止まるべきではないだろうか。そう思えてならないのです。この第4の戒めは、もしかしたら個々人のレベルでどうにか守ろうとしても、実はもうどうにもならない所にまで来ているのかもしれません。休みたくても休めない現実の壁が、大きく立ちはだかっているからです。日本という国そのものが神の前に悔い改めて、今日の神の言葉を聴かなければ救いようがない。神よ、どうかこの国の人々が一人でも多く礼拝に足を運び、神の言葉を聴き、打たれ、あなたの愛に触れて、真の安息を得ることができますように、との祈りを募らさずにはおられません。
しかし、祈るだけでは済まないのかもしれません。礼拝に来るのをただ待つだけでも足りないのかもしれません。大切なことは、いったい私たちは、日曜日も働かざるを得ないような人たちのことを、どのような眼差しで見つめるかということです。
本日は、新約聖書のルカによる福音書を併せてお読みしました。このルカを含む福音書には、ファリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちがしばしば登場します。今日の場合は会堂長が出て来る。いわゆるユダヤ教のリーダーたち、律法の教えに詳しい専門家や指導者たちです。こういう人たちが主イエスと特に対立したのが、まさに安息日を巡ってのことでした。
ある安息日に、主イエスは病人の体に手を置いて癒されました。ところが会堂長は、これに腹を立てたというのです。安息日にはいかなる仕事もしてはならない、律法にそう書いてあるではないか。それが言い分でした。ところが主イエスはこれに挑戦するように、安息日に善いことや、必要なことをしてはいけないのかと言って、一歩も引きません。むしろ愛の業まで禁じた会堂長の姿勢を厳しく批判されるのでした。
そもそも、安息日を重んじる十戒の心とは何でしょうか。それは、何が何でも杓子定規のように安息日を死守して、あらゆる仕事から手を引くことでしょうか。はたして、本当の安息とは何でしょうか。この安息の日に、神が与えてくださる真の祝福とは何でしょうか。
主イエスは、会堂長にこう仰いました。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15~16節)。
ここに、牛やろばに水を飲ませるという話が出てきます。これは、今日の出エジプト記にも通じる言葉です。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(10節)。つまり安息日というのは、自分だけでなく、どんな身分の人も、家畜も、休まなければならないと言われる。そしてさらに同じ出エジプト記の第23章12節には、こう記されています。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。
以上から教えられることは何でしょうか。安息日の心とは何か。聖書をよく読むと、安息日に休んで、あなたの疲れを癒しなさい、とは書かれていません。むしろ牛を休ませ、ろばを休ませなさい。あなたの周りの人々を休ませて、元気を回復させてあげなさい。そう教えられるのです。実は安息日において大切なのは、自分がどれだけしっかり休めるかということ以上に、自分の身近な人や隣り人がどれだけ安らぎを得られるか。そうしたことに心を配る日、それだけに、いつも以上に愛が深く求められる日、ということでもあるのです。
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こうして、あらためて安息日で大切なこと。それは、この自分が、またあの人この人が、ちゃんと礼拝を守っているかどうか、ということだけに捕われてしまうことではありません。もちろん、だからといって、礼拝に行かなくて良いということではありません。愛の業に励むことだけをいたずらに強調する教えではないからです。
大切なのは、この安息日において、神様が与えてくださる祝福と安息をしっかり受け取ることです。礼拝堂で神の言葉を聴いて祈る人も、止むを得ず教会に行くことができずに外で働く人も、皆共に、同じ神に招かれ、遣わされている者として、神の御前に立ち返り続けることです。そのような者として、互いに覚え合い、今この時代にあって、神の国(神の家族)を造り上げてゆく使命と望みを新たにするのです。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。この言葉を聴きながら、私たちは今一度、神に向かって立ち止まってみましょう。歩く足を止め、急ぐ心を止めてみましょう。たとえ今、社会の第一線で働く位置にはいないとしても、しかし私たちは、絶えず何かに捕われ、思い煩いに陥ってしまう存在です。そのような弱き我が心をも神に差し出しながら、神との安らかな交わりに入れて頂きたいのです。
「安息」という言葉には、ただ何となしに休むだけでなく、何かを止めたり、離れたり、中断するという積極的な意味があります。中断することによって、そこにできた時間と場所を確保するのです。そしてそれを、神のために特別に取り分けて、お献げするのです。それが「聖別する」ということです。神がそこに働いてくださるために。私たちは、いつでも愛に満たされ、自分自身で平安に生きることなどできません。愛を求めながらも愛に破れてしまう私たちを、限りない愛をもって赦してくださる神の恵みを知らなければ、この自分自身を生きてゆくことも、そして身近な人に愛をもって関わることも、できないのです。
冒頭の父親の話に重ねるなら、いくら大切な仕事だからといって、もしも家族との時間さえ蔑ろにしてしまうなら、それは、自分自身が神との交わりから外れて休まらないだけでなく、実は、その家族の安息や憩いの時間をも奪うことになる。そういう意味で、十戒の第8の戒め「盗んではならない」も破ることになってしまうのです。この第4の戒めは、神を真の神とし続ける大切さを説く十戒の前半の教えの締め括りであると同時に、この後の第5の戒めから始まる、私たちの隣人に対するあるべき愛の姿についての教えに橋をかける、実に要のような教えなのです。
命の源に立ち返りましょう。そして、神の真の祝福と安息を頂きましょう。これは私たちの勝手な願望ではありません。他でもない神ご自身が、私たちにそれを与えたいと願っておられるからです。この神に、私たちは出会って頂くのです。ここに、キリストの招く声が重なって聞こえてきます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。
<祈り>
天の父よ。あなたの教え、愛の言葉を聞かせてくださり感謝いたします。仕事の奴隷、また思い煩いの奴隷となっている私たちの姿があります。真の安らぎを得られないまま身も心も疲れ果て、愛に生きられなくなっている私たちの現実があります。どうか、今日の第4の戒めが、あなたとの生きた交わりを回復し、私たちを愛に立ち返らせ、この世にはなき安息と自由をもたらすものとして、この日本の地に、そして世界の果てにまで、響き渡りますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。
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