6月1日「神のみこころを行うとどうなるのか」
- 教会 松本東
- 7月6日
- 読了時間: 7分
更新日:16 時間前
2025年6月1日
『創世記』39:2~3,21~23
『ヨハネ福音書』8:21~30
天の父なる神様 礼拝を捧げる私達を、この主の日においても、み言葉の説教によって新しくして下さるように。神のみ心を教えて頂き、示されたとおりのあなたの御心を行う教会として下さい。主の御名によって祈ります。アーメン
ヨハネ福音書は、主イエスを伝えようとする時、父なる神と子なる神である主イエスとの関係をとても大事にして伝えようとしています。3章16節を覚えておいででしょう。「神はその独り子をお与えになった程にこの世を愛された。」神と主イエスは、父なる神と独り子なる神という関係です。私達の救いのために、ご自分の独り子を送り出す神と送り出された独り子なる神という関係です。
遣わされた子なる神の方の主イエスはこの父なる神をいつも心に留めておられます。心に留めるとは、そのことがいつも気になっているということです。そのことを大事にして考えたり、判断したり、することです。それが生きる目標になったりすることもあるでしょう。皆さんは何に心を留めて生活されていますか。主イエスはある時、意味はなかなか深刻ではありますが、表現としては笑えそうな、心を留めるもののことをお語りになりました。地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ
(Mt.6:19~21)。富という言葉は、宝物とも訳せます。豊かなメッセージを伝えてくれる主イエスのみ言葉ですね。これを聴いた上でもう一度考えてみましょう。自分は何に心を留めて生活しているか。宝物の様に大切にしていることは何か。
主イエスが心に留めておられたもの、大切にされていること、それは父なる神でした。神との関係を三つの言い方で表されました。
神と自分はどの様な関りがあるのか。私は上のものに属していると言われました。主イエスは、神に属していると言われる。ヨハネ福音書の初めに告げられている通り、言は神と共にあった。この言は、初めに神と共にあった、のです。
自分は神にとってどういう者であるのか、私をお遣わしになったとあります。主イエスは、神から遣わされていることを深く覚えておられた。遣わされた目的もよくお分かりであった。十字架を目に前にして、主イエスは祈りをお捧げになった。「出来る事なら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」(Mt.26:39)自分の遣わされた目的は、私達の罪の裁きを代わりに受け、私達には救いを与える事でした。主イエスが近づいてこられるのを見た洗礼のヨハネがそのことを証言しています。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」(Jn.1:29)
自分の話す言葉については、どうお考えだったのか。父に教えられたとおりに又その方から聞いたことを話していると言われました。神に言葉を与えられて、主イエスはお語りになった。神に教え示されて、それをお語りになった。少し前に、主イエスの、穏やかですが鋭い言葉を聴きました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」との言葉。人を立ち去らせる強い力がありますね。主イエスの言葉は何故強いのでしょう。神から与えられた言葉だからです。神に教え示された言葉だからです。神の力が込められた言葉だからです。そのことを、父に教えられたとおりに又父から聞いたことを話していると言われたのです。
主イエスが心に留めておられたもの、大切にされていること、それは父なる神との関係でした。それを前にすると、私達が心に留めるものが何か見えてきます。大切にすることが何か分かってきます。それは主イエス・キリストとの関係です。主イエスは、私は上のものに属していると言われました。私達はどう言えるのでしょうか。
ここはその聖書箇所を開いて読んでみましょう。ローマの信徒への手紙14章8節。(p.294)生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のものです。私達は主に属しているのです。
主イエスにとって神は、私をお遣わしになった神と言われました。私達はどう言えるのでしょうか。今度は、ヨハネ福音書17章18節。(p.203)私を世にお遣わしになった様に、私も彼らを世に遣わしました。私達も、主によって人々の許に遣わされているのです。遣わされたならその目的があるはずです。主イエスにとっては、その目的は十字架に掛かる、事でした。では私達の場合はどうか。世に遣わされる目的は、自分の十字架を背負って主キリストに従うことなのです。(Mk.8:34―p.77)自分の十字架を背負って主キリストに従う、それは、どういうことか。
主イエスにとって十字架は、救いを実現するための働きでした。従って十字架は、神から与えられた救い主としての使命、任せられた務め、重要な課題でした。そこから、自分の十字架を背負って主キリストに従うことがどういうことか分かる。救いに入れられた者としての使命を果たして生きるということになる。しかも自分の使命だと言われる。あなたにしか任せられない務めを、すすんで担って主に従う。ほかの誰でもなくあなたこそが取り組める課題を自分の十字架として、喜んで背負って主に従う。そういう者として、世に遣わされているのです。
弟子達と共に行動される主イエスは、独り退いて、お一人になられる事があります。6章では、独りで又山に退かれた、とあります(6:15)。お一人で何をなされたのでしょうか。お祈りをされたのです。主は何をお祈りされたのでしょう。それを知りたいと思います。独りで又山に退かれたきっかけは皆が自分を王にしようとしているのをお知りになったことです。自分が、王になるために父から遣わされたのではないことを確かにされます。
では、何のためか。そのことを確かめるための祈りを捧げられたのです。救い主としての使命、任せられた務め、重要な課題を確かめる祈りでした。父よ、私に与えられた救い主としての使命は何でしょうか、罪を取り除く務めは何でしょうか、罪の裁きを受けるのが私に課された課題なのでしょうか、それがみ心であることを確信します、そういう祈りが独りで又山に退かれたことが示す内容なのです。
では、その祈りを捧げる時の主イエスの心はどんな心だったのでしょうか。それを明らかにするのが29節です。私をお遣わしになった方は私と共にいて下さる。私を一人にしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心を行うからである。ご自分の使命、任せられた務め、重要な課題を確かめる祈りは、神の御心を確信する祈りでした。
神のみ心を行うとどうなるのか。神が私と共にいて下さると主は言われました。神への信頼を明らかにされています。私を一人にしてはおかれないと続けられる程の信頼です。大丈夫だ、私は信頼している、神は必ず共にいて下さる、そういう、主イエスの確信の声が聞こえてきます。
では、何故それを確信できたのでしょう。神は必ず共にいて下さる、と何故言えたのでしょう。その拠り所は何でしょう。主は言われます、私はいつも神のみ心に適うことを行うからである、と。神のみ心を行う、だから、神は必ず共にいて下さる、と確信出来るというのです。
神のみ心を行うとどうなるのか。神が私達と共にいて下さると確信できるようになるのです。旧約聖書でヨセフの生き方を読みました。お兄さん達に売られ、奴隷として働く先の主人の奥さんに欺かれて投獄され、牢獄で夢を解き明かした人からは約束を忘れられ、と見た目には不幸の連続でした。しかし、どこに送られても、ヨセフは祝福を受けます。そして、遂にエジプト王国の宮廷の責任者(Gen.41:40)になるのです。不幸の連続を、祝福の連続にしたものは何だったのか。その答えは、読んだ創世記が伝えます。合わせて5節を読みましたが、その中に4度も繰り返されています。主がヨセフと共におられた。これが、不幸の連続を、祝福の連続に変えたものだったのです。神が私達と共にいて下さる、という生き方の見本のようです。
神が共にいて下さるとどうなるのか。神があなたを守ります。苦しみを乗り越えさせて下さいます。あなたの生き方に意味を与えます。共にいて下さるとはそういう事です。
御心を行うことに励み、そして神が共にいて下さることを生き生きと覚えてこの一週を送ります。
天の父、私達各自の、自分の十字架は何でしょうか、お教え下さい。それをすすんで背負って主キリストに従う者とならせて下さい。あなたの御心を行う者とならせて下さい。あなたが共にいて下さることを鮮明に覚えて生きる者とならせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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