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「神の国のエクステンション」

2022年5月29日 主日礼拝説教(復活節第7主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 ダニエル書7:27
新約聖書 コリントの信徒への手紙一6:1~11             

パウロがコリントの教会の人々に宛てた、厳しい戒めの言葉を、今日も私たちはご一緒にお読みしました。

かつてパウロが熱心に伝道し、福音の種を蒔き、神の教会として建てられたはずのコリントの教会は、しかし実際には、次々と深刻な問題を抱える事態に直面していました。既にこれまで見て参りましたように、党派争いによる分裂の危機があり、また前回は、性に関する淫らな倫理問題が起こっていました。

それらに続いて、今日パウロが取り上げますのは、この教会で起こった、いわゆる訴訟事件です。具体的に何があったのか、詳しくは分かりません。1節ではただ、「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こした」ということだけが記されています。けれどもパウロがここで問題としていますのは、教会の中で起こった、何がしかの争いの出来事そのものよりも、その問題の解決方法として、教会が訴訟を起こしたことです。つまり教会の外に訴え出て、法廷の場で裁判を起こして決着をつけようとした、その行いについてでした。なぜそんなことをするのか。なぜ「聖なる者たちに訴え出な」かったのか(1節)。


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ところで、前回の第5章の言葉を覚えておられる方は、今日の第6章の所を読んで、少し戸惑いや違和感をもたれたかもしれません。それは、続く2節でパウロがこう述べていたからです。「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに」。

ここを読んで、あれと思われるかもしれません。と申しますのも、パウロは前回の第5章で「みだらな行い」について問題にしていた時に、教会の内側と外側をあえて明確に区別していました。分けることによって、淫らな問題は確かに教会の中でも外でも起こることではあるけれど、大切なのは、むしろ教会の中における淫らな行いに対して、厳しい態度をとることだと、パウロはコリントの教会に強く訴えていました。だから第5章12節で、こうはっきり述べたのです。「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」。

教会が裁くのは、教会の外にいる世の人々の罪のことではない。教会の中の人々の罪である。そこに、神の国の扉を開く鍵がある。そういう責任と権限が教会には与えられているのだ。けれども、教会の外の人々に対してまでは、教会は裁く権限など無い。パウロはそのように考えて、教会のなすべき務めを明らかにしていました。

ところが、今日の第6章では、「聖なる者たちが世を裁く」とか、「世があなたがたによって裁かれる」とあります。既に神によって聖なる者とされている教会、この教会の命に生きる者たちが、世を裁くのだと言われているのです。続く3節では、これがさらに強調されて、「天使たちさえ裁く」ことができる、とまで言われます。裁きの矛先は、教会の内から外へ、また天へと越え出てゆく。

いったい、教会は世を裁くべきなのか、裁くべきではないのか。そしてこのことは、パウロが一貫して主張する、教会の中でなすべき裁きの大切さとどう関わるのか。第5章と第6章との繋がりを、私たちはどう読んだらよいのでしょうか。そしてパウロは、本当は何を伝えたかったのでしょうか。私たちは、ここに示される筋道を尋ね求めながら、さらに今日の御言葉に耳を傾けたいと思うのです。


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さて、かつてのコリントの教会は、もしも教会内で問題や事件が起きたならば、コリントの教会なりに、そこにきちんと向き合って、それを適切に裁くための手続きを整えていたことだろうと思います。何か困ったことがあったら、教会指導者に相談し、必要があれば代表者たちによる会議も開いて対応を検討する。今で言えば、牧師や長老たちが然るべき務めを果たしていたと思うのです。

ところが、そこに訴え出ない。教会の然るべき代表者、パウロの言葉を使えば「聖なる者たち」に訴え出ない。そして「正しくない人々」に訴え出た。これはおそらく、先ほども申したように、教会の外の裁判所のような所に教会の問題を持ち出した、という意味でありましょう。では、いったいそれの何が問題かと言えば、パウロにしてみれば、教会というのは、天使たちさえ裁く力が与えられているのだから、教会の問題は教会の中で裁き、解決できるはずだ。それなのに自分たちで裁くことをやめてしまって、世の裁判所に訴え出る。何ごとだ。

実はここは、しばしば誤解される箇所でして、キリスト者あるいは教会というのは、裁判所に訴え事を持ち出していけないのだという原則が記されている訳ではありません。パウロの主眼は、もちろんそこにあるのではありません。現実にはどうしても裁判所に粛然と裁いてもらわなければならないことはあるはずです。そして教会の中で、例えば盗難事件が起きたならば、それを交番や警察署にも持ち出すな、等という教えがここでなされているのでもありません。

もしそのような主張が支配するようになれば、教会は治外法権、つまり政治の外、この世の権力の外に置かれることになって、自分たちは自分たちで裁く権利がある、そのための教会法も持っている、等と少々傲慢な道を突っ走りかねないことにもなります。

私たち地上に立つ教会は、地上にある限り、例えば教会の営みも、宗教法人法という法によって守られていますし、刑事訴訟法とか、民事訴訟法といった様々なこの世の法によっても守られています。ですから、こうした現実は一方ではきちんと認めなければなりませんし、その意味で、教会はこの世で特別な世界を造っているのだ、等とパウロはここで声高に主張しようとしているのではないのです。


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むしろそうした世の力に頼る前に、まず何より教会が教会としてなすべきことがある。パウロが強調するのは、あくまでもそうした、教会自身のあるべき姿、そして教会に湛えられている真の裁きの力でありました。

そこで、私たちはパウロの5節以下の言葉に注目したいのです。「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」。「兄弟が兄弟を訴えるのですか」。そして7節以下で、さらにこう続けます。「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている」。

コリントの教会で、どんな争い事があったのかは分かりません。けれども、おそらくここの言葉から確かに分かりますのは、教会の人々にとって、ここで自分たちも争わないと今度は自分が損をすると思っていた、ということです。「不義を甘んじて受け」ることができなかったのです。不義、不正をそのまま見過ごすなどできなかった。否、それだけではない。その不義によって、もしかしたら自分が大切にしているものまで取られるかもしれない。そう考えますと、実はコリントの教会では会員同士の財産の争いが起こっていた、という風にも想像できます。

具体的なことは依然として明らかではありません。しかしいずれにしても、私たちが争う時というのは、一つには、自分が絶対正しいという主張に立って、相手の間違いを攻撃する場合が考えられます。しかしもう一つは、ひょっとしてこの自分も間違っているのではないかと怯えながら、何か奪い取られるかもしれないと思い込んだ時に、それに耐えられなくなって、先制攻撃を仕掛ける。そして自分の行いを正当化するために、それを立証するありとあらゆる口実を揃えて、裁判で戦おうとさえするのです。


しかしまさにそこで、パウロは言うのです。「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。

あなたがたは本来、むしろ不義を甘んじて受けることができるところに、立たされていたのではなかったか。自らも奪い取るというのではなく、むしろ相手に奪われるままの自分として生きることができていたはずではなかったか。パウロはこう言いながら、何か事が起こったらすぐに世の裁判所に訴え出るような態度とは異なる、信仰者としての基本的な姿を言い表していたのです。

しかも、そのように不義を甘んじて受けながら生きる「聖なる者たち」の姿は、天使たちでさえ知らないような、神の聖さ、神の義に貫かれて生きる生活の姿です。ですから、「聖なる者たちが世を裁く」と言った時に、わざわざ教会が、教会の外のこの世の人たちについてあれこれ論評し、評価を下す、というような裁きを積極的にしなければならない、ということでは決してないのです。

むしろここで言い表されているのは、不義を甘んじて受けてゆくその姿自体が、争いに明け暮れているこの世に対する一つの証しとなるのだ。否、裁きともなるのだ。世のそうした罪の姿を、神の前に訴え続ける出来事となるのだ!ということです。そのようにしてこそ、あなたがたは神の国を受け継ぐ。そこで神のご支配を受け入れ、神の真の義なる裁きにこの自分が貫かれて、神の恵みの宝を受け継いで生きることができるのだ!


神の国を受け継ぐ。パウロが今日の手紙の終わりに何度も強調していたのは、まさにこのことでした。ですから本日の説教題も、「神の国のエクステンション」という風に掲げました。少し変わった題かもしれません。奇をてらっていると思われるかもしれません。無難に、「神の国を受け継ぐ者」等としても良かったはずでしょう。

しかしいったい、私たちに約束された神の国は、この地上ではどのように実現するものなのでしょうか。私たちは神の国をどこで、どのような仕方で見ることができるのでしょうか。

神の国のエクステンション。エクステンションとは、拡大とか拡張を意味する英語の言葉です。ここから、神の国が広がる様、あるいは神の天幕が広く張り巡らされる様がイメージされます。しかしここで注目したいのは、エクステンション(extension)は、絶えずその内側に、テンション(tension)含んでいるということです。これは単に文字遊びに留まりません。

神の国の拡大は、絶えずその内側に、私たち人間のテンションを抱え込む。テンション。この言葉もやはり英語で、不安や緊張という意味を表す言葉です。あるいは葛藤や忍耐の糸がピンと張られている、そんな状態を意味します。神の国のextensionには、そうした私たち人間のtensionが包み込まれているのです。否、むしろ私たちがキリスト者として歩む生の現実において負わされる様々な葛藤の現実にあってこそ、神の国は、既に実現しているのです。そこにもう、神の国の天幕が下ろされているのです。


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今日の文脈で申せば、裁く側も、裁かれる側も、その間には絶えずテンションの糸が張られています。しかしそこで私たちが見失わないでいたいのは、まさにそうした現実のただ中で、神の国の方が私たちを包み、その御光で私たちの目を開き、そこで神の家族としての姿を仰ぎ見させてくれるという約束です。なぜなら、そこでキリストが、体を張るようにして私たちを守っていてくださるからです。全ての重荷を背負い、共に歩んでいてくださるからです。否、もう歩みきってくださった。十字架に向かって、自らを献げ尽くしてくださったのです。

その十字架の出来事によって明らかにされたものは、何でしょうか。神の義です。神の正しさです。決して人間の正しさではありません。私たちの正しさは、必ずしも人を本当に生かすものとは限りません。時に人を打ちのめし、自分を守るものでしかなくなることがあります。しかし神の義は、私たち全てを生かします。罪の闇から救い出します。そして神の御前で真実に悔い改めさせ、私たちを赦しの道へと導くのです。そしてそのような姿として隣人の前に立つ時、私たちはその人を真に裁き、そしてまた、真に神の許に導くことができるのです。逆に言えば、私たちが人を真に赦し、また真に裁くことができた時、それは、神の義に自らが生かされていることの証しとなるのです。

この神の義が私たちを貫く時、もはや悲しみも、苦しみも、涙も、全て拭い去られて、喜びがもたらされます。喜びの回復です。神の家族としての交わりが、そこで豊かに回復してゆくのです。


神の国と神の義。この恵みに生きるために、キリストは来てくださいました。「……みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(9~11節)。

私たちの罪人としての姿は、もう過去の姿となりました。「キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされ」ているからです。この測り知れない恵みの中を、歩み続ける私たちでありますように。

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