2022年3月27日 主日礼拝説教(受難節第4主日)
牧師 朴大信
旧約聖書 ホセア書1:2~5
新約聖書 コリントの信徒への手紙一4:14~21
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コツコツと読み進めておりますコリントの信徒への手紙一も、今日で第4章を読み終えることになります。この手紙全体の区分から申しますと、次の第5章からは、コリントの教会で起きていたさらに具体的な問題に踏み込んで話が展開してゆきます。その意味では、この第4章までが大きな一区切りと言えます。
とはいえ、既にこの第4章も、それまでの第1~3章までの内容を受けて、その小さな纏めのようなことをパウロは記してきました。かつて彼が指導者として建てたコリントの教会の中に起こって来ていた数々の問題。そこに見えて来る人間の深い闇の問題。そして、それらに立ち向かうパウロの基本的な姿勢。このようなことを彼は実に丁寧に、しかし時に激しく、語り続けて来ました。
そして今日の第14節の所に至って、彼はこう結びます。「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」。
「あなたがたに恥をかかせるためではなく」とわざわざ断っているのは、これを読むことになるコリントの教会の人たちが「パウロ先生は我々に恥をかかせた」と受けとめるかもしれないと、パウロ自身が予め考えたからに違いありません。例えば前回の所で、相手を王様や大金持ち呼ばわりするところなどは、まさにコリントの教会に対する痛烈な皮肉でありました。あなたがたは勝手に王様になっている。否、実際、王様にでもなっていてくれたらと思う。けれども、なり損なっている。似ても似つかぬ憐れな王様。まるで裸の王様だ。そう言わんばかりのパウロの口調でした。
このように、パウロは自分のものの言い方が、一方では相手に恥をかかせ、傷をつけることになる可能性も十分に覚悟していました。けれどもその真意は、喧嘩別れすることではない。離縁状を突き付けることでもない。「愛する自分の子供として諭すためなの」だとはっきり言います。
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さて、今日の箇所を読みながら、私が一つ、どうしても立ち止まってしまうような言葉がありました。それは16節です。「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」。
「わたしに倣う者になりなさい」。この短い言葉です。つまり自分に従いなさい。あるいは、真似をしなさい。そこに問題を解く鍵があるのだから。そう迫るのです。だから、さらに続けて17節でも、「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです」と言って、どうもパウロは、信頼を置いていたテモテを自分の伝道の協力者として立てて、既にコリントの教会に遣わしていたようです。遣わして何を期待したかと言うと、自分の生き方、つまりパウロがどんな生き方をしているのかを、コリントの教会の人々にもう一度示して、思い起こさせる役目を与えたのです。
「わたしに倣う者になりなさい」。私の心がこの言葉から離れられないのは、パウロを向こう側において、随分自信たっぷりだなぁと呑気に指さしたくなるからではありません。むしろ呑気ではいられない。同じ伝道者の一人に立てられている者として、自分だったらこんな言葉が言えるだろうか。もし私たちの教会で何か問題が起こった時、その解決に向かう糸口に、このような言葉を発することができるだろうか、という問いに晒されるのです。皆さんを何かのことで説得する際の急所に、この私がいつもどんな風に生きているかを、自信をもって言えるだろうか。あるいは、誰かにお願いして言わせるだろうか。むしろ自ら墓穴を掘るだけではないか。
そう問われながら、あらためてこの言葉に先立つ箇所を丁寧に読んでみますと、パウロは確かにここで、コリントの人々を「愛する自分の子供」と呼びかけていました。厳しい言葉を語りながらも、𠮟りつけたり、自分を正当化したりすることが目的ではなかった。ましてや彼らに謝らせようなどとは思ってもいない。愛している。しかも彼らを、我が子のように愛している。父親として愛している。たとえ子どもを養う者は百人、千人、あるいは一万人いたとしても、子どもを生むことができるのは親だけ。その親がこの私だ。
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これには、多くの人々が引っかかったようです。当のコリントの人々もそうだったでしょうし、これを聖書の言葉として読む、後の時代の人々も、すぐには納得できなかったと言います。なぜなら、教会の人々にとって、本当の父とは神様だけ。父なる神様と呼んでいるではないか。それなのに一人の伝道者が、自分があなたがたの父親などと言い張ることは、たとえ比喩だとしても、おこがましいのではないか。高ぶったものの言い方ではないか。そう批判するのです。
パウロは、そのことは良く知っていたと思います。だから要所要所に、自分を、ただ偉そうな父親として主張しているのではなく、あくまでもキリストとの関係で、自らの姿を捕えようとしています。15節の「キリストに導く養育係」という言葉に始まって、続けて「キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけた」と言う。17節では「キリスト・イエスに結ばれたわたし」と言い現わします。既に、教会という神の家の管理人となっている自分は、キリストという主人にお仕えしながら、しかしこの家の住人であるコリントの人々の父親でもあったのだと、パウロは自分の教会での立ち位置を、もう一度そのように打ち明けるのです。
親として子どもを育てる時、それはある意味で、自分の子どもに己の生きる姿を見せながら、このようにするんだよと言い聞かせる、あるいは真似をするよう促す、自分に倣うよう勧めるということが往々にしてあるでしょう。模範としてそこに立とうとするものです。逆に子どもを育てる時、「お父さんの真似だけはしないように」などと言ったら、反面教師にしかならない。子どもはどう思うだろうか。体は育っても、心や信頼関係は育つだろうか。これは自らにも言い聞かせ続けねばならないことです。
ところで、パウロはこの後20節で、「神の国は言葉ではなく力にある」と書き記しました。ここで「神の国」と訳されている「国」という言葉は、もう少し具体的なニュアンスを付け加えますと、前回の8節に出てきました「王様」という言葉と親戚関係にあります。つまり「神の国」というのは、「神の王国」ということです。神が王としてそこを治めておられる国、そのご支配の領域という意味です。
その神の王国は、「言葉ではなく力である」と言うのです。言葉であれこれ説明して分かるようなものではなく、まさに神の王としての確かな力によって、私たち自身がそこに生かされる時に初めて分かってくるような国なのだ。そう言うのです。
ここで「言葉」という風にパウロが言っているのは、具体的には、そのすぐ前の19節に「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」と記されていることとの関連で読むならば、よりはっきりとその意味が分かって来ます。「高ぶっている人たち」…つまり自分が王様だと思っている人たちの言葉です。自分が手にしているものを、真の王であられる神から与えられたものだと思わずに、自分の力で獲得した。だから自分は王として振舞って構わないし、これは自分の所有物だと言い張っても構わないと思う。そうした、あからさまな高ぶりから出てくる言葉です。
あるいはまた、自分はこれだけ懸命に頑張っているのに、それを理解してくれない周囲に対して、恨み始める。最初は悲しみだったのが、次第に睨みつける。頭ごなしに威圧して、やり込める。既にそこでは神を見失い、もはや自分しか見えていない。相手がいても、それは自分がコントロール可能な支配の対象として服従させる存在となっている。結局、王座に居座り続けているのはこの私。そんな自分自身の闇に深く陥った時に出てきてしまう言葉のことです。
けれども、そのような言葉には神の国は宿っていない。神の王としての力が、そこには表れて来ない。もともとそれを拒否するからです。高ぶる者の言葉からは、神の国は見えないのです。
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その高ぶりは、やがてパウロに対しても向けられるようになっていました。「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいる」(18節)。コリントの教会の人々の態度です。パウロ先生はもう自分たちの所に来ない。遠くから偉そうな手紙を書いて寄こしはするけれど、それまでだ。無視して構わない。そんな風に考えている人たちがどうもいたらしいのです。
おそらくパウロは、これを深い悲しみと共に聞かなければならなかっただろうと思います。けれども彼は、そこで我を忘れてコリントに飛び込んで行こうとはしませんでした。彼にとって大切なのは、神の御心がそれを求めておられるかどうか、だったからです。19節、「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう」。あくまでも主の御心が鍵です。自分の思いではない。主が「よし」と言われる時には、行くことになるだろう。
しかしその時にパウロが願っていることは、21節の言葉を用いるならば、もちろん「鞭を持って行くこと」ではない。「愛と柔和な心で行く」ことができる日が来ることです。それをコリントの人々も、本当は望んでいるに違いない。だからどうか、今この時から、心を入れ変えて欲しい。どのように心を入れ変えるのか。ここでも、自分の力でするのではない。神の王国の力の中に、立つこと。これに他なりません。
パウロは今日、この手紙で「わたしに倣う者になりなさい」と言いました。そして伝道の協力者テモテにも、どうか自分の生き方をコリントの人々に伝えて欲しいとお願いをしていました。けれども、その場合の「私」とは、あくまでも「キリスト・イエスに結ばれたわたし」なのであって、それはどこまでも、「キリスト・イエスの中にある私」なのであります。キリストの中にすっぽりと囲まれてしまい、キリストの力によって支配されている、そういう私パウロの生き方。生き様。全存在の姿。
このパウロの姿をしっかり目に留めながら、あらためて15節の言葉に注目します。「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです」。
あなたがたを我が子のように生んだ、その私パウロの生き方自体が、キリストの中に立てられたものであって、主イエス・キリストの福音を通してだけのものであった。それ以外の通路はなかった。もしキリスト以外の通路を通って私があなたがたをもうけていたとしたら、それは私ではない。そして私は、金や銀など持ち合わせていなかったし、あなたがたを手なづけていたのはそういうものではない。自分の学や知識、あるいは指導者としての魅力や権威などによって、あなたがたをキリスト者として生んでいたのでもない。それはただ「福音を通し」て。キリストの福音。これに尽きるのであります。
ここにおいて、キリストの福音と、先程の神の王国が結びついて来ることになります。神の王国の中に立つということは、まさにキリストの福音の中に立つことに他なりません。そこでしか知ることができない。そこでしか知り得ない確かな幸いがある。そして私たちは、実はそこでしか、本当には生き抜くことができないのです。
パウロがかつても今も、一にも二にも伝え続けたのは、福音です。キリストの福音。それも、ただのキリストではない。十字架につけられたキリスト、という福音です。既に何度も目に留めて来ました第2章2節のパウロの核心の言葉を、改めて心に刻みたいと思います。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」。この十字架につけられたキリストこそ、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」。しかし「召された者には、神の力、神の知恵」であり続けるのです(1:23~24)。
ここ最近、週報の予定欄に「信仰告白準備会」と記記されていることにお気づきになった方も多いかと思います。まだ長老会で正式に承認されていないタイミングですので、どなたのことであるか、きちんとお知らせすることができません。然るべき手続きを経た後に、遠からず、皆さんにお知らせできると思います。
けれども、コソコソ隠れて準備会を行っている訳ではありません。教会の歩みの中で、教会に委ねられた務めの中で、今、信仰告白式に向けた準備会が行われています。公のことです。もっとはっきり申すなら、この準備会は、ある特定の個人的な事柄というよりも、まさにその個人を通して、神の御心が働き、このような形を通しても既に御業が行われている、という出来事に外なりません。コロナで集まることが難しく、コロナ以前のような交わりが持てない中にあっても、しかし神はここにも働いてくださっている。
ぜひ信仰告白式を迎える日には、お名前とお顔を覚えて皆で喜び、大いに祝いたいと願っています。牧師である私にとっても、こんな嬉しいことはありません。しかし今日のパウロの言葉に重ねるなら、「わたしに倣う者になりなさい」と私自身が堂々と言えるだけの姿を示せていたかと問われるならば、大いに悔い改める必要があることも申し添えなければなりません。それも、私の「言葉」をもって、それこそある日の説教の言葉が何か決定的な機会となって信仰告白に導いた等とは、少なくとも私の口からは決して言えないことです。
けれども、だからこそ、「神の国は言葉ではなく力にある」ことを思わされます。信仰告白する方の所にも、神は確かな王となってくださった。十字架につけられたキリストの恵みが、そこで捕えていてくださる。主ご自身のものとしてくださっている。神の王国が、その方の中にも、そして私たちの教会の中にも、しっかり形作られているのです。
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神の王国に生きる。それはどこまでも、キリストの福音に生きることと一つです。いったいキリストは、私たちに何をしてくださったのか。私たちに共通して言えることがあります。既に洗礼を受けた方、信仰告白をされた方、あるいはこれからその準備をされる方、その誰にとっても必ず言えることがある。それは、私たちの誰にも先立って、他ならぬ主イエスご自身が洗礼を受けてくださったという事実です。そしてまさにそこから、神の国、神の王国を宣べ伝え始められ、十字架への道を歩まれたということです。
いったい、あの十字架はどんな出来事だったのか。それは洗礼者ヨハネから、主イエスご自身が洗礼を受けられたという事実の中に既に刻み込まれています。主はあの時、罪人として御前に立ってくださいました。そして私たち罪人の中に交わり、そのお一人として洗礼を受けてくださったのです。それは、主イエスも人の子だったのだから、当然肉なる罪人でもあった、という理由によるものではありません。そうではなく、むしろ神の子であるにもかかわらず、神と等しい身分の方であるにもかかわらず、しかし私たち同じ所に立ってくださったからに他なりません。
私たちの罪を、私たちの負うべき罪を、ご自分のこととして引き受けてくださったのです。そのことによってしか、私たちが父なる神と結ばれる道を開くことはできないと覚悟されたのであります。罪に溺れる私たち。いつしか主を忘れ、自分が王座に居座ったまま隣人を支配し、仲間を苦しめ続けてしまう、そんな愚かな罪人である私たちを、しかし主は、けちょんけちょんに裁いて死の闇に葬り去られるのではなく、自らがその罪を全て引き受けてくださった。私たちを新しく生かしてくださった。主のものとしてくださった。
ここに愛があります。この愛に生かされる時、喜びが溢れます。共に生き直す隣人が見えてきます。神の国の力が、私たちを捕えているのです。
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