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「神の恵みを証しする言葉」

2023年6月11日 主日礼拝説教(聖霊降臨節第3主日)       
牧師 朴大信
旧約聖書 イザヤ書28:9~13
新約聖書 コリントの信徒への手紙一14:20~25

             

先ほど献げました祈りの中で、私はある一つの思いが与えられて、次のように祈りました。

私たちは今、コリントの教会の人々に宛てたパウロの手紙の言葉に聴き続けています。教会の言葉が整えられることを願うからです。そして私たち自身の言葉も、あなたの恵みに相応しいものに変えられたいと願うからです」。

今日私たちは、再びコリントの信徒への手紙一に戻って参りまして、第14章の中ほどに当たる20~25節までの所をお読みしました。そもそもこの14章全体の中心的なテーマは、前回からはっきり示されていたように、教会の礼拝、あるいは集会において、いったいどのような言葉が語られるべきか、 ということだったと言えます。それは要するに、「異言」か「預言」かということです。この二つを天秤にかけながら、パウロはここで明らかに、預言の大切さの方を強く訴えるのです。

預言。神さまから預かった言葉。何だか遠い話のように聞こえるでしょうか。あるいは、これは教会に責任を持つ牧師や長老の人たちだけに関わる事柄でしょうか。しかしテーマはあくまでも、教会の言葉です。教会が教会として成り立ってゆくための言葉。教会が自分自身を造り上げるための言葉です。そしてそれは、そのまま、教会に繋がっている私たち自身の語る言葉のことであり、したがって、私たち自身を造り上げてゆく言葉でもあるのです。


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ところで、24節を見ますと、「皆が預言しているところへ」とあります。この「皆」は、「全ての者」と訳した方がもっと身近に感じられるかもしれませんが、いずれにしても、ここで「皆」とは誰のことを指しているのでしょうか。文字通り、コリントの教会の人々全て、礼拝に出席していた全員のことでしょうか。だとするなら、その全員が本当に「預言」を語っていたのでしょうか。

おそらく、そうではないでしょう。次回に読む箇所ですけれども、29節に、「預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい」とあることから、皆が皆、預言を語っていたわけではなさそうですし、全員が預言することが理想とされているわけでもありません。そうであるにもかかわらず、ではなぜここでわざわざ「皆」と言われているのだろうか。

それはきっと、教会で語られる預言の言葉に、それこそ皆が皆、共に責任を持つ必要があったからではないでしょうか。数人が預言を語ったら、他の人たちは皆でそれをよく聴きながら検討する。語られる内容を吟味し、必要に応じて修正したり補ったりしながら、より豊かに分かち合う。そうしながら正しく宣べ伝え、伝道する。それはまさしく、皆が一緒に担い合う教会全体の務めなのです。


さて、こうしたパウロの問題意識を背景としながら、彼は今日の最初の所でこう語ります。「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません」(20節)。随分大胆に、率直に語っていると思います。誰に向かって語ったのでしょうか。それは明らかに、異言を語る人たちに対してです。異言を語ることが、何か特別な賜物の証しであると思い込み、自分こそが信仰において人よりも大人だと思い高ぶっている、まさにそうした人々に向かって、パウロは、そんな子どもじみた判断や態度ではいけないと戒めるのです。

だから彼は続いて、「物の判断については大人になってください」と言います。あなたがたが自分で大人だと思っている姿は、実は子どもである。本当の大人になりなさい。この「大人」というのは、元のギリシア語の言葉をそのまま直訳すると、「完全な人」という意味になります。

これはもちろん、全てにおいて万能で、過ち一つ犯さないような完璧な人・隙のない人、という意味ではありません。自分の力で到達する完全さでもありません。そのような完全さは、たとえ人生のあるひと時にそう思える姿があったとしても、一生続くものではないでしょう。いつかは衰える。そしていつかは朽ち果ててしまう。にもかかわらず、しかし神と共にある人生においては、それとは反比例に、ますます成熟し、全き人と成ってゆく姿があるのです。

その姿とは、神ご自身が私たちに対して願っておられる姿です。神が恵みをもって見出してくださる、私たち人間の本当の姿に外なりません。それは、自分のことしか考えないような子どもじみた人のことではなく、他者を思いやり、その隣人を神の愛によって造り上げることができるような、まさに愛の人の姿なのです。


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そこでパウロは、なお物の判断について大人になりきっていないということが、どんな状況を生み出すかについて、21節で「律法にこう書いてあります」と記しながら、旧約聖書の言葉を引用します。「異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇で わたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう」。

これは、本日併せてお読みしたイザヤ書第28章11~12節からの引用だと考えられます。よく照らし合わせてみると、言葉や文脈の違いがみられるのですが、しかしパウロには確かな思いがあったに違いありません。「異国の言葉」・「異国の人々」とあるように、自分たちとは全く異なる国の人々の言葉が語られる時、「彼らはわたしに耳を傾けないだろう」。つまり聞いても意味の分からない「異言」が語られる時、誰もそれに耳を傾けることはない、ということです。

否、それどころか、むしろ耳を傾けることができない不信心の心さえ明らかになる、というのです。異言は、そこで人々の信仰を呼び覚ますどころか、かえって不信心を呼び起こし、信じるということにおいて、躓きや頑なさを与える不名誉な徴ともなってしまう。22節でパウロが「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしです」と言っているのは、まさにこのことです。語る者が子どもじみた思いでいたずらに異言を語る時、それを聞く者もまた、子どもの姿から成熟できないのです。

ところが反対に、「預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるし」だとパウロは言います。語る者が神の愛の中で大人のように語るならば、それを聞く者も耳を傾け、成熟する。真の「預言」が語られる時、まだ信仰に至らない者の内にも信仰を呼び覚まし、その人を内側から造り上げ、信じる者としてゆくような力が、喜ばしい徴としてそこで発揮されるというのです。


では、今や異言ではなく預言で語るとは、どのように語ることでしょうか。前回読みました所の最後の19節に、こう記されていました。「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」。舌が動くままに、ただいたずらに一万の多くの言葉を語るよりも、たとえたった五つでも、舌を整え、言葉を整えながら、「理性」によって語ることをパウロは重んじようとします。

理性で語る。それは通じる言葉で語る、ということです。もしも「教会全体が一緒に集ま」(23節)っている時に、皆が皆、異言を語りたがって会堂中にそれが鳴り響けば、教会の仲間に加わって間もない人、あるいは神を求めて信仰の道を歩みたいと願っている人はどう思うだろうか。聞いてもさっぱり分からない。それどころか、彼らにしてみれば、異言を語る人たちは何か「気が変」になったのではないか。平常心を失ったのではないか。自分たちの理性では何も分からない。そんな思いを抱くことになるでしょう。

預言とは、つまり理性によって語られ、理性によって分かる言葉のことです。それを聞く者が「なるほど」、否、心から「アーメン」と言えるような言葉だと言っても良いでしょう。ただし、この理性とは単に論理的で、緻密で、理路整然としたもののことではありません。それはまず何より、キリストの理性を土台とするものです。

同じこの手紙の第2章16節に、次のような大切な言葉が刻まれていました。「『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか』。しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」。ここに出てくる「主の思い」・「キリストの思い」の「思い」という表現が、実は「理性」と同じ言葉です。馴染みやすいように日本語では訳し分けていますが、元々は同じ言葉です。ですから、預言が語られる(今日で言えば、説教が語られる)というのは、それは極めて理性による営みのことですけれども、そこで起きていることは、まさにキリストご自身の理性・思いが語られ、聴かれていることなのです。


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このキリストの理性・思いが見失われている時、私たちの理性も失われています。それだけではありません。私たちはそこで、実は愛も失っているのです。なぜならキリストの理性は、愛を伴うからです。愛に貫かれているからです。そしてキリストの理性は、私たちの内にも愛を造り出すからです。だからパウロはこの第14章初めに、こう訴えました。「愛を追い求めなさい」(1節)。

この、愛を求める人生の旅路で、私たちが本物の愛に根差すキリストの理性の言葉を、教会の預言の言葉を通して真実に聴くことができた時、その預言こそは、「人を造り上げ」、「教会を造り上げ」(14:3~4)るものだとパウロは言いました。この言葉は、既にどこかで聞いた言葉ではないでしょうか。「愛は(人を)造り上げる」(8:1)。

私には、この二つの言葉が決して偶然には聞こえません。キリストにおいて、言葉と愛は一つだからです。したがって、教会がキリストの体なる教会としてしっかりと立つためには、このキリストの愛に裏打ちされた言葉こそを、私たちは預言の言葉から聴き、語り、共に宣べ伝えてゆく務めに立たされているのです。


キリストの愛を伝える預言の言葉によって教会が立ち、私たちも造り上げられる。成熟した大人になる。「全き人間」となってゆく。そのようにして私たちの耳に届けられる預言の言葉は、いったい、どのように私たちを造り上げてくれるというのでしょうか。そこで最後に、今日のパウロの締め括りの言葉に注目したいのです。

「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(24~25節)。

教会で語られる預言の言葉に耳を傾けると、その人は「皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」る。何だか奇妙なことが言われているように聞こえるかもしれません。人を造り上げるどころか、逆にその人を公衆の面前で恥さらしにして、その場で突き崩してしまうような恐怖を抱かせます。

もちろんこれは、一人ひとりが、まるで法廷に引きずり出され、吊るし上げられるように周りを取り囲まれながら、「お前はこんな罪を犯した!謝れ!」などと糾弾される状況を描いているのではありません。そうではなく、この事が起きるのは、公衆の前ではなく、どこまでも真実なる神の御前でのことなのです。

その神の御前で真実なるキリストの愛の言葉を聴く時、いったい何が起こるのか。それは、ただ静かにしているようにしか見えないかもしれませんが、その人の心の深い所で、「あぁ、自分も罪を犯していたのだ。その罪に気づかないまま今日まで生きていたのだ。どれだけ人を苦しめ、またそのことで自分もどれだけ息詰まるような思いを重ねて来たか。否、もしかしたら、その罪に気づいていたのかもしれない。でもその罪を認めようとせず、告白しようともせず、それを受けとめてくださるお方から逃げ回っていた」。そのように、自らの過ちや愚かさにハッと気づかされる出来事に直面するのです。


預言の言葉を聴くということ。理性によってそれが分かるということ。でもそれはいつも耳に優しい仕方で、私たちを心地よくさせるものとは限りません。むしろありのままの姿でしか生きられない私たちに染み渡るような預言の言葉が注がれる時、そこに潜んでいた内なる罪が露わにされる。神なしに、神を棚に上げながら、いかに独りよがりに、またそれ故、いかに孤独と空しさの中を、苦しく歩んできたかを知らされるのです。

しかし大切なことは、己の惨めさに気づかされるまさにその時、もう一人ではないということです。神は決して私たちの罪を暴いて、崖から突き落とすようなことはされないのです。むしろ音を立てて崩れてゆく私たちの存在の最も深いどん底に光をもたらし、全力で支えていてくださる。決して逃げず、諦めず、途中で投げ出すこともなく、最後まで私たちを生かそうとしてくださる。立ち上がらせてくださる。その計り知れない罪の赦しという恵みの中で、私たちを造り上げてくださるのです。その約束こそ、あのキリストの十字架の出来事の他なりません。


*****

預言の言葉は、今日もこの世界に向かって、あなたに向かって、届けられています。この言葉を真実に聴く者は、「結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(25節)。

異言ではなく、預言の言葉こそが教会に響き渡る。キリストの愛の言葉が耳に触れる。その言葉を噛みしめながら、どうにか隣り人に届けようとする教会の人々の心に触れる。その時、もうあちこちと神を探しに行く旅をする必要はありません。愛に飢え渇く旅路を続ける必要もありません。神がもうそこに来ておられるからです。「まことに神はあなたがたの内におられます」という言葉が、自分の口を突いて出てくるのです。

これは、自分の足をその場から一歩引いた所で語るような、実況中継の言葉ではないでしょう。告白の言葉であり、讃美の言葉です。あぁ、神が本当におられる。そしてこの自分の内にも! 罪で汚れたこの自分の体をも、ご自分の住まいとして共に歩んでくださる。神の愛の中で、キリストの深い思いの中で、この私が造り上げられてゆく。預言の言葉を聴く者が、心から「アーメン」と言いながら、その自分の心にも信仰が生まれて来るのを喜ぶのです。

今年創立99年を迎える私たちは、まもなく100周年を迎えます。しかしそれは、単にカレンダーをめくり続けるだけの積み重ねではなかったはずです。伝道のために刻んで来た時である。伝道開始からの99年でり、100年である。神の預言の言葉が語られ、キリストの憐れみが注がれ、隣り人から隣り人へと、絶えず主の愛の言葉が受け継がれて来た歩みに外なりません。私たちも、これに連なる者として、主の愛の内にさらに豊かに造り上げられてゆくことを願ってやみません。そして、この地にキリストの教会が建て上げられるために、尊い預言の言葉を携えながら、ますます喜んで遣わされて参りましょう。


<祈り>

天の父よ。あなたがお立てくださったこの教会に、今日も預言の言葉を与えてくださり、心から感謝します。どうか、教会で御言葉を語る者を力強く支え続けてください。そして、御言葉を聴く者が教会の中でも外でも、あなたを証しする喜びに生きることができるように絶えず励ましてください。あなたの御言葉に新しく聴くことが、真に己の罪を悔い改め、真にあなたの赦しの恵みに生きる希望となりますように。主の御名によって祈り願います。アーメン。


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